1話-3 人間の島フェナサイト
「いつまでやってんだよーっ。もう昼休み終わるぞー」
二階の廊下から豊が呼びかけるのは、中庭で、両手にごみ袋を下げたままぼんやりしている俺に対してだ。
日課である昼休みのごみ拾いが中途半端なままで終わるのはすっきりしないが、屋上での涙さんのことを思い返していて動きが鈍っていたせいだから、仕方ないか。
急いでごみを焼却炉の用務員のおやじさんに渡して、教師に見咎められないよう注意しながら廊下を小走りに移動する。息を切らせて教室にたどり着いたが、努力は報われない結果だった。遅刻はしたものの、俺の毎日の活動を教師が知っていたのでお咎めはなかった。
「敦もよくやるよな~。ひとりになってまでさ」
次の休み時間、豊はしみじみと呟く。
「で、清掃ボランティア部。新入生は入ったのか?」
「いんや、見学すらなし」
清掃ボランティア部というのは、その名の通り、見返りも何もなく掃除をするのが目的の部活動だ。昨年度、卒業してしまった先輩方が友達五人で集まって設立した部なのだが、参入した後輩はただひとり。俺だけだった。先輩達が卒業してしまったから、現在活動しているのは俺ひとり。
自分の家でもない公共の場所を、何の得もないのに片付けようなんて精神の持ち主は稀少らしい。
たまたま身近な人間に理解されていないだけで、学校外での活動になると、他のボランティアサークルの方々と協力することが多いので、清掃ボランティア部の活動は楽しい。だけど、俺は彼らや卒業した先輩方のように、「人間社会から無駄なごみをなくそう」といった使命感に駆られているわけじゃない。
ただ、道端に落ちているごみを見ていると、喪失感のようなものに胸をちくちくと、ほんのかすかに苛まれる。それがもどかしくて、少しのごみでも本来あるべき場所に収めたい気持ちになるんだ。
それはきっと、今でも忘れられないあの出来事を、無造作に転がっているごみから想起させられるからだろう。
俺は両親の都合で、この島のあちらこちらを移動する生活をしてきたが、中でも最も田舎的で不便な場所にいたのが八歳くらいの頃。若者が都会に出ていってしまうとかで、子供は俺と同じ歳の男の子とその兄しかいなかった。
誰にもないしょにしていたが、俺はそのふたり以外に、こっそり友達と会っていた。
月に一度、俺はなけなしのこづかいで村に一軒だけの洋菓子店にて、大好物の「シュゼット」というお菓子を買っていた――あんなに好きな食べ物だったのに、今ではシュゼットがどういうものだったかよく思い出せない。確か、クレープの一種という感じだった気がする。
それを持ってこっそりとそこへ――やましいことをしていたつもりはなかったけど、大人に見つかったら叱られるかもと漠然と感じていたその場所――山のふもとのごみ山へ向かう。
そこは決められたごみ捨て場ではなく、よその人間が不法投棄するのが習慣になった場所だった。自動車でとはいえ、そのためだけに山を越えてやって来るのだから呆れたものだ。
捨てられているのは使いものにならないクズ鉄の類が大半だったが、ついでとばかりに家庭のごみがまぎれていることがあった。さらに少数、子供の遊び道具になりそうなものも見つかる。それは退屈な生活において、当時の俺には最大の娯楽だった。
ごみ山を自分だけの宝の山のように感じていた俺に水を差すように、ある日、そいつは現れた。
俺は生ごみの臭いが強い場所へは近寄らないようにしていたが、その日はビニールの中を漁るがさごそという音が耳に障った。当時は後先考えない子供だったようで、俺は無策に様子を見に行った。
生ごみを漁って中を物色していたのは、大きな黒い犬だった。近づいても逃げない。人間の黒目よりより大きく丸く見える黒い瞳は、きょとんとしていた。おそらく俺も同じ顔をしていただろうけど。
それ以降、そいつはクズ鉄の山の上に寝そべって、俺が来るのを待ち伏せするようになった。試しに名前をつけてみると、しばらくするとその呼び名が自分 のものだと理解してくれたのか、しっぽを振って甘えるようになった。
その出会いから翌月の小遣い日には、大好物のシュゼットをそいつにも分けてやった。今思うと、犬の食生活に洋菓子なんて口に合うものか疑問だが、思った以上に喜んでくれた。さらに翌月には、両手がシュゼットに塞がれていた。
当時のおこづかいは月に八百円(歳の数かける百円というのが我が家の勘定だ)。一つ三百円のシュゼットを二つ買うのはけっこう痛かったけど、そ いつの喜びようが尋常でないので、子供心に得意な気持ちになれる。この満足感のためなら安いものだと思った。
「ティアー! 今日はシュゼットの日だぞ~」
そう呼び掛けると、ティアーはいつも以上にしっぽを振り回しよだれをたらたらと落として飛びついてくる。その軌道を読んで体当たりの第一打をよけないと、俺はよだれまみれになってしまうのだ。
ごみ山の黒い犬にティアーと名付けたことに、特別な意味はなかった。当時、好きだったテレビゲームのヒロインの名前がティナで、語呂を似せてみただけ。
その日は小遣いをもらった翌日で、いつも通りにシュゼットを二つ持ってごみ山へと急いでいた。シュゼットが温かい内にティアーに食べさせてやりたいと思っていたから。
それはあぜ道を走っていた時だった。ほんの一瞬、地面から投げ出されるような振動に襲われて、俺は前方へ盛大にすっ転んだ。けっこう大きな地震だったようだけど、揺れた時間が短かったので大した被害はなかったのだと後から知った。
俺はシュゼットを両手に持っていたせいでうまくバランスを取れずに転んでしまった。おまけに、肝心のシュゼットも落としてしまった。
立ち上がり、水田に落ちたシュゼットが具をまき散らし泥水を吸い始めているのを見る。
――大好きだったはずのシュゼットが、その瞬間、何故かこの上なく嫌なものに変わってしまったように思えた。胸の内に湧き上がる苦いもの。悪い予感。
シュゼットを失ったのだからもう、いそぐ理由はなくなったのに。そういった思いに突き動かされるように、俺は駆け出していた。
あの地震は、俺達の暮らしていた山間の小さな村の風景を変えるほどのものではなかった。同じように、ごみ山の風景もぱっと見では何も変わっていないように見えた。
全体に変化を与えなくても、ほんの小さな変化が、ティアーの命を奪っていた。俺とティアーの楽しい時間を奪った。
ごみ山のてっぺんが定位置だったはずなのに、ティアーはなぜかそこにはいなかった。ごみ山のふもとで、滑り落ちてきた冷蔵庫らしきクズ鉄に胴体から下を押しつぶされて、死んでいた。
涙が出る前に、俺は動いた。冷蔵庫を持ち上げて動かしてやりたかったけど、力が足りなかった。引っ張って冷蔵庫の下から出してやりたかったけど、途中でティアーの体がちぎれてしまうかもしれないと気付いた。
「俺ひとりでは」、どうにもできない……ティアーに何もしてやれないことを感じてから、ようやく俺は泣き出した。損傷のないティアーの頭をなでながら、俺は泣き続けた。家に帰ることもすっかり忘れて、夜になっていた。
大きな地震の後に子供が姿を消したものだから、村では俺のために大騒ぎになっていたらしい。時間はわからないけれど、満月が下り始めた頃に俺はごみ山で見つかって、こっぴどく叱られた。
悲しいことがあったのに、大切なものを――ティアーとの時間も、毎月のシュゼットを楽しみにしていた自分も失ったのに――とどめに叱られて。この喪失感を誰にもさらけだせないまま、今日まで俺は生きてきた。ごみ山での日々は、俺とティアーの中だけにしか存在しない。今となっては、いっそ幻だったんじゃないか、と思うことさえあるんだ。
帰る時は必ずふたり以上で連れ立って。校則で決められているわけではないが、これは学生にとって暗黙の了解になっている。ふたりでいればヴァンパイアに襲われないってことも、ヴァンパイアに対抗できるってこともないけどな。ただの気休めってやつだ。
いつもなら俺は豊と帰り道を共にするのだが、あいつは今日、ついに放課後残るようにと担任に指名されてしまった。
ひとりで校庭に出ると、紺色の割合が深まった夕焼け空に出迎えられる。と、所在なくその空を眺めている涙さんの姿が校門にあった。彼女は俺に気がつくと、
「じゃ、帰ろっか。敦君」
まさかとは思ったが、俺のことを待っていてくれたのだろうか。三年生は俺達より授業が一時間少ないはずなのに。
「じゃ、って……俺のこと待ってたの? 一時間も?」
「円もいないし、豊君にも頼まれたんだ。今日は遅くなるから敦君のことよろしく~って」
……豊にしては珍しく、妙な気の回し方をしたもんだ。今朝のやりとりでも気にしてるんだろうか。
それにしても、これだと俺が女の子に送られるみたいで釈然としないなぁ。
「ねぇ、せっかくだからいいとこ、寄ってかない?」
「いいとこ? ……」
一瞬でも、健全な男子としてアレな連想をしてしまった自分が痛い。もちろん、涙さんの言う「いいとこ」にはやましい意味などかけらもなかった。
「お待たせしました、シュゼットをおふたり分でございます」
「ありがとうございまーす」
「今日はあたしがごちそうするから」と言う涙さんに連れられて入った店は、駅前に新しく開店したカフェだった。ウエイトレスさんが二枚の皿を、俺と涙さん、それぞれの前に置く。ついでに伝票をテーブルに置いて、ごゆっくり、と一言残して去っていった。
「涙さん、これ……シュゼット、好きなんだ?」
「うんうん、だーいすきだよ。敦君も好きでしょ?」
「嫌いじゃないけど、そんな話したっけ」
「したよぉ。……もしかして、かなり前のことだから忘れちゃった?」
問いかける涙さんの声や表情が、ほんのわずかに悲しげに曇ったように見えた。それもそうか、せっかく誘ってくれたのに、俺の反応が芳しくないんだから。
内心の動揺を面に出さないように、かつ急いで、俺はシュゼットを口に入れる。
平皿はオレンジソースの池のようで、その上にクレープの生地が乗っている。たぶん、正式なシュゼットはこういう形式なんだろう。かつての俺が食べていた シュゼットはお持ち帰り用かなにかで、生地そのものにオレンジの風味があって、クレープに生クリームとバニラアイスが包まれていたはずだ。
このシュゼットはすでに食感が俺の知っていたものと全く違う。生地がしっとりしていて、口の中で広がるオレンジの風味の強さが段違いだ。
それでも、根本的な味の質はあまり変わらないと思える。食べている間はさわやかな風味だけど、アルコールの味付けがされているようで後からほろ苦さがやって来る。ちょっぴり背伸びをしたかった、見えっぱりな幼い自分を思って苦笑してしまう。
――本当は、わかっていたのかもしれない。あの日、直視したくない思い出と共にあったからといって、現実にシュゼットという洋菓子の価値には何の影響もないんだって。
「――うん、やっぱ好きだな。おいしいや、これ」
「でしょ?」
口に中には、懐かしい味が広がっていた。また、俺と同じものを食べながら心底おいしそうに顔をほころばせている涙さんを見ていたら、それだけでもう満腹になったような気がした。
自宅のある団地前までやってきて、今さらながら思い当たったことがある。
アネキの時もいつだってそうしているようだが、涙さんはわざわざこの団地前まで送ってくれる。その後どうしているのか、俺は今日まで気にかけたことがなかった。
男が送られて、女の子をひとりで帰すなんてあまり聞かない話だ。
「涙さん、こんな暗くなって、ひとりで大丈夫?」
「大丈夫。あたしには優秀なボディガードがついてるから。そろそろ来るかなー……」
ボディガード。その言葉に、今朝の市野とのやりとりが浮かんできた。銀色の髪の美形と歩いてた――
「いつもありがとー、ヴァニッシュ」
涙さんが呼び掛けると、森の中からのそのそと歩み寄ってきたのは、
「犬?」
白っぽい毛の――いや、外灯に照らされたその毛は、銀色に輝いていた。外灯に浮かび上がる埃まで銀に染めてしまいそうなくらいに、鮮烈なきらめきを帯びている。髪と揃いの色をした銀の瞳が淡々と俺を見上げている。
「犬じゃなくって、ヴァニッシュは狼だよ」
「野生の狼を手なづけてるの? すごいなそりゃ」
「違う違う。ヴァニッシュは家族だもの」
「家族、かぁ……」
別に、おかしなことじゃない。俺だって、ティアーが大好きで、身近な仲間の少なかったあの頃はあいつを最高の友達だと思ってたんだから。
俺はしゃがんでヴァニッシュと視線を合わせながらそのふかふかの頭を撫でて、
「じゃあ、ヴァニッシュ。俺の分も、しっかり彼女を守ってやってくれよ」
本人に聞かれるのは照れくさいので、ほんの小さな声で、ヴァニッシュにだけそう伝える。手の下の狼は、それに「まかせとけ」と応えるように、ころころとかすかにうなるのだった。
1話終了。2話に続きます。
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