曇り硝子の向こう側
季節は冬。
結露した曇り硝子の向こうには雪化粧を施された街並みが広がっている。
曇った硝子を手で拭う。
けれども曇りは広がるばかりで薄れる事がない。手は水滴だらけで、私は誰に言うでもなく「気持ち悪い」と口に出した。
若干曇りが薄れた窓の向こうでは、未だに雪が降っているようで、この調子では夜までに積雪はもっと高くなるだろう。
学生である私にとっては、学校を合法的にサボタージュ出来るので、雪が降ってくれるのは有難い事この上ないのだが、それでも私は雪が嫌いだ。と言うか冬が嫌いだ。
寒いし、暗いし、乾燥するし。
良い事なんて、学校が休みになる事くらい。
そして今日、学校は休み。
当然と言えば当然の事なんだけど。
これだけ雪が降っていれば、公共交通機関なんて、確実に麻痺してしまうから。
そうなると、職員の人たちはその日一日どうなるんだろう? 休みになったりするのかな?
まぁそう簡単に問屋はおりないか。
きっと働き続けるんだよね、何があっても。
「大人の世界って嫌だな」
そう言って、私はベッドの上に思い切りダイブした。長年に渡ってダイブしてきた所為なのか、はたまた私の体重の所為故か、ベッドは盛大な軋みを上げながら、私をキャッチした。
「私重くなったかな……」
時計は午後十二時をさしていた。
ベッドへダイブしてから早二時間、私はこれからの予定を考える事もなく、だらだらと怠惰な時間を過ごしていた。
お腹の虫が鳴き出したので、階下のリビングへ向かう。リビングの扉を開けて中へ足を踏み入れるが、当然のようにリビングは空っぽで誰も居ない。
両親は共働きで私は一人っ子。
こういった光景には耐性があり、慣れている。
と強がりを言ってみても、私もまだ高校生であって大人ではないから、全く寂しくないとは断言出来ない。
備え付けられているトースターに電源を入れ、食パンを二枚セットする。
数分後、ガチャンと小気味良い音を立てて食パンが焼きあがる。
ピーナッツバターをこれでもかと塗りまくり、これではトーストを食べるというより、ピーナッツバターを食べているのでは? との錯覚に囚われながらも、モシャモシャと咀嚼していく。
「うん。やっぱりトーストにはピーナッツバターだよね!」
と、誰も居ないリビングで無駄に声を張り上げながら独り言を発した直後、インターホンが鳴り響いた。
こんな昼時に一体誰だろう。
訝ししりながらも、玄関へと向かう。
「どちら様でしょうか?」
扉を開けずに声をかける。
暫しの沈黙の後、声が返ってくる。
「あ、あの斎木さんのご自宅でよろしいでしょうか?」
恐る恐ると言った感じで、男性は言う。
ふと思う。何処かで聞いた事のある声だと。
「はい、そうですが」
再びの沈黙の後、深い溜息が聞こえてきた。
溜息の感じからして、おそらく安堵からくる溜息だと思われる。
「あぁ、よかった。優衣さんはいらっしゃいますか?」
刹那、私は後ろに飛び退いた。
とは言え、別に危機的状況に追い込まれたからと言うわけではなく、単に私の名前が出てきたから少しびっくりしてしまったのだ。
扉に近寄り、慎重に慎重を重ねながら言葉を返す。
「はい、優衣は私ですが」
「優衣ちゃん! 優衣ちゃんなんだね! よかったー!」
謎の男性が、雪が降る極寒の外で何やら歓喜している。きっと体感温度は真夏なのかもしれない、彼の中心だけ。
「僕の事覚えてる?」
覚えてるも何も、顔を見なければ判断しかねる。でも、確かに声は何処かで聞いた事がある、気がする……
何やら、嫌な思い出が頭の奥底から湧き上がってきそうな予感がしたので、とりあえず自らの頭に拳骨をかまし、外で一人盛り上がっている謎の人物改め、不審者への対応に移る。本当に不審者なら、然るべき対応をしなければないらないため、リビングから駆け足で固定電話を持ってくる。これで盤石。
「覚えてる? と言われても、流石に声だけでは判断しかねるのですが」
「じゃあ、開けてもらっていいかな? 流石に凍え死んでしまいそうだ……」
そのまま死ね! と出かかった言葉を無理矢理飲み下し、言葉を続ける。
「あなたが誰だかも分からないのに、開けると思いますか?」
「うっ……相変わらず辛辣だな……」
相変わらず? と言う事は、私はこの不審者(仮)と何処かで会った事がある……?
「とりあえず名前を教えてください」
今度の沈黙は先程二回のものより、若干長いように感じられた。どうやら名前を晒す事を逡巡しているらしい、たぶん。
「あんまり聞きたくない名前だと思うんだけど、まぁ仕方ないか。嫌いにならないでね、優衣ちゃん。僕の名前はーー」
「ちょっと待って!」
私は不審者(仮)の言葉を最後まで聞かず、ご近所さんへの体裁も関係ないと言った感じに叫び出していた。
「ど、どうしたの?」
不審者(仮)はどうやら私の態度の変化に戸惑い狼狽しているようだ。
彼の放った言葉の中に、私の記憶と一致する言葉があったのだ。
『嫌いにならないでね、優衣ちゃん』
記憶の中の彼は、とある冬の日、そう言い残して私の元から去って行った。
「冬月お兄ちゃん……」
自然に口を告ぐ大切な人の名前。
「ごめんね、長い間連絡も出来なくて……」
身体が自然と動きだし、扉へと手を掛ける。
開け放たれた扉の向こうには一面の銀世界、そして彼の姿があった。
年の離れた従兄。
私がまだ幼かった頃に、突然旅に出るなどと如何にも若者風な台詞を残して旅立った、当時無職だった冬月お兄ちゃん。
でも私にはいつも優しくしてくれた。
お金が無いから何も買って上げられないけど遊びに行こうか、なんて実に恥ずかしい事を笑顔で言っていた冬月お兄ちゃんが私の目の前に立っている。
「おぉ、優衣ちゃん! 大きくなったなぁ!昔みたいに抱っこして上げよう!」
「ちょ、ちょっと待って!」
有無を言わさず抱き上げられる私。
これが俗に言うお姫様抱っこと言うやつか!
顔が沸騰したように熱くなる。
「冬月お兄ちゃん、ちょっと待ってよ! 連絡も寄越さないで突然帰ってきて!」
私の叫びを聞いているのかいないのか、うんうんと分かったような顔をして何度も頷いているが、きっとこの人は何も分かっていない。
「優衣ちゃん……」
何やら深刻な表情をしている。
長旅で何かあったのだろうか。
自然と私も真面目な表情になる。
「重くなったね!」
時間が止まった。
体重を何よりも気にする、かどうかは一概には言えないが、そんなお年頃の女子高生である私に対して、この男は今何と言った。
『重くなったね!』だと……!
しかも満面の笑みを湛えながら。
私は確かに冬月お兄ちゃんが好きだった。
顔をいいし、優しかったし、何より無職故に私とずっと一緒にいてくれたし。
それだけが取り柄だった。
でも今の冬月お兄ちゃんの姿はどうだ。
顔には無精髭を生やし、腹は出て、頭頂部は残念な事になっている。
それならまだ許容出来る。
許容出来ないのは発言に対してだ。
私は覚悟を決め、そして時間は動き出す。
冬月お兄ちゃんにお姫様抱っこをされた体勢のまま、私は冬月お兄ちゃんの顔面目掛けてグーパンチを繰り出した。
「ぐはっ!」と如何にもな悶え声を上げながら、体勢を崩す。
私は瞬時に腕の中から飛び出す。
「いきなり、何を!?」
驚愕に身体を震わす冬月お兄ちゃんに対し、私は「問答無用!」と叫び、追撃をしかける。
私が拳を握り締めていた事から、顔面への攻撃だろうと推測した冬月お兄ちゃんは、それがフェイントであるにも関わらず、腕を顔面に回す。
「股座がガラ空きだぜ、冬月お兄ちゃん」
最高にクールな決め台詞を決めた私は冬月お兄ちゃんの股間目掛けて、蹴りをお見舞いした。
声にもならない断末魔を上げた後、冬月お兄ちゃんはその場に倒れピクピクと痙攣していた。まぁ死んではいないだろう。
私は曇天の空を仰ぎ見る。
雪は大分収まってきているようだが、まだチラホラと待っているようで、時折私の身体に降ってくる。
掌に乗った雪の結晶を見て私は思う。
どんなに好きでいても、その人は必ず何処かへ去って行ってしまう。
つい先程まで掌にあった雪は既に溶け、水滴に変わっていた。
不変なものなど、この世には存在しない。
雪に埋れて伸びている冬月お兄ちゃんに視線を向ける。
私は微笑してこう言った。
「やっぱり私は冬が嫌いだ」




