18話‐3 都市の島アクアマリン
ボーンにはマージャの件でも意見を貰いたかったので、今日はここに泊めてもらうことになった。
完全に夜が更ける、少し前のことだった。荒々しく戸を叩く、しかしぼふぼふと妙に間抜けな音が聞こえてくる。俺が訪問した時と全く変わらず席についていたボーンが、これまたさっきと同じように骨を動かし、扉を開ける。
「たいへんだ、たいへんだ」
「ナウルか。君が慌てるとは珍しい」
訪問者は、ハーピーのナウルだった。羽毛に覆われた手で戸を叩いたせいか、抜けた羽が下に乱れ落ちている。
「セレナートが、ひとじち? になったぞ。ソースの身柄とこーかんだと」
聞きかじりの言葉をあいまいに使うナウルに微笑ましさを感じている場合ではない、一大事だった。エメラードの水源であるセレナートを失えば、この島の大森林は死滅してしまう。
しかし、だからこそ、この島に彼女を危険にさらす者などいないはずだった。仮にアクアマリンからの刺客だとしても、エメラードは魔物という種族全体にとって大切な生まれ故郷だ。どちらにせよ、セレナートに手をかけるなんて考えられない。
「ふざけやがって、どこの馬鹿の仕業だよ」
「キメラだ。フェニックスのしもべだ」
「シュゼットの?」
一度だけ、姿を見たことがある。よく覚えていないが、複数の獣を混ぜ込んだような、異様な形をしていたっけ。
「このナウルが、とんではこんでやろうか。ソース」
「いや、それはやめとけ。そのままムシュフシュの奴に差し出されるかもしれないからな。水源までそんな遠くもないし、敦とセレナートで交換条件なんだろ? 顔出すまでは手出ししないだろ」
豊の切り返しに、ナウルが舌打ちする。どうやら魂胆を言い当てられたらしい。彼女はライト達と親交があって、ソースである俺に敵意を向けたことのない、稀少な魔物だったのに。それだけの一大事なんだ、セレナートの危機は。
水源へ向かう道中は、他の魔物からの襲撃にも備えなければならなかった。豊と、結局は力を貸してくれることになったナウルの協力もあって、どうにか無傷で水源にたどり着く。
水源を取り囲んでいた魔物達は騒然としていたが、俺の姿を見ると口をつぐんだ。一斉に向けられる視線は突き刺さるように厳しかった。不思議と恨みがましさは感じないのは、ただ単純に疑問なのだろう。俺と、シュゼットの腰巾着でしかなかったキメラとの関わりが。それが何より不可思議なのは、俺自身なんだけど。
「シュゼット……」
人だかりの最前線、水際に佇んでいたシュゼットがこちらを見やる。その表情に、これまでに見てきた彼女の面影はない。ただただ心細そうな、外見相応のか弱い少女のようだった。
シュゼットの隣に立ち、水源の中央に目を向ける。予想通り、キメラと、捕らえられたセレナートの姿があった。彼女は拘束されていないが、急所である心臓のある部分――ウンディーネやエルフのような種族にも、心臓はある。そして、魔力の中心である心臓を破壊されれば、その魔物は死んでしまう――さそりのしっぽのように尖った茶色の尾が、触れそうな距離で突きつけられている。赤い毛並みと青いうろこが混在し、とかげ頭に獅子の前足、鳥の後ろ足をした獣の鋭い眼差し。以前に会った時は奇妙な生き物だと思っただけだったが、こうして対峙するとまがまがしく思えてしまう自分も現金だなと思う。
「無礼を承知でお待ちしておりました、ソース」
「おまえ……口がきけたのか」
「これまでは口をきく必要がなかっただけのこと。意図して口を噤んでいたのではありません」
獣の声は、壮年の男性と女性の質のものが同時に聞こえる、ある意味その外見にはふさわしいちぐはぐなものだった。
「ムシュフシュとか言ったっけ。目的は何だ。こんなことをして何の得がある? セレナートを手にかければ、エメラードと、ここに生きる全ての生き物が滅びる。そんなことと天秤にかけられる事情があるっていうのか?」
「ムシュフシュ、そなたは何を考えている? この私にも言えないことだというのか!」
すがるようなシュゼットの呼びかけに面食らってしまうのを、悟られないようにするのに苦労した。
「定められし、運命の時が訪れたのですよ。シュゼット」
諭すようなどこまでも優しい声音の後に、
「私は、この時のためだけに存在した生き物。その使命を果たすためならば、エメラードがどうなろうと、私には些末なことでしかないのです」
冷酷な、容赦ない宣言が、成り行きを見守る魔物達と、その行く末の分岐点に立たされた森の中に響きわたった。
「あ……アーチ……」
耳をすませないと届かないようなセレナートのか細い声は、かわいそうに、恐怖で震えている。
『セレナートは、自分が死ぬってよくわからないんだ……』
印象的だったのでよく覚えている、彼女の言葉が脳裏をよぎる。エメラードの水源として誰からも敬われ――それにふさわしい犠牲を強いられてきたセレナート。誰ひとり、ウンディーネである彼女のために生きてはくれないが、エメラードを守るために全てを捧げなければならなかった。その心臓に、今、無情 な刃が突きつけられている。
『だけど、もしセレナートが消えてなくなってしまったとしたら、エメラードも滅びてしまう……太古から生きてきた森が死に、ここに生きる全ての生き物の暮らしを奪ってしまう。そう考えたら、おそろしくてたまらないの……』
この言葉が思い出された時、もはや、俺の取るべき道は定まってしまったようなものだった。
「わかった。条件を呑む」
「おい、敦! 内容聞く前から承諾なんかしてんじゃねぇよ! 事と次第によっちゃ俺がっ……」
「それはダメだ。豊には、キネ先輩との約束があるだろ? 忘れてるんじゃないだろうな」
声を上げた豊を振り返ると、やはり図星を突けたということか、悔しげに声を詰まらせる様子が見て取れた。
その時、豊の首から下がった紫水晶が、一瞬だけ光を放ったように見えた。豊は気がついていない……そこに封じられた、キネ先輩の意思が働いているのだとしたら……それは、俺を責めているような気がする。
『自分が犠牲になったって、本当に守りたいものを守れるとは限らないよ。……今だって、あなたのために豊を犠牲にするかもしれないわ』
豊の、封滅の式によって封印されることを望んだキネ先輩が、俺へ残してくれた言葉だ――俺は、あの日からまるで成長していないのだろうか。ここで選択するのは、あの時とまるで変わっていない。
「暴力による強要を受け入れるのね。実に人間らしい選択だわ」
いつの間に来ていたのか、エリスが眉をひそめてぼやいている。
「このベリル列島の歴史において、人間が魔物に立ち向かったのは、三百年前の戦いくらいだった。それを率いた神楽 歩も、最終的にはこちらの要求を受け入れて、自らを犠牲に人間の島の安穏を手に入れた……『アーチ』は何度生まれ変わっても、同じことを繰り返すのね」
「そ、そうだ……おまえはいっつもそうだ! たったひとりをを犠牲にした平和なんて意味がないとか言いながら、自分がそうするのは全然躊躇わない。そんなんだからいつだって、貧乏くじばっかり引く羽目になるんだ!」
エリスの言葉に勇気を貰ったのか、豊が苦しげに吼える。その言葉が俺にだけ向けられたものではないことが、わかってしまった。
『そしておまえは、未来のために平気で自分を犠牲に出来る人間だったよ』
豊――ユイノが見知ったという、前世の俺――神楽歩は、戦いの中で報われぬ最期を迎えたらしい。そんな彼が望み、作り上げた平和な時代に生まれ変わってなお同じ過ちを繰り返そうとしている俺が、許せないんだろうなぁ。
「ああ……そうだな。俺はいつだって口先ばっかりで、わかったつもりになっているだけで……結局、こうすることしか考えつかない馬鹿なんだ」
ソースの力に目覚め、魔物達の生活に加わってから、痛いほど味わってきた自分自身の無力。
ティアーのことが好きだ、彼女のことを守れるように強くなりたい――そう思いながら、ティアーの本当の姿を知ろうともせず、みすみす死なせてしまったこと――ああ、俺には今でもわからない。いつも俺を守ってくれたティアーが、たった一度、俺に縋って泣いたあの時の涙の理由が。
自己犠牲だろうが何だろうが、もう、自分が何もしなかったせいで後悔したくない。今、目の前で命を握られ死の恐怖に震えているセレナートを、一秒でも早く助けてやりたい。
「見殺しにするくらいなら、死んだ方がましだ。どうせその後の人生、後悔するばっかりの生き地獄になるんだから。たとえ殺されたとしたって同じことだろ」
これだけの魔物が集まっているというのに、水源はしんと静まりかえっていた。遠く、鳴いていた鳥の声さえ今はない。エメラードの命そのものである、セレナートを失うか失わないかという局面に、全ての生き物が固唾を呑んでいるのではないだろうか。
『セレナートは、エメラードの全ての命の為に生きてる。だけど、セレナートの為に生きてくれる人はどこにもいない』
そう言ってたけどな、セレナート。君は、こんなにもたくさんの生き物に愛されているよ。それはセレナートがこのエメラードに全てを捧げてきた献身もさることながら、彼女自身の健気な性格こそが好かれているのだと、自信を持っていいと思う。
「こちらへお出でになってください、ソース」
ムシュフシュが水面に足を着いて立っているように、この水源は歩行することが出来る。ただ、エメラードの清らかな水の源流であるセレナートとこの水源を汚すことが恐れ多くて、魔物達も獣達も無許可で足を踏み入れたりしないだけで。
俺は、一歩、水面に足をのせる。冷静に考えているつもりで俺も緊張しているのか、着いた足から水面に立つ波が細かく脈打つので、自分の足が思いの外震えているのがわかった。
この水面を歩いていても、水たまりを踏んでいく時のように音が立つことはない。俺の歩いていく、衣擦れの音だけがやたらと響いて、それを数多の目に無言で見つめられて、何だかやたらと気恥ずかしい。
「だ、だめ……アーチ、危ないよ、こんな」
自分だっておそろしいだろうにセレナートは、あくまで俺を案じる。目に涙をたっぷりためて、俺を見つめる。
ムシュフシュの目的が俺ならば、やはりセレナートにはとばっちりを喰わせてしまったことになるだろう。
「ごめんな」
「……うぅ」
いやいやをするようにゆるく首を振るセレナートは、その反動で、ついに、細く涙を落とした。
隙のない動きで進み出たムシュフシュは、一瞬にして、尻尾の矛先をセレナートから離し俺の首に突きつける。まがまがしい体の色に、根拠もないのに、その針のような尻尾には毒が含まれているに違いないと勝手に思う。
「エメラードの魔物達よ。これより十の夜が明けるまで、何人たりと我々の後を追うことは許さない。この指示を破ればソースの命はない」
ムシュフシュの宣言は、実におざなりな口調だった。エメラードのほとんどの魔物にとって、俺の安全なんてどうでもいいことだから、今のは俺の仲間にだけ向けた脅しだろう。この場に居合わせているのは豊とエリスと……シュゼットくらいか。そりゃあ手を抜きたくもなるだろう。
俺は仲間達に背を向けているので、彼らがムシュフシュの言葉にどんな反応をしたか見えない。別に身動きするなと命じられたわけではないが、振り返って確認するのがむしろ怖くて、そのままムシュフシュの方を見ていた。
どぎつい色とめちゃくちゃな体に似合わず、ムシュフシュは、黒く丸っこい瞳だけは極めて穏やかで、優しげだった。こんな風に威圧してきているとはいえ、 ムシュフシュは四つ足の獣だから、自然と俺が見下ろす形になる。所在なくその目を見つめていたら、自分の体の異変に気付くのが遅れた。
視界が見る間にぼやけ、強いめまいと同時に全身の力が抜けて前のめりに倒れ込む。倒れた先には、ムシュフシュの、うろこと毛並みの境のある背中だった。音はまるで聞こえず、視界は生きているのに思考はまっくら、何も考える気力が湧かない。
そこから先、次に目覚めるまで、俺は何が起こったかは知らない。




