3話‐1 現人源泉竜
目が覚めると、室内は薄く白んでいた。目ぼけ眼で腕時計を確認すると、まだ午前五時になる前。
分厚い木々に覆われていても、森の中に光は届くものなのかなー……なんてぼんやりと思う。そのかたわら、ベッドの横から衣ずれのような音がする。
何の気なしに、首をそちらへ傾ける。元気に左右へ振れる、ふさふさの黒いしっぽ……人間の身体にそんなものが生えていたらどうやって下着をはくんだろう……その答えは、布面積の小さいローライズを選べばいいということだったようで。その、両サイドを紐で結んで固定するタイプのそれを、彼女は右側の紐を結んでいるところだった。
夢現にたるんでいた意識が、一気に現実へと引きずり出される。この光景は、好奇心に従って漫然と眺めていていい代物ではない。
などと頭では考えつつ、結局はティアーが腕を上げて上半身に下着を着替えるところまで目が離せなかった――それにしても妙な形状をしたシャツで、後ろを裂いてあり背中が丸見えになっている。
「あ、起きた? おはよー、敦……あれ、何だか顔が赤いよ? 昨日は色々あったから、体調崩しちゃった? 」
この上なく機嫌良く振り返ったティアーの表情は、俺の様子を見て不安げな表情に転じてしまう。ああ、申し訳ないというより、よこしまな自分が憎い。
俺の顔を覗きこもうと接近してくるティアーの顔。そこでようやく目についたのが、頭の両側面に生える大きな獣耳だ。……インパクトの強い箇所に釘付けになって、見過ごしていた。
「その、耳としっぽ、どうしたんだ?」
「え、これ? これねぇ、本当は人の姿になってる時でも、耳としっぽくらいは出してた方が楽なんだ。しっぽは足二本で立ってても邪魔にならないし、やっぱりちゃんとした耳がないとよく聞こえないから」
「人間の姿でいる時は耳がないのか? 気付かなかったな」
「ないわけじゃないけど、あんまりへたくそだから見られたくなくて、隠してるんだ。あたしが人の耳をイメージするのが苦手なだけで、ヴァニッシュにはちゃんと耳があるでしょ?」
「う~ん、覚えてないや」
耳があるかないかなんて、意識してないとまったく記憶に残らない。次に顔を合わせた時にでも確認させてもらおうかな。
ヴァンパイアに襲われ、森の奥に建つ魔物の館にかくまわれて過ごした夜。
朝になれば、きっと昨日までとまったく違った世界を見る羽目になるだろう。漠然と、そう理解していたけれど。
現実は、俺の生半可な認識を遥かに超えて、残酷だった。
「んで、お姉さんに連絡もしないで彼女の家に行ってたってわけか」
「はぁ。まぁ、そういうことです……」
手帳に何事かメモしながら、向かいのソファーに腰掛ける平野さんは心底呆れ果てた顔で語っていた。まぁ、たとえ本人に何の罪もなかろうが、友人が自分と 別れた後に殺されたっていう非常事態に楽しく遊んでたなんて俺だって呆れる。まして、家族に一晩連絡もしなかったなんて言語道断だろう。
「海月さんと外で落ち合う約束をして、家にいるお姉さんには長矢君が伝えるという手はずだったんだね?」
「君が、円さんに直接話してから出れば良かったんじゃないかねぇ」
立ったまま俺達の話を聞いている若い刑事が合点がいったという感じに頷き、平野さんの隣に座り、向かいのティアーをうさんくさそうに投げやりに見る高橋さんがささやく。
今日、学校は臨時休校となった。うちの高校は十年以上はヴァンパイア被害がなかったし、生徒がその犠牲になったのだから呑気に授業などやっていられないだろう。
昨夜、ヴァンパイアに切断された豊の右足は現場に放置してあった。それは夜の内に発見され、鑑定結果で豊のものだと公にされた。マスコミは朝からその報道一色だったそうだ。
そんな状況にあって、昨日は朝から豊と行動を共にしていた俺が行方知らずときたもんだから、俺はヴァンパイアの住処にでも持っていかれて、お食事にでもなってるんじゃないかと思われていたらしい。そんな騒ぎになっていることも知らず、彼女の……「海月涙の家ということにさせてもらっている、住宅街にあるジャックさんの実家」で何事もなく休んでいたことになっている俺への、世間の風当たりは実に冷たかった。本当のことなど言えるはずもなく、そういうことにしただけなんだけど。騒動を知らないふりをしていただけで、ティアーは恋人でもないし。
今はこうして、少年課で三人の刑事を相手に事情聴取を受けている。とは言っても、取調室で厳重に、なんてことはなく。今回の事件の捜査本部となっている部屋の片隅で、和やかに会話しているだけ。
それというのも、俺もティアーも一切疑われていないからこその扱いだ。豊の足は骨の断面がきれいに――というのも何だか嫌な表現だけど――見えるくらい に切断されていた。いくら包丁を使ってもおいそれと骨ごと肉を切れないように、とてもじゃないけど人間業ではありえない。物理的な事故か魔物の仕業と考えるのが普通だ。そして今回の場合、現場に事故の痕跡は塵ほども存在しなかった。
「敦とのことは、円の性格的にちょっと打ち明けづらくて。円に悪いとは思ったんだけど、用意してくれた料理は豊君があたし達の分もぜ~んぶ食べちゃうって張り切ってたから、ついそれに甘えちゃって」
事実でないことをもっともらしく語るティアー。これらの話は全て、ヴァニッシュとジャックさんも交えて設定した作り話だ。豊の血が付着していた俺の服も、豊が館に置いていた服を借りて着替えてある。
「まぁねえ、どんな生活していたかまだわかっていないが、長矢豊はほとんど自宅に帰っていなかったそうだから。食うにも困っていたかもしれないな」
「実の息子が死んだっていうのに、母親もけろりとしてましたからね。何だかかわいそうですよね」
もうおじいさんと言ってさしつかえないくらいの貫禄のある平野さんが、極めて冷静に呟く。まだ名前を教えてもらっていない若い刑事の方は、心底豊に同情しているらしい。
俺は豊が生きていることを知っている。けれど、豊の切断された足がこの世に残っているということを聞かされた時は何ともやるせない気持ちになった。
ヴァンパイアになってしまった豊の、唯一残された人間だった証は、豊の死んだ証として世間に認知された。人間でなくなってしまったとはいえ、豊はまだ生きているのに。人間の社会的には完全に死んでしまったことになる。
それに、俺は豊が家に帰らなくなっていたなんて話も初めて知ったんだ。それもテレビの報道という形で。クラスメイトにとっても、豊の死、それ自体と共に青天の霹靂の事実だったはずだ。
学校の友人同士の何気ないやり取りの中では、家族に対する愚痴もよくある。そんな中で、思い返してみれば確かに豊は家族のことをほとんど語らなかった。 高校生にもなって必要以上に詮索する奴もあまりいないことだし……しいていえばうちのクラスの市野学はけっこうしつこいけれど、学校内のゴシップを面白がっているだけで家庭のことまで突っ込んできたりはしなかった。
考えながら、今朝のジャックさん達との話が思い出された。
外はこもれ日で透き通るように輝いている。森の木々の分厚さは、夜に見たそれとは印象が違っていた。館の屋根を隠す目的があるらしい部分を除いては、茂る葉の天井は思いのほか軽く見えた。
館は一般的な家屋のおよそ二軒分、といった大きさで、古ぼけているとはいえどこか高級感があった。確かティアー達の仲間が、たったひとりで建てたとか言ってたっけ。それにしても、魔物が森の中で、機械の助けもなくひとりで作り上げたとはとても思えない代物だ。
二階はさして大きくない窓が左右合わせて十もあるのに対し、一階は壁よりガラスの面積の方が多いくらいで、中が丸見えだった。
「大したもんだなぁー……ていうか、ガラスとか、材料はどっから仕入れたんだろう?」
などと感心していると、玄関から頼りない足取りでジャックさんが出てきた。待っているのも気が引けるので、俺の方から歩み寄る。
「おはようございます」
「おはよう、敦君。夕べはよく眠れたかい?」
ジャックさんが笑うと、顔中に優しげな皺が刻まれる。
「はい。いつもだったらこんな時間には起きられないのに、今はこれっぽっちも眠くないです」
腕時計を見ると、まだ朝の五時を少し過ぎたような時間だった。こんな時間に自然に目がさめたことはほとんどない。
「はは、明かりに慣れている人間の男の子には、ちと寝るのが早すぎたようだねぇ」
「ジャックさんこそ、朝は随分早いんですね」
「なぁに、若いもんが朝早くから食糧調達に走っているのに、年寄りだからってぼやぼや寝ていられないさ。だから、火おこしは私の仕事と決めたんだよ」
火おこしの段階はとうに済ませたらしく、小さいながらも火の手があがっていた。もう手を加えなくても火の勢いが衰える様子はなさそうだ。そんなに長い時間、ここを離れていたような感覚はないのだが、たき火っていうのは意外と短時間でできるものなんだろうか。
「って、それ……マッチですよね?」
膝に手を置いたジャックさんの、その手が握っているのはどう見てもマッチ箱だった。森の中に住む魔物達が、火おこしにマッチを使うというのは想像していなかった。まぁ、それを言えば館に住んでいる時点で自分のイメージなんて粉微塵になったようなものだけど。
「わざわざマッチを仕入れてくるんですか」
「ヴァニッシュがね、勤め先のマッチをよく持ち帰ってくれるんだよ。これがあると火おこしも楽になってねぇ」
「え、ヴァニッシュって働いてるんだ」
どんなところだか知らないが、昨日の印象では「饒舌」という言葉の対極にあるような感じだったから、正直にわかには信じられなかったりする。
「ティアーが学校に通うには、やっぱりどうしてもお金がかかってしまうから、ヴァニッシュはそのための学費を稼いでいるんだ。ワー・ウルフというのはそれほど数いる種族ではないから、ふたりは本当の兄妹のように支え合って生きてきたんだよ」
「本当の兄妹みたい、ですか」
俺はまだ、魔物としての――「海月涙さん」ではない「ティアー」としての彼女と接した時間が、あまりに短い。「ヴァニッシュ」なんてそれよりもっと短いし、ワー・ウルフという種族がどういった魔物なのかも知らない。
一見のどかな風景のようでも、俺が今立っているこの森は、人間ではなく魔物の世界なんだ。そう思うと心細くて、どうしたらいいのかわからなかった。