13話‐4 銀のかけら
帰りついた頃には、太陽はほとんど沈みかけて、紺色の空が森に覆いかぶさっていた。
ぱちぱちとはぜるたき火の音、ほのかに照らされた広場。火の側ではいつもと変わらないライトと、平静を装っているらしいエリスがいる。
そして、ツリーハウスのある大樹の根本、その内幹に一体化してしまうんじゃないかってくらいに昏睡しているヴァニッシュと、その前にぺたりと座り込んでいるフェイド、さらにその前に鎮座している、ヴァニッシュのドッペルゲンガーがいた。
「待っていたよ、銀狼……」
全くもって意外なことだが、フェイドは、ドッペルゲンガーを前にしてとても満足げな――たとえるならいたずらの成功した子供のように不敵な笑みを見せた。体の方はもはや満身創痍、指一本動かせなさそうな有様でありながら。
「君がここに来るのはわかっていた。金のかけらを回収に来たんだろう? 君だって、本当はもうわかってるはずだ。何度金のかけらを使ったって、君の知ってる金狼は取り戻せないということ……」
ずり、ずり、膝と手を地面にすりつけて、ようやくフェイドは銀狼に正面で向かい合う。そうして、土で汚れたての手のひらをふたつ、自身の胸に押し付ける。
「金のかけらはまぎれもなく君のものだ。君が守ってきた、金狼と銀狼の願いの化身だ。もちろん、返すことに抵抗なんかしない。だけど、金のかけらが叶えたのはヴァニッシュの願いだけだ。だから、銀狼……」
俺達に背を向けているので、銀狼の表情はこれっぽっちもうかがうことは出来ない。そもそも魂だけの存在であるドッペルゲンガーには感情なんてないはずだ。
しかしどうにも、遥か遠い昔から抱いてきたという銀狼の願いを否定しているらしいフェイドの発言は、何の事情も知らない俺の心にさえちくりと突き立った。いくら感情がないということになっていたって、銀狼がそこに何の感情も抱いていないとは俺には思えなかった。
「この金のかけらで、どうかオレの願いを叶えさせてくれ……」
もうすっかり力のない、しかし強い意思だけは相変わらずのはかない笑顔で、フェイドはそう囁いた。
すると、先ほどドッペルゲンガーを罵倒したティアーが彼の傍らにひざまずき、銀狼を抱き寄せた。実体のないドッペルゲンガーだからそれは形だけのものだが。そんな、一見無意味ともとれる行動を銀狼が拒絶することはなかった。
「フェイド、あなたの願いってなに?」
「オレはおまえに救われた命で、幸せに生きたって、ヴァニッシュに伝えたい。オレのことで自分を責めて泣くのはもうやめてほしいって伝えなくちゃいけない。それと……
ヴァニッシュの笑ってるところが、見たいな。悲しい顔しか見たことがないから、最後にたった一度だけでいいから幸せな笑顔が見たいんだ……」
すうっと、音が消えたかのように周囲が静まり返った気がした。まるで消え入りそうにかすかなフェイドの声を、あまりにもちっぽけでかけがえのない願いが届くよう、配慮でもしたかのように。
最期の空気感でも感じ取ったのか、ライトが重い腰を上げてのろのろとこちらに向かって歩き出した。半ば諦めたような様子でいるエリスがそれに続く。
それなりに長く感じられる時間、銀狼はフェイドを見つめていた。やがて――銀狼は、膝立ちのフェイドの胸元に飛び込み、金色と銀色の光を散らしながら消滅した。
瞬間、フェイドの顔が苦痛に歪む。そして喉元に手をやると、ひゅうひゅうとかすれた息を吐き出した。焦ったように口をぱくぱくと開け閉めして、そんな動きに俺は、おそらくは周りのみんなも、事態を悟った。
自然、俺達の視線は眠るヴァニッシュの方へ移る。案の定、ゆっくりと、彼のまぶたが持ち上がった。
寝起きは良いはずだった彼らしくなく、うつろな目でぼんやりと数秒ほど過ごし、ようやくフェイドの姿に気がついた。緩慢ながら慌ててフェイドに向き合ったヴァニッシュは、
「……フェイド、俺は」
呟くが、彼がおそらくずっと伝えたかったはずの言葉が見つからず、口篭った。そして、何事かに苦戦しているらしいフェイドの様子を察したようだ。
金のかけらは、無条件に願いを叶えられる代物ではない。ヴァニッシュは、フェイドが金のかけらを使って叶えた願いによって目覚めたのだろう。
そして、その代償は、フェイドからもうひとつの願いを奪ったのだ。彼はヴァニッシュに自分の思いを、願いを伝えるためだけにこのエメラードにたどり着いた。
フェイドが幸せに生きたこと。だからヴァニッシュは、彼との一件で自分を責める必要はないということ。
そして、フェイドのために泣くのはもうやめにして、ヴァニッシュの心からの笑顔を見たい。そんな意思を伝えたい、というささやかな願いを叶える言葉さえ、今、フェイドは奪われてしまった。
さしものフェイドも、今の状況に困惑した様子だった。それを受けて、ヴァニッシュは行動に出た。拳を地面に着け、まるで土下座するかのように深く深くうつむいて彼は語る。
「……俺は君に取り返しのつかないことをした。計り知れない苦難を与えてしまった。いや、そもそも君は、俺に出会いさえしなければ無惨に死ぬ必要さえなかった。あんな風に、ハンターに殺されはしなかったはずなんだ」
全ての事情を知るわけではない俺には、ヴァニッシュの言うことはわからない。
「……俺は、ずっとずっと、君に償いたかった。だけど、その方法はどうしても見つからなかった。今もそうだ。謝って済むようなことじゃない、その苦痛を取り払うことさえ出来ない。だからせめて、俺を」
何事か言おうとしたヴァニッシュを、フェイドは遮った。声を失い、銀を持つ彼には触れられない。フェイドが選んだ手段は、うつむくヴァニッシュの視線の先、地面の上にぽんと手のひらを差し入れることだった。
反射的に、ヴァニッシュはその手の主であるフェイドに顔を向ける。すると、策を成した単純な喜びで彼の顔はほころんだ。
そして、満面の笑みでヴァニッシュを見つめた。とまどうしかないヴァニッシュにかまわず、しつこくしつこく笑顔を向ける。
ついに、観念したように、ヴァニッシュは小さく笑った。それで満足しない様子のフェイドに、ほんの少し負けながらも精いっぱいの笑顔を彼に向けた。
「ぁ……おー……」
念のため試してみた、しかしやはり駄目だった。そんなかすれた音を残し、フェイドがヴァニッシュの手を取ると、彼は金色の光となって霧散した。
フェイドによって揃って空へ向けさせられたヴァニッシュの両手のひらの上に、小さな、獣の首があった。黄金色の毛並みは亡骸らしい無残な色をして――それは、おそらく狐の頭部だった。
……ヴァニッシュは、声なく泣いた。大きな手のひらに余る、小さな狐の首を胸に押し付けるようにして、身体を震わせ。雨のように休む間がなく、彼の涙が地面を叩き、土に染み込んでいく。そんな姿を、俺達はただただ眺めるしか出来なかった。
魔物は、同胞の死を惜しみすぎてはいけない。何故なら、死者に焦がれることはその者を現世に留まらせ、魂だけで浮浪し転生の巡りに戻れなくさせてしまうから。
……そう、理屈ではわかっていても、誰もヴァニッシュを止めようとはしなかった。
ヴァニッシュを異性として思っているエリスは、今にも泣き出しそうな表情に見えた。
豊はどこか悔しそうに、歯を食いしばるように顔が引きつっている。
そして、ティアーは……俺には、彼女が得体の知れない表情をしているように思えた。何か思案しているようで、ほうけているようで。見過ごしてしまいそうなくらいかすか、まなじりに皺を寄せていた。
どれくらい経ったのか、誰も感覚がつかめなかったと思う。しばらく経って、ヴァニッシュは立ち上がった。どう見ても、最後の、渾身の力を振り絞ったような挙動だ。
「……みんな、ありがとう。俺も、この森に眠る時が来たみたいだ」
疲れたような、それでいて安らかな微笑をたたえ、ヴァニッシュは言った。
「よく、言うよ……ついさっきまで、眠りこけてたくせにさ」
冗談めかして言ったつもりの俺の言葉は、どうしようもなく震えていた。
「ま、どうせ眠るんなら、今度こそ幸せな夢を見ろよな。フェイドの奴は夢にかえったんだし、きっとそこで会えるだろうよ」
「……だったら、いいな。そうだったらきっと、今日まで出来なかった色々なことが叶えられそうだ」
何のためらいもなくヴァニッシュの銀髪を撫で、平然としているライトを前にしては、成人男性の容貌をしているヴァニッシュもやけに少年めいている。
「……ティアー」
「ん、……なぁに?」
「……どうか、幸せな時間を過ごしてくれ。ティアーが本当に望んでいるように」
――ヴァニッシュの言葉を受け、何故だか、ティアーはとても苦しそうだった。妙に歪んだ表情を隠すようにうつむき、ぼそり、何かを呟く。その言葉は俺の耳には判別出来ない。
「……ユイノ。後のこと、頼んでもいいか」
「んなこと言われるまでもねーよ」
豊からの言葉はそれだけだった。察したヴァニッシュは豊にうっすらと微笑み、しかし豊は依然、険しい顔をするばかりだ。
「待って、ヴァニッシュ」
ヴァニッシュがエリスに向き合ったところで、彼女はそう呟いた。うつむいていた顔を上げ、いつもの毅然とした態度を保てず、エリスはようやくといった感じで告げた。
「五秒でいい。エリスに時間を頂戴」
外野が聞いていても嫌な予感のする、エリスの決意に満ちた声色。ヴァニッシュもためらったのだろう、少し間が空き、しかし彼は黙って頷いた。
フェイドの首を両手のひらで包む、その上からエリスはヴァニッシュを抱きしめた。彼の体がおそれに硬直するのがわかる。
銀の力に魔力を奪われ、エリスは小刻みに震え、それでもヴァニッシュを離さない。あまりにも長く感じられる五秒間が過ぎると、エリスは膝から崩れ落ちた。
「気に病まないでっ……、エリスが、勝手にしたことなのだから――」
エリスを気遣い、せっかく立ち上がった膝を地に着けるようとしたヴァニッシュをエリスは右手のひらを思いっきり突き付けることで制した。
「……すまない、エリス。君が俺のことを大切にしてくれていたのは、わかっていた。わかっていて、俺は君に何ひとつ返せなかった」
やはり、どこかずれたヴァニッシュの言葉に、思わずエリスは含み笑いをもらした。
「言ったでしょう。これは、完全にエリスの自己満足。……エリスは、あなたと同じ時を過ごせるだけで十分だった。あなたがいてくれた、ただそれだけでいいの。他に欲しかったものなんて何もないのよ」
エリスもまた、全身の力を込めて立ち上がった。震えの収まらない肩を両腕で抱き、
「さようなら、ヴァニッシュ。あなたに出会えたこと、共に過ごせた幸せな日々を、エリスはずっと忘れないわ」
泣き笑いの顔で、しかし別れの涙はなく、しっかりと芯の通った声でエリスはそう伝えた。そうして身を翻し、彼女はいずこかへ姿を消した。
「……敦」
言いながら、ヴァニッシュは俺に手を差し出す。いつかの握手を思い出して、俺はその手を取った。ゆるゆると、立ち昇るように心臓が熱を帯びていく。
「……どうか、幸せに生きてくれ。ソースの力を背負っても、運命にくじかれないで欲しい。それが、俺達のたったひとつの願いだ」
「自分が出来なかったことを、よくよく人に言えたもんだね。だからアンタはお馬鹿ちゃんだっていうのよ」
ツリーハウスの足場にいつの間にやら腰をかけていた、ベルの言葉が降ってきた――この距離で声が届くということは、いくらか声を張り上げているはずだ ――辛辣で、しかし不思議と悪意の感じられないベルの物言いに、ヴァニッシュはこれといって不快を表すことなくぺこりと頭を下げた。
そうして、いよいよ、彼は歩き出した。一度だけ振り返り、はかない笑顔を残して、日も暮れたエメラードの夜の奥深くに消えていった。
その夜、眠りにつく前に、今更ながら思い至る。俺が望まないと姿を表すことさえ出来ないというサクルドに、ヴァニッシュとの別れに居合わせてやることが出来なかったな、って。
……お心遣い、痛み入ります。けれど、わたしは敦さまの見るものを共有していますから、お気遣いは無用ですよ。それに、あのような場面でわたしを呼べるような冷静さ、あなたらしくありませんもの。
……ほんと、サクルドは俺のことばっかりだな。
……それはわたしに限ったことではありません。ティアーも、ヴァニッシュも、ユイノも……敦さまの幸せだけが、ただひとつの救いなのですから。




