ナイフ
虹の所属する陸上部は、体育の日に地区大会を控え、練習時間が増えていた。朝も放課後も、精力的に汗を流す日々が続く。虹もその例外ではなく、秋晴れが続いて気温も丁度よく、存分に好きな高跳びに打ち込めていた。
そんな毎日の中で、言い知れぬ不安もいつしか薄れていた。繰り返す穏やかな日々に、虹は、あの時抱いた心許ないような沈んだ思いは、きっと自分自身が何か精神的に参っていただけだったのだろう、と思った。“病は気から”なんて諺みたいなものだったに違いない。
ある日の夕方、部活動の最後に、顧問が高跳び専攻の部員を集めた。
「一週間後の地区大会の代表を発表する」
虹の喉から、ごくり、と唾を飲み下す音がした。召集された時点で、選手の発表だろうと予測していたものの、改めて宣告を受けると、心臓をわしづかみにされるような気分だ。
代表として大会に臨むことができるのは二人だ。虹は、今まで大きな大会へ出場した事は無かった。三年生が引退した今、チャンスは大いにあるが、それでも狭き門である事は変わらない。
「まず一人目は、二年の上杉」
中学時代から注目されていた選手である部員の名前に、納得のような、やっぱりなと言うような拍手とざわめきが起こる。残るは一人。虹は、もう一度唾を呑み、密かに手を握り締めた。
「二人目は」
途端にざわめきが消える。
「お前だ、一色」
顧問の言葉に、一斉にどよめきが起こり、一人目の発表よりも若干大きな拍手が湧く。しかし、視線の中心に立つ虹は、硬直したままだ。
「一色先輩?」
隣に立っていた後輩が、心配そうに虹を見上げる。虹は、前を見つめたまま口を開いた。
「一色って言った?今」
「え、はい」
「一色って、俺かな」
「…しかいませんよ」
「だよな」
虹の尋常じゃない様子に、祝福ムードが訝しげに変わる。一同がその表情を見張る中、虹は暫くそのままで突っ立っていた。かと思うと、突然叫んだ。
「よっしゃあ!」
ビクッと身を震わせて後退りする友人達にも構わず、虹は、振り上げた右手を何度も上下させる。歓喜の声も言葉にならず、その場でじたばたしていた虹は、ぽかんと口を開ける面々の前から突然駆け出した。一同が、あっと気づく頃には、虹はグラウンドから消えてしまっていた。
―やっべぇ。どうしよう、めちゃくちゃ嬉しい!
とても立ってなどいられなかった。その場で跳びはねるぐらいじゃおさまらない興奮に、たまらず駆け出してきてしまったけれど、まだ足りない。どこかへ吐き出さないと破裂してしまいそうだ。虹は、管理棟の東側まで全速力で駆けていくと、一旦足を止め、空へ向かって思い切り叫んだ。
「テーン!」
伝えたい!きっと、いつものようにこの上にいるはず。天音を捕まえて、この溢れ返るほどの喜びを全てぶちまけたい。虹は、天音と自分の特等席を目指した。わざわざ校舎に入って管理棟へ行って…なんて道のりがまどろっこしくて、すぐそこにある非常階段に足をかけた。カンカンと尖った音を立てて駆け上がる勢いは、自分でもびっくりするぐらいだった。
「テン!」
たどり着いた屋上で、再び天音の名を呼ぶ。広い広いコンクリートの平地に、天音の姿はない。虹は、すぐに物置の方へ視線を移した。
―いた!
天音は、物置の上でこちらに背を向けて座っていた。虹は、満面の笑みのままそちらへ駆け寄った。そして、小さな梯子を軽くよじ登って物置の上へ上がると、すぐに声を弾ませた。
「テン、テン聞いて!俺さぁ」
一瞬でも早く伝えたくて、体勢も整えないうちに言葉を発した虹は、次に目に飛び込んできた光景に表情を凍りつかせた。
「て、テン…?」
いつものように、少し虚ろで眠たそうな垂れ目と気怠い口元で振り返った天音は、膝を立てて座った体勢で、左手を両足の間に無気力に垂らしていた。その手には、彫刻刀が力無く握られていて、夕日を浴びて橙色の妖しく鋭い光を放っていた。
怖い、と、虹は、そう率直に感じた。表情だけじゃなく、体全体が冷たく、身動きがとれない。
「な、にしてる?」
切れ切れに、やっとの思いでそう言った。すると、天音の瞼が少し上がり、半開きの唇に笑みが浮かんだ。
「あら、お疲れ様」
ほんわりとした口調に、虹の体の力が抜ける。思わず止まった呼吸を取り戻してもなお背筋に冷たいものを感じながら、虹は引き攣った笑みを浮かべた。
「は…何、物騒なもん持ってんだよ」
そんな虹に、天音は首を傾げた。
「何がですか?」
強張った表情の虹を眺めながら、やがて天音は「あぁ」と頷いた。
「もしかして、これですか?」
天音が、彫刻刀を持つ手を少し上げて見せる。夕日が逃げ出し、橙色の光が失せた。
「今ね、美術の課題やってたんです。疲れたし、暗くなってきたし、そろそろ切り上げようかなぁ、と思ってたとこ」
天音の足元には、模様を刻まれた小さな木板が置かれていた。それを確認するなり、虹はその場に崩れ落ちた。
「なぁんだよぉ。心臓に悪いぃ」
腰が抜けたを通り越して、骨まで抜けてしまったのではないかと思うほどに脱力した虹は、そのまま仰向けに寝転んだ。
「あぁー、マジ焦ったぁ」
顔をぐしゃぐしゃにして額を押さえる虹を、天音が横目に見下ろす。
「まさか、また自殺しそうに見えたとか言います?」
「見えた!」
虹が即答する。
「紛らわしい事してんなよなぁ」
虹の言葉に、天音は眉間を寄せた。
「そんなん、コウちゃんが勝手に勘違いしてるんやんか」
「あはは、わりぃわりぃ」
虹が体を起こす。天音は唇を尖らせて、そちらへ体を向けた。
「コウちゃん、いつもおかしな早とちりばっかや。そんなに生き急ぎそうに見えますかね、僕は」
「いや、なんかそーゆー不思議なオーラが」
「そんなん放ってるつもりはありませんよ」
天音が、呆れたように溜息をつく。
「困った人や」
しかし、すぐにやわらかく微笑んで、天を仰いだ。そんな天音の隣で、虹も笑う。
「はい、すみません」
二人は、高台から望む三六〇度の景色を眺めた。夕焼けに染められた風景は綺麗で、時折感じる風は心地好い。なんて穏やかな夕暮れなんだろう。
「ねぇ、コウちゃん」
天音のおっとりとした声は、あたたかなオレンジ色に溶け込むように自然だった。
しかし、次の瞬間に全ての穏やかさをぶち壊したのは、正にその声だった。
「そんなに死にそうに見えるなら、いっそ死んでみせましょうか」
心臓が止まるような感覚を覚えた。虹は、すぐに反応できなかった。首の骨がギシギシ軋むほど、少しずつ少しずつ天音の方へ顔を向ける。そこにあった天音の姿に、虹の心臓は気色悪く脈打った。
さっきと同じ、膝を曲げた体勢でこちらを向いて、虹を真っすぐに見つめている。両手には、あの彫刻刀が握られていて、せの刃先は、天音自身の喉仏に突き付けられていた。
「痛いでしょうね。ひと突きしたら」
虹の手が、足が、ガクガクと震え出す。
―今度は…今度こそは、早とちりや勘違いだなんて言わせない。
「何、考えてんだ…」
唇まで小刻みに震えて、うまく喋れない。
「やめろ…テン」
「血、たくさん出るんでしょうね」
「手、下ろせ」
しかし、天音は手を下ろそうとはしない。
「仮に命が助かったとしても、声は失うやろなぁ」
虹は、震える手を天音に向けて伸ばした。天音はすぐそこにいるのに、その手からナイフを奪う事はおろか、天音に触れる事すらできない。
―怖い。
目の前の天音の行為が?いや、違う。やけに平然とした、冷めた目の天音が、ひどく恐ろしかった。
「もしも僕が逝けなかったら、見捨てて下さいね」
「やめろって…」
「むやみに助けないで」
「なぁ、やめてくれよ」
震える声で必死に訴える虹の目は、恐怖に満ちて今にも泣き出しそうなのに、涙さえ凍りつき、滲みもしない。そんな虹が見えているのかいないのか、天音の表情は微塵も変わらない。
「だって、そんな僕が生きていても、意味が無いじゃないですか」
虹が伸ばしかけていた指先が、ぴくりと動く。
「声を失った僕に、大した価値なんて無いんですから」
それまで伸ばし切れずにいた虹の右手が、天音の頬を打った。天音の手の中の彫刻刀が、音を立ててコンクリートの上に落ちる。
「…なんなんだよ、お前」
刃物の鋭い落下音が、虹の冷え切った体に熱を与えた。やたらゆっくりと大きな鼓動を刻んでいた心臓は、血が通いだして不気味に早まる。
「何考えてんのかわかんねぇよ。なんでこんな事すんだよ」
天音は、頬を打たれて右向きになったままの体勢で、頬を押さえて俯いている。噤んだ唇を開こうとしない天音に、虹は、腹の底が持ち上げられるような感覚を覚えた。
「テン!」
虹が、天音の肩を掴んで鋭く怒鳴り付ける。
「何か言え!」
すると、天音は顔を上げ、怖じけづくでもなくその目を真っすぐに見返して答えた。
「別に何もありません」
「じゃあどういうつもりだ!」
虹の手が強まり、天音の体を揺さぶる。
「俺への嫌がらせか!?俺の事怖がらせて、困らせて、それで楽しんでんのか?!」
天音は、少し目を大きく見開いて首を振った。
「そんな事ありません!」
「じゃあなんだ!」
喉がちぎれそうな声を上げ、虹は力無くうなだれた。
「なんでだよ…」
ズキズキと胸が痛む。
「…いい事あったんだよ。テンに聞いてほしくて、どうしようもなくて。ただそれだけで飛んできたんだ」
疲れ果てたように弱々しい声が訴えかける。
「それなのに…なのに、なんで。なんでそういう事すんだ、お前は…」
天音の肩を掴む手が震えている。さっきまでの震えとは違うものだというくらい、天音にもわかった。
「頼むから…」
虹の声が、涙混じりに変わる。
「これ以上俺を不安がらせないでくれ…お願いだから」
虹の胸の中を、いつかの言い表し難い不安がじわじわと覆っていく。苦しい。切ない。哀しい。怖い。そんな感情が、震える手から伝わってきて、天音の胸がしくりと疼いた。
「…ごめんなさい」
小さく掠れた声。ゆっくりと穏やかで、申し訳無さも切なさもうかがえるほどに温かみのある声。その声を聞いて、それまでいつもと変わらないと思っていた天音の声が、感情の無い、とても冷たいものだった事に気付いた。顔を上げた虹が見た天音の表情も、優しかった。しかし、虹の不安を拭い去る事はできなかった。
―いつものテンじゃない。
伏せたその目に、小さなその声に、噛み締めた唇に。いつもの天音には無い何かが垣間見えていた。
「悪ぃ。今日は帰る」
虹はそう言うと、立ち上がり様に、コンクリートの上に落ちた彫刻刀を拾い、天音を見下ろした。
「これは預かってくから」
天音も、この期に及んで、課題が出来ない、などと屁理屈は言わなかった。黙ったまま、頷きもせず座り込んでいる天音に、虹は最後にこう言い残した。
「しぶとく、永遠に生き延びてみせろよ」
それは、あの日、天音が虹に言った言葉だった。
『僕は、永遠に生き続けてみせます』
自らが口にしたあの言葉が、今、天音自身に重くのしかかり、立ち上がる事さえ出来ない。
『例え格好悪くても、無様でも、他の誰かに生きる資格を追われても』




