12話‐1 始まりの記憶
内蔵がやんわりと潰されているような感覚が苦しい。自然、うげぇ、と嫌なうめきごえが絞り出た。
「おまえさん、最近ちょいとたるんでんじゃないかねー?」
「わがっでるから、はやぐどいでくれ~」
俺はうつぶせに倒れ、背中に巨人族のライトが尻を落ち着かせている。たくましい筋肉を備えている彼の重量は凶器だ。
やれやれ、とごちてライトがどいてくれるが、すぐに立ち上がれない俺に痺れを切らせたのか、俺の両肩をひっつかんで無理やりに立たせる。
「ようやく捻挫がおさまったとおもったらまたこれかい。こちとら蟻と遊ぶんかってくらいに手抜きしてるっちゅーのに」
午前中は、ツリーハウス前の広場でライトによる体術の訓練。一応の見張りとしてヴァニッシュが控える傍らで、ただ今、その真っ最中である。当然ながら、 生まれ持った戦闘能力としては竜に次ぐという巨人族を相手に、人間が体術だけで太刀打ち出来るはずもない。ライトは俺にも勝ちの目が見えるくらいには、い つだって手を抜いてくれている。それでも俺はこんな有様なのだが、ライトの叱責はそういうことじゃないだろう。
ティアーに告白した翌日、俺はライトの特訓の最中、左足を軽く捻挫してしまった。そのケガが一段落して、今日からやっと特訓が再開したというのにまたこんな調子。注意散漫にでもなってるんじゃないか。要するにそう言いたいんだろう。
「ごめん。続き、どーする?」
「もういーわ。興が削がれたんでな。……てーのは冗談で、今日は来客の約束があるんでここまでな。もうそこまで近付いてるし」
少しばかり不満を表しても、すぐに態度を切り替えてくれるのはライトのいいところだと思う。
来客って誰だろう、と訊こうとしたところで、関心が他に移った。ただでさえ寡黙なヴァニッシュだが、それにしたってやけに静かだなー、と思っていたら。彼らしくなく居眠りをしていた。
上空に小さな人影が見えた。音もなく、挨拶もなく、静かにツリーハウスの上に降り立ったのは、フェニックスのシュゼットだった。
「行って来な。あれは敦の客だからよ」
ますますわけがわからないが、俺の客と言われるくらいだし、行けばわかるだろう。ライトに特訓の礼を述べて、俺はツリーハウスへ急いだ。
小屋の屋根に立つシュゼットが、小屋の戸の前に立つエリスへ伝える。
「エリス、フェナサイトからの連絡が入っているぞ」
「ありがとう、確認するわ。敦、悪いけど少し待っていてくれる?」
目で姿を確認しなくても、俺が到着しているとわかっているらしい。魔物は魔力でお互いの位置を捕捉してしまうとかで、いつだってこんな反応である。
エリスはひとっ跳びで小屋の屋根に降り立つ。彼女が跳ぶ時は、地面に水面の波紋がかすかに広がっているのが常だ。
人間の島にいたティアー達と、そこから遠く離れたエメラードにいるエリス達はどう連絡を取っていたんだろう、というのはかねてからの疑問だった。フェナサイトとアクアマリンであれば郵便の制度が設けられているが、船でさえ三十日に一便しかないエメラードにはそれがない。
その答えは、小屋の屋根に描かれた、伝達用の魔術式だった。日中、屋根の上は日当たりが良くて太陽光由来の魔力が蓄積する。そのおかげで大掛かりの魔術でもそこに式を描けば使えるらしい。
「あら……」
エリスがほんの一瞬だけ、眉を厳しくしかめたのがわかった。すぐに何でもないような表情に戻ると、小屋の扉ではなく窓の方へ降りる。窓を開けて、
「ベル、起きなさい。ジャックから報せよ」
と、ベルに伝える一連の動きは実にてきぱきとしたものだった。
「あ~?」
こんなにも明るい内から起こされて、ベルのことだからさぞや不機嫌だろう。そう思ったのだが、目をこそるそのしぐさはしぶしぶといった感じではあって も、意外とすっきりとした風だった。ベルを叩き起こすくらい深刻な問題で、本人もそれをわかっている、ということだろうか。
「もしかして、あれ?」
「そうよ。次の船を待っている余裕はないようね」
「ん~……しょうがない、っかぁ」
言いながら、大きく伸びをし、両腕を振り回して肩の調子を整える。そして、大きく深呼吸をすると、
「夜までオルンのところで休ませてもらって、それから発つわ。留守はいつも通りによろしく。そんじゃ、行ってきま~す」
向かいの大樹まで跳ぶと、さっさと木々の葉に埋もれるように去っていった。
「ジャックさん、何だって?」
無言でこちらへ戻ってきたエリスに、訊ねる。
「――端的に言うと、ジャックはもう長くない。人間の医者の診断でそう断言されたらしいわ。だからベルはジャックを殺しに行くのよ。ジャックは死後、ヴァンパイアになることを望んでいないから、それを防ぐための儀式をしに、ね」
遠まわしに言ってもしょうがないことは、極めて簡潔に述べるのはエリスらしい。らしいんだけど、その内容からこちらが受けるショックというものを少しは気遣ってもらえるとありがたいんだけど。
「それで、どうしてベルがわざわざ?」
「ああ、知らないのね。ジャックはベルの息子よ。儀式は誰でも、方法さえ知っていれば人間だって出来る。けれど、彼をダムピールとして産み落としたのはベルの責任だから。彼がヴァンパイアになりたくないというのなら、ベルがその手を汚す儀式を担うのが自然でしょう」
ジャックさんが、かつての豊と同じダムピールだったなんて、それさえ俺は今知ったのだ。だから森の奥、魔物の館で一人で暮らしていたのだろうか。……自分の死後、人間に害をなさないように?
ジャックさんとベルが親子なんて、それこそ考えもしなかった。外見上、ジャックさんはお爺さんでベルはそれより遥かに若い。魔物の外見と年齢は関係がないとわかっていても、どうやら俺は未だ、そこのところなじんでいないようだ。
「次の船が来るまであと半月はあるんじゃなかったっけ。一刻を争うんだろう?」
ヴァンパイアになったばかりの豊と、ティアーの交わしていた深刻なやり取り場面を思い出す。
「ヴァンパイアは肉体を変化させる能力に長けている。鳥になってフェナサイトまで飛んでいくの。肉体的な疲弊は相当なものでしょうね。帰りは船で戻るだろうけど、それなりに機嫌を損ねているだろうからあまり刺激しないようにね」
ベルはあれで、義理に厚いところもある。自分の体を張ることになっても、責任逃れをしようとはしない。言うことは文句や嫌味が多くても決して孤独にならないのは、そういう信念のおかげなのかもしれない。
「ジャックさん、死んじゃうのか……」
「ソース」
屋根の上から見下ろす位置で、声の調子からしてやや見下す気配をにじませつつ、シュゼットは言う。
「惜しむのもほどほどにしておけ。ジャックとやらをラルヴァにしたくはないだろう」
「ラルヴァというのは、人間の言うところの悪霊のこと。人間が故人を惜しみ悲しみに暮れるのが悪いとは言わないけれど、その想いが強すぎると、魂だけがこの世界に縛られて転生を出来なくしてしまう。最初から悪霊となるわけじゃないけれど、生前どんなに善良な人間だったとしても、誰とも触れ合えず魂だけでさまようというのは自然と心をすさませてしまうものよ」
エリスからフォローが入る。幽霊って実在するんだ……おまけに魔物の一種だなんて、知らなかったな。
「だから魔物は、死別の悲しみを引きずってはいけない、というのが慣例なのよ。全ての生き物は、いずれ必ず死ぬ……何も、これっぽっちも悲しまない、というわけではないのよ。勘違いしないで欲しいんだけど」
「そんなの、みんなのこと見てたらわかるよ」
「ならいいけど」
ジャックさんからのメッセージを見た時、すぐに平静を取り戻したとはいえ、エリスの表情が歪んだのははっきりわかった。死別の悲しみを引きずらないというのだって、生前縁のあった人を悪霊にしないように、ってことなんだから。確かに人間とは違った風習なんだろうけど納得出来る。




