閑話休題
地の脈動を後にした静けさ。山のふもとを広々と占拠したごみ溜めのただ中で、ひとりの子供が泣いていた。
獣ごときの命を惜しんで、自分の人間としての未来、生涯を捧げるというのか。そう訊ねると、子供は答えた。
「だ、だって、ティアーはなんにも悪いこと、してないんだっ。なの、にっ、こんな風に死んじゃうなんておかしいよ……」
そこから先はしゃくりあげて言葉にならなかったが、大方の予想はつく。せいぜい、不公平だ、とか、不平等だ、とか――そんな、世の中の圧倒的な理、不条理を認めたくない、まったく年相応の子供じみた理想を述べたいところなのだろう。
そして、その子供じみた理想をまんまと利用し、彼を手に入れたわたしはなんと意地汚い存在だろう……そう、思った。
「おい、おまえ人間だろう。そんなところで何してる?」
エメラードの大森林、その中で何の変哲もないありふれた大樹のひとつに、人間の少女が逆さで磔になっていた。両手首、同じく足首が変形した枝に絡めとられている。
黒の衣装は太陽光、あるいは月光による魔力を少しでも多く吸収するための、魔術を嗜む者に定番のアイテムである。少女も例に漏れず、それも人間にしては非常に稀と言える魔力量が感じられた。
「ちょっとドジしちゃってさ、この辺を縄張りにしてるヘビに捕まっちゃったみたい。ねえ、よかったら助けてくれないかな」
困ったように笑いつつ、軽い口調で彼女は続ける。
「助けてくれたら、あなたの話を聞いてあげるよ」
魔物と交渉する際には、条件提示による取引をするのは常識だ。無条件で誰かを助けようなんて奇特な魔物は多くない。
「……そんなつまらない条件、聞いたこともない。しかし、なぜそう思った?」
「ここから見ててさ、何だかあなた、悩みのありそうな顔して歩いてたから」
結局、ティアーは彼女の誘いに乗った。
「ふう、ありがとう。本当に助かったよ。彼女の留守中にあなたが来てくれなかったら、この後どうなってたことやら」
蛇の仕掛ける罠は取り込まれた本人には手も足も出ないものの、第三者さえいればいともたやすくほどけてしまうのが難点だ。
「おまえ、何しにこんなところへ来たんだ?」
「あたし、カリンっていうの。ちょっと探したいものがあってこっそり出てきたんだ。だから次の船で帰るんだけど……あなたは?」
「ティアーだ」
「へえ。ティアー、ね」
ティアーは、魔物の世界では「涙」を意味する言葉。人間である彼女にとっては名前と言われると引っかかりを覚えるが、彼女は野暮を口にせず踏みとどまる。
「それで、何を悩んでいるの?」
「会いたい人間がいるんだ。けど、会っていいものかわからない。いや、会うべきでないって、ティアーは本当はわかっているんだ」
「よくわからないや。会いたいなら会えばいいのに、どうしてだめだなんて思うのよ」
藁にもすがる思いなのだろう――実際、魔物の仲間にはこのように、「人間くさい」と称される感情は理解されず、相談など出来ない――ティアーは、出会ったばかりのカリンに彼とのことをあらいざらい打ち明ける。
「敦はティアーのことを忘れて立ち直った。ワー・ウルフは人間と同じには生きられない。どうせすぐ死ぬティアーが今になって敦と関わりを持ったところで、また敦に悲しい思いをさせるだけじゃないか」
そう。獣ふぜいの救命を願って、自分の生涯を捧げてしまった彼にとって、ティアーの予想は的を射たものだった。
相談を受けて考えていたカリンは、妙案でも思いついたのか、晴れやかな表情で手を打った。
「だったら、チャンスは今しかないわね! 敦君と同じ学校に入ればいいのよ」
「が、がっこう? なんだそれは」
「言うなれば、人間の島で子供が所属することを義務づけられてる施設のことね。学校にいられるのは子供の内だけ。そして、そこから出る時にお別れっていうのは至って自然な通過儀礼なの。卒業と同時に敦君ときっぱりお別れすれば、それまでは何の気兼ねもなく彼と一緒にいられるよ」
「そ、そうなのか……確かに名案だな、それはっ」
「でしょでしょ~? あ、実行するつもりならその前に、その話し方は何とかした方がいいわね」
「は? なんのために」
「だってティアー、敦君のことが好きなんでしょ? 好きになってほしいでしょ? 人間の男の子は、そういう野性的な話し方は良く思わないよ。自分のこと名前で言うのもマイナスかも」
「だけど、この名前は敦がくれた大切なものなんだ」
「自分でそう思うのは勝手だけど、それを表明しなくたっていいの。ティアーなんて名前、私は魔物ですって言ってるようなものだよ」
相手や状況によって裏表を使い分けることは、魔物の社会でも良しとされている。しかしエメラードの森の中で暮らす分には使い分けなどせずとも生きていける。元より獣であるティアーにとって、理解が難しいのは当たり前のことだ。
「む~、むずかしいもんだな。それなら、とりあえずカリンの真似でもしてみようか」
「そうねー、それがいいよ。そうだ、あたしが帰るまでこっちの目的に付き合ってくれたら、あたしもティアーにいろいろ教えてあげる」
その条件をティアーは喜んで受け入れ、カリンと過ごしたわずかな日々の中でふたりは親友同然の仲になるのだった。
「ティアー。敦達、出発したぞ」
わざわざ報告をしなくても、遠ざかる魔力によってティアーはそれを察していた。ユイノもそのことは承知で、ティアーの様子をうかがいに来るための口実に過ぎない。
ライトに連れられて彼が出かけた夜は、満月だった。本来、アンデッド種にとって満月による魔力供給は恵みであるが、今のティアーにとってはその真逆の効果をもたらしていた。
「なあ、ティアー。本当に、敦に言わなくていいのかよ。おまえが黙っていたって、このままヴァニッシュが死ねばワー・ウルフの寿命のことはあいつにわかっちまうんだぞ」
ティアーは、すぐにはユイノの問いかけに答えられなかった。唇をかみしめ、気休めに過ぎないとわかっていてもなお、残りわずかの命が染み出していく傷口を無事な左腕で抱き。嘆き、不安、悔しさ、そして未練。苦痛と共に、様々な負の感情で全身を震わせながらようやく、
「あたし、ずっとずっと嘘をついてきたんだ。敦に嫌われたくなくて、普通の人間の女の子の振りをして……だから、自分の本当の気持ちもわからなくなっちゃった。もう、どうしたらいいのかわからないよ……」
悲しみよりも根深い、自己嫌悪にさいなまれ、ティアーは涙を流すことさえ出来ない。うつろな目を自らの胸元に落とし、わたし――いや。敦さまに分け与えられた小瓶を、一心に見つめ続けた。
14話に続きます。




