19話‐6 拡散の式
「……ぅ、ん」
弱々しいうめき声に、ふたり揃って息を呑み、マージャに目を向ける。
「起こしちゃったか?」
優しく声をかけ、梓は慌てたようにマージャの手を取る。もしかして、と思う。梓がマージャに触れているのは、拡散の式がマージャの石の呪いに作用していたりするのだろうか。いつも、欠陥のある魔術道具で無理矢理押さえつけている魔力を散らしてやれるとか。
首を振ろうとして、痛みに襲われたのか、マージャは包帯に隠されていない眉を思いっきりしかめた。そして、ごく小さく「ううん」と囁く。
「マージャ……」
どう切り出したら良いものかわからず、名前を呼ぶだけで言葉に詰まる。力なく、こんな時でもてへへと笑ってみせるマージャが口を開く。
「どうせばれてるんだろうから言うけどさ。アーチの受けた致命傷を、俺が肩代わり出来る魔術式を仕込んでおいたんだ。いつか絶対こんなことがありそうな気がしたんでさ」
「そんなことをして、俺が嬉しいと思うか?」
「おまえのためじゃないよ。俺は、俺の望みを叶えるために、ソースを失うわけにいかなかったんだ。それだけなんだから、アーチが気に病むことなんか何もないだろう?」
こいつは、呪われて、苦痛を背負って、それでも周囲に目を向けることが出来る。そうしてやたらと頭も回るものだから、俺はまんまとその見込み通りに行動してしまったわけだ。
「……こんな目に遭わせちまって、本当に、悪かった。でもこんなことはもう認めないからな」
「……そう言うんなら、当然、さ。アーチももう、こういう無茶はしないんだよな?」
俺達は主従関係じゃないんだから、一方的に命じることなんか出来やしない。俺が求めるなら、マージャからの希望だって聞いてやらないと。
「俺の周りには、おまえみたいな奴がいるんだってことは、頭に入れておくよ」
「梓の髪ったら、いつでもさらさらでうらやましいな」
麦穂のような黄金色をした梓の髪をすきながら、カリンがため息と共にぼやく。
「楓が色々つけろって言う通りにしたから、こうなったんじゃないのかなぁ」
「あたしが同じことをしたって、梓の髪みたいにならないもの」
アクアマリンには、公衆浴場がある。お茶目なある火の精霊・サラマンダーが、ちょっとした遊び心で水を温め湯を張ってみたら想定以上に魔物達の受けが良かったので、そのまま商売にしてしまったのだという。
梓から聞かされた話だと、カリンから毎晩シャンプーするように、リンスとトリートメントも定期的にするようにとうるさく言われているのだそうで。確かに、カリンの黒く長い髪は下に向かって癖が強く、裾が広がるようになっている。梓の鮮やかな髪色と、まっすぐすとんと落ちたストレートヘアーがうらやましいのは、女の子としてはありえる話かもしれない。
朝っぱらからイチャイチャと……じゃなかった、彼らが何をしているかというと、今日は闘技場の予選開催日だ。その試合に参加する梓と、彼の闘いをサポートするカリンは、早朝からコンディションのチェックに余念がない。梓の体調と装備品の確認などを行って、仕上げにカリンは梓の髪をまとめているのだ。
生物の、魔力の源は心臓にある。しかし、魔力は眼球、頭髪のどちらかに色として表出する。魔物の世界に生きていて魔力が髪の毛に表れた者は、 少しでも多くの魔力を活用するために、好みじゃなかろうが髪を伸ばす羽目になる。梓も例に漏れずそうしていて、闘技場での試合で派手に動くにあたって髪が邪魔に ならないよう念入りにまとめ上げる。しかし梓はあまり器用でないらしく、それもまたパートナーであるカリンに任せているそうだ。
「髪の毛なんか気にしなくたって、楓はじゅうぶん可愛いし、それ以上にしっかり者で優しくて、こんないい女そうそういないよ。どんな男だって放っておかないって」
「説得力のないことを言うよね、もう……」
表情を寂しげにして呟くカリンに、その先の言葉を聞く前に、梓の発言が地雷だったと察しがつく。
「いくらそう褒めてくれたって、あたしが一番に見て欲しい人に伝わらなかったら、意味がないじゃない……」
それきりカリンは口をつぐむし、梓は梓で自分のしたことの自覚はあるらしい。それを見てみぬ振りをするようつとめて、しかし表情をつくろうのが苦手らしくほんのり顔をしかめている。
梓とカリンは、お互いにとってこんなに特別で、お互いを頼りにこのアクアマリンで生きているのに。どうしてこんな風にすれ違ってしまうのだろう。梓は カリンに、自分以外の人間の男と結ばれて、人間の社会で人並みの幸せを築いて生きて欲しいと願っている。それはわかっているが、だからといって。彼女が梓を好いている気持ちを、こうも頑なに無視出来るものだろうか。自分だってカリンのこと、特別に想っているくせに。
そして俺は、このふたりを見ていると、どういうわけか無性に焦燥感を覚えている。まさか仲睦まじい彼らに、寂しい独り身が妬いているってわけでもないだろうに――流石に、俺も自分がそこまで器の小さい人間だとは思いたくない。
そういう心境であると同時に、これから戦いに向かうふたりの大切な準備を邪魔するのも憚られる。俺は春日居先生の蔵書から適当に一冊抜き出して、黙々と読書に 励んでいるのだった。この家の壁ほぼ全面を覆っている本棚、その中身は、不可侵条約を締結してまもなくアクアマリンへ渡った最初のひとりからこっち、春日居家に代々受け継がれてきた研究成果だ。研究資料として用いた書籍に限らず、春日居家の研究者達がしたためてきたレポートをまとめたノートもある。俺が興味深く読めるのは、主に後者だった。つい先程まで目をやっていたのも、三百年前、最初にこの島へ渡ってきた春日居 奏氏の手記だった。戦後の混乱の中で、わざわざアクアマリンへやって来た理由に興味があったから。
「それにしても、あなたも随分と付き合いがいいよなぁ……」
連れ立って闘技場へ向かったふたりを見送ると、入れ違いにやって来たのはブルー・フェニックス=フォボス……もとい、ツヴァイクだった。梓もカリンもここを空けては俺の守りが手薄になるからと、梓に留守を守るよう頼まれたらしい。
そもそも、無事に地下牢を脱出出来たのだから、俺はもはやアクアマリンに留まっている必要はなかったりする。エメラードへの船は月に一度しか出なくても、人間の島へは毎日欠かさず船が運航しているのだから。しかし、俺の身代わりになって重傷を負ったマージャを置いてここを離れる気にはなれない。あいつの負傷は、人間の島で治せるようなものじゃない――マージャの体の事情から、真っ当な人間の医者にはかかれないのだから。
「私にも所用があってな。そのついでであって、何もそなたのためだけに、ということではない」
その言い種は、彼の半身だというレッド・フェニックス=ディモス……シュゼットを思い出させる。結局は力になってくれるくせに、言い繕わずにはいられないところが。
とはいえ、俺の護衛以外に目的があるというのも事実ではあったようで。
「カタリナよ、そなたに伝えておきたいことがある。時間を貰っていいだろうか」
息子とそのパートナーのやり取りを時折微笑ましげに眺めつつ、基本的には自らの研究に没頭する最中だった春日居先生に、ツヴァイクが声をかける。
カタリナ、というのは魔物名とは似て非なる由来を持つ、春日居先生のアクアマリンでの通称だ。魔物名とは本来、魂の式との相性から決まるものだが、代々アクアマリンの研究者を排出してきた春日居家が研究成果と共に継承させてきた名前だった。
「なんだい、改まって」
「ひと月程度、子供達を連れてアクアマリンを離れて貰えないか。……ここは、直に火の海となるかもしれない」
「子供達、というと、梓や小笠原君、高泉君にマナのことかい」
「ああ。そなたは仮にとはいえ、彼らの保護者であろう」
養子と養父の関係である梓はともかく、赤の他人の子供である俺達も数えていいものだろうか……と思ったが、春日居先生は一寸の躊躇いもなく「もちろん」と肯く。まぁ、確かに俺達がアクアマリンにいて頼れる大人は春日居先生だけなんだが。そして春日居先生は、これまでの人生で積み重ねてきたアクアマリンとの信頼関係を盾に、俺達を守ってくれているのも事実だ。
「それにしても、火の海とは穏やかじゃないな。そんな噂は聞こえてこないが、確かな情報なのかい」
「情報などあるはずがない。これは私達をおいて他に誰も、預かり知るものではないのだから……」
春日居先生には心当たりがあるのだろうか。訝しげにしていただけの表情を一瞬だけ険しくして、すぐに保護者の顔へ戻す。
「これから何か起こるとしても、それがアクアマリンの、まして君の危機であるならば、梓にはいくら説いても無駄だよ。てこでもここを動かないだろう。一応、君の気持ちは彼らに伝えておくけどね。……それより君こそ、まるで外見相応の子供のように不安そうな顔をして。心細いことがあるのなら、私にでも梓にでも相談して貰って構わないんだよ?」
ツヴァイクは俺に背を向けていて、どんな顔をしているのかは知りようがない。だけど、その後ろ姿だけでも、幾分肩を落としているように見えなくもなかった。
研究者としては、アクアマリンの魔物からも一目を置かれるほどに。親としては、血のつながらない息子、梓のこの上ない健やかさに。春日居先生の姿は、ひとりの大人として純粋に尊敬出来るもので。俺はいつかはこんな風に、どこで生きていても自分の足でしっかと自立していける人間になりたいものだと思う。
だけど――完全無欠な人間などいない、というのは、実際そういうものであるらしい。
「大したものだなぁ、高泉君は」
「いや、有り合わせのの食材を適当に煮て、雑炊にしただけですし……」
謙遜などではなく、本当に、缶詰置き場に積まれていた中から煮物に使えそうなものをいくつか選び、なぜかあった米と調味料を加えて鍋とガスコンロで煮てみただけで……。
自分で作ったものを口に入れると、なるほど考えなしに選んだ食材と缶詰のつゆが都合良く調和してくれたようで、雑炊というよりコンソメスープのような味を呈していた。
この人に欠点や不得手な分野などあるのだろうか、そう思ったところで発覚した思わぬ弱点。春日居先生は致命的に料理が苦手らしい。ここで暮らして数日、カリンは朝昼晩の三食を欠かさず作りに来て、なんてかいがいしい人だと感心したものだが、真相はこういうことだった。
本日は梓が闘技場の試合に参戦し、カリンはそのパートナーとして同行している。彼らはおそらく夜遅くまで帰らないだろうから、私達で適当に食べてしまおう。春日居先生は、そう言った。度肝を抜かれたのはその後だった。
台所の隅へ無造作に放られていた食パンを袋から出し――きちんと密閉したとしても、食パンは傷みやすい――カビの浮いたそれに、銘柄を確認もしないで開けた鯖の缶詰をのせる。びちゃびちゃと汁を染み込ませたそれを口に入れようとした瞬間にツッコミが間に合った。まさか、それを食べるんですか?
口に入れて胃袋に届けば何だって同じだよ、何の疑問もなくそう告げる春日居先生に、カビの生えたパンはさすがに腹を壊さないかと訊ねる。案の定、というべきか、こんなものでも食べ続ければ免疫がつくのか、今はこれくらいで腹を下さないよとのお答え……。
何というか、あれだけ精力的に活動している梓が、その割に体格が控えめなのはおそらくこれが原因だろう。この親子の食事にカリンが手をかけてやる理由もしかり。
疲れて帰ってくるだろう梓とカリンに、こんな食卓で出迎えるのは、誰が構わなかろうが俺はしのびなく思う。俺だって特段、料理が得意ということもないが、せめて火を通した食事を用意しておきたかった。
「ただいまぁー!」
満面の笑みで帰ってきた梓に、予選の結果は聞くまでもない。おかえり、と言いつつ春日居先生が頭を撫でる光景は、梓の年齢を考えると幼すぎる気もするが。父子ふたりと、後から入ってきたカリンの目にも自然な光景であるようで。人間の島でごく普通に生きてきた俺とは感覚が異なるのだろうと納得する。
「このお料理、敦君が作ったの?」
「料理って程じゃないよ。缶詰開けて煮ただけだし」
「ううん。いつもそのまま食べるばっかりじゃ味気ないもの。ありがとう」
普段は自分が俺達に料理を振る舞ってくれているというのに、カリンは律儀に俺へ礼を述べた。
「せっかく高泉君が用意をしてくれたんだ。あの話は食べてからにしよう」
「あの話って?」
「だから、それは食事の後だって」
きょとん、と目を丸くして問う梓を、春日居先生はかる~くかわして、さぁさぁと俺達を食卓へ押しやった。




