10話‐4 悠久の停滞
「あの、シュゼット……お願いがあるの」
「何だ」
「ヴァニッシュが川岸に座って見張りをしているんだけど、さすがに嵐がきたらあんな場所にいると危ないよ。ベルのところに帰っていい、って言ったんだけど動こうともしないの。だから今夜、ヴァニッシュもここにいさせてもらえないかな……」
ヴァニッシュがティアーの言うことを聞かないなんて珍しいな。ティアーに限ったことではないが、ヴァニッシュは基本的には従順で、仲間の言うことに逆らったりはしないのに。
「下の連中は煙たがるだろうから、置くとしたらやはりここか。私は別に構わないが、そもそもこのムシュフシュがヴァニッシュをここへ入れるのを拒むのだ」
「お願い、ムシュフシュ!」
自身の顔の前に両手を合わせ、ティアーは必死になって頼み込む。ムシュフシュは無言で、じっとティアーを見つめる。喋っているのを見たことがないし、獣らしく口をきけないのかもしれない。ティアーが狼の姿なら会話もできるのだろうか。
ムシュフシュは、感情の見えない淡泊な表情をしているが、その瞳から力を抜かない。隙がなく、目を合わせているとプレッシャーを感じさせる。
「条件として、狼ではなく人のかたちで来い、と。私も一度は顔を見たいと思っていたところだ。迎えに出よう。敦、そなたもだ」
「あたしは?」
「せっかくの肉を腐らせるつもりか? 下の連中に火を借りて準備しておけばいい」
「えー……シュゼットの火でやってくれた方が美味しくなるのになー」
「ティアー……私を便利な道具と同一視されるのは、友として寂しく思うのだが」
「そっか、ごめんね。そんなつもりじゃないよっ」
……シュゼットはずっと毅然とした態度だったが、今のやりとりは少しだけ、見た目相応に女の子っぽかった気がする。
「敦、背に乗れ」
「は?」
「そなた、単身でここを下りられないだろうが」
言いながら、シュゼットは屈んで両腕を背中に回す。つまりおぶさる形になるってことか?
自分より小柄な女の子におんぶされるのかー、なんて思ったのは一瞬のこと。そういった羞恥心は、魔物達と暮らす中で明らかに薄れてきた。はっきり言って俺は仲間内じゃあうんと足手まといなんだから、細かいことをいちいち気に病んでる場合じゃないんだ。
助走もつけずに足のバネだけでかなりの跳躍が可能なのは、魔物の特権だ。加えて、横穴から跳び出たシュゼットの背につかまっていると、長い浮遊感があった。ライトにかつがれて長距離の移動した時にはこうではなかったし、エリスと飛び降りてから着地するまでの一瞬の感覚ともまた違う。シュゼットは確かに、宙を浮いて自由に動けるようだった。
入った時と同じような、自動ドアの要領で滝が小さく裂けて出口が現れる。シュゼットはここで待つつもりだと言い、俺に外へ出るようあごでしめす仕草をする。
滝から表へ出ると、雨こそまだないものの空は灰色に薄暗く、しけった風が木々をざわざわと蠢かせ始めている。右手側の川岸、小石の敷き詰まった地面に腹を着けた狼のヴァニッシュが毛並みを風になぶられている。その背中には、彼の衣服が結ばれて固定したままだ。
俺達の接近がわかっていたのだろう。ヴァニッシュの視線はあらかじめ、まっすぐ俺をとらえていた。
俺は滝の轟音に負けないよう名前を叫びつつ、ヴァニッシュをめざして等間隔の岩の足場を跳んでいった。
「ヴァニッシュも滝の中に入っていいって、シュゼットが。あ、彼女のこと知ってるか? フェニックスの」
すみやかに、狼の首が頷く。これから人間の姿になるよう指示するのだから効率がいいだろうと、俺は彼に確かめるより先に狼の背中の服をほどきにかかる。
「ただし、人間の姿でいるように、ってさ。だからこれ着て、中に入ろうぜ」
次に頷くまでに、ヴァニッシュは若干の間を持った。俺が思わず首をかしげそうになったまさにその時までもったいぶって、ヴァニッシュは俺の手にある自分の服を口にくわえる。そうして背中を向けると、人間の姿に変わった。
最初に変わるのは、背中。毛並みが溶け込みなじみながら、人間の肌色が現れる。その流れは両手足につながり、最後に狼の頭が人間のそれに変化する。四つんばいの体勢で、数秒前までそこにいた狼が消え去り、人間の姿が現れる。
ヴァニッシュに関しては、必要があれば俺の前でも人間から狼、狼から人間へと変わる場面を何度もさらけ出している。けれど、俺はティアーのその場面を見たことがない。別に見たいわけじゃなし、いいんだけどな。
着替え終えたヴァニッシュは立ち上がると、無言で俺を見下ろしてくる。何か言いたそうな気もするし、そうでもないようにも見える。どことなく、心細いようにも何かを覚悟したようにも見える顔を……要するに、いつものヴァニッシュらしい、相反してよくわからない表情だった。
「そういや俺、ヴァニッシュに聞きたいことがあったんだ」
我ながら唐突だが、このままじゃ埒があかないので、俺から話を振ることにした。
「……何を」
「ヴァニッシュって、人間の島での名前、なんだったのかなって。……さっき、ティアーの名前の理由、教えてもらったから」
「……もしかして、気に病んだか。海月涙の名前について」
「いやさ。こういうことになるんなら、もっと真剣に考えた方が良かったかなって」
「……狼は、物を持たない。それでも持ち続けられるのは記憶だけだ。ティアーにとって、敦といた日々は何物にも換えられない大切な宝物だった。名前だって同じだ。だから、その名前が人間の社会にあってネガティブな意味を持つとしたって、ティアーにはどうでもいいことなんだ」
確かに、彼女は「よくからかわれる」と愚痴をこぼしはしたものの、海月涙という名前に不満を持ったことはない。大切な人に貰った名前だから、と、かつて話してくれた。その時の俺は当然、その名前は両親がつけたものだと思っていたんだけど。
「……俺の、人間の島での名前は、『海月 望』だ。勤め先には面白がる人もいた」
「望って、自分で考えたのか?」
「……いや。エリスが考えてくれた。彼女は俺のことを、よく知っているから」
ヴァニッシュのことを理解していたら、発想として「望」って名前が浮かぶってことか?
「……俺は、ただひとつの目的のために生きている。他には何も望んでいない」
「それって……」
風の勢いが、空の暗雲が、濃密さを増していく。嵐が刻一刻と深まっていく。
「……ティアーの生涯が、幸せなものであること。そのために、彼女と君が安らかに過ごせるよう守りたい。そのためだけに俺は生きている」
「それじゃあ、自分のことはどうだっていいっていうのか?」
「……俺にその資格はない。かつて、かけがえのない者に傷を負わせてしまった。そうして手放してしまった大切なものを、ティアーは取り戻させてくれた。だから俺の全ては、彼女の幸いのために捧げると決めた」
「少しでもいいからさ、自分の幸せについて考えてみたことないの?」
「……必要ないのに、考える意味があるのか」
「だって、いくら相手の幸せを願ったって、それがどんなものか知らなかったらどうしたらいいかわからないだろ?」
俺の意見に応えるように考え込むヴァニッシュは、やがて困ったように、しかしかすかに思い出し笑いのような表情を見せる。きっと、何かいいことでも思い出したんだろうか。
「……人間の島では、誰かに触れられても気にしなくてよかった。人間も大なり小なり魔力を持っているが、それが失われても死ぬことはない。勤め先には常に元気な先輩がいて、よくひじでつつかれたり背中を叩かれたりもした」
いるいる、そういう気さくな人。
「……そういうやりとりが出来るのは、多分、俺は嬉しかったんだと思う。人間の中でなら、俺は誰かとの触れ合いを拒まなくてもいい。それはきっと幸せなことなんだと思った。それでも、俺はやっぱり自分を許すことは出来なかった」
それきり、ヴァニッシュが話す気配は感じられなかった。仕方がないので、彼をうながして滝の内へ戻ることにする。
ヴァニッシュは、自分にとっての幸せの可能性を、すでに見出していた。それでも、過去の自分の罪を捨て去れないから。やはりティアーの幸せに尽くす道を選んだのだ。
まったくもって、不器用なまでに誠実な彼らしい選択だ。それが果たして正しいことなのか、俺にはわからなかった。
滝の裏で待っていたシュゼットは、腕を組み壁に背中の重みを預けて、どういうわけか渋い顔をしていた。
「そなた……魔物は人間よりもよほど自由で気安い生き物だと考えているだろう」
「まあ……どちらかといえば、そうだろう?」
森の中でその日暮らしをしている魔物達。社会の仕組みに流されるまま生きている人間。どちらが自由かと言われると、そりゃあ魔物の方じゃないかって思うけど。
「違うな。魔物は人間以上に、この世界、自然の仕組みや使命に縛られて生きている。元より魔物は、ただ単純に『生きるために』作られた人間とは違う。人間を生かすために生み出されたのだ。ウンディーネも、ヴァニッシュもユイノもベルも……そして、私も。使命に縛られて生きるしかない」
「みんなの、使命……」
深く追求したいような気もしたけれど――そう呟くシュゼットの表情はひどく辛そうで、見ていて痛ましい。ヴァニッシュに頼めば、きっと血反吐を吐くような思いをしてでも全てを話してくれるだろう。そんな光景がありありと想像出来て、とてもじゃないがちっぽけな好奇心などかすんでしまうのだった。
10話終了。11話に続きます。




