7話‐4 ウンディーネの初恋
今日は豊やベルまでもが眠い目をこすりつつ、俺達の朝の出発を見送った。
「何の助けにもなってやれないけど、生きて帰ってくることを祈ってるわ」
「わかってる。――平気だよ、あたしにまかせてくれて。しっかり、やり遂げてみせるんだからっ」
みんなの気持ちを代弁したエリスの言葉に、ティアーは力強く頷いてみせる。ティアーが仲間に背を向けて歩き出すと、エリスは火の番と朝食の調理に――と言っても、昨夜、豊が用意した肉を焼くだけだが――ヴァニッシュとライトは今後の為の食材調査に、豊とベルは小屋で眠る……そんな日常に戻る。
俺はといえば、右肩にサクルドを乗せ、両手に空のバケツをぶら下げてティアーの後を追う。
そうして、エリスの予測通りに事態は動いた。
「やっぱり来たね。随分と馬鹿にしてくれるじゃない」
水源へ続く獣道の半ば、ティアーはふいに足を止めて、前方を睨み据える。俺は彼女の背中に守られているわけだから、実際のところ、ティアーがどんな表情をしているかなんて想像するしかないんだけど。
「おや、流石に気がついたかい」
声が降ってくる。存外あっけなく、枝の上にいて木々の葉に姿を隠していたそいつは、兎のように軽やかに飛び降りて着地した――鉄のような黒みがかった長い爪と、長さはそれと同等ながら対象的に白い牙が印象的な、青い皮膚の老婆だった。灰色の髪で顔の右半分を隠している為、ぎらぎらと淀んだ輝きを照りかえしている茶色の左目が印象的だ。
布の少ないローブをまとっているため、枯れ枝のような細長い手足がすらりと伸びている。意外と背は低くないようで、俺達よりも少し身長が高かったりする。
「よく言うよ。これっぽっちの小細工もなしにノコノコ現れたくせに。ソースの護衛が、仲間内で一番弱いあたしの番になるのを待ってたんでしょ。エリスには手を出しにくいし、ライトやヴァニッシュだったら適わないと思ってさ」
「別にあーたじゃなくたって、新入りのあのヴァンパイアでも構わなかったんだけどサ。昼間だったら何が出来るってんでもないだろう?」
「それで、今回は何の用ですか? ブラック・アニス」
「とうとう名前で呼んでくれないのかね? つれないねぇ」
「ええ。何度傷を受けても懲りてくださらないものだから、わたしも飽き飽きしているんです」
ということは明らかに、老婆――ブラック・アニスというのは種族名なんだろうな――の、目的はわかっているだろう。サクルドのささやかな抵抗に、ブラック・アニスは声を抑えて笑った。
その笑い声は、外見に合ってしわがれた声をした老婆には不釣り合いな、少女のような清らかさがあった。そのギャップに俺は悪寒を覚え、両手が塞がってさえいなければ両肩を抱いていただろう。
それは昨日おとといと見た、セレナートの小さな笑みを思い起こさせたのだ。幸せな気持ちが伝わるような、あのふくみ笑い。イメージとして正反対な両者の奇妙な符号が、どうしようもなく不気味だった。
「あの日口にした、ソースの味は……あれから数百年と経った今も忘れられないんだ。今も骨は住処に置いて、毎晩のように感謝をささげているのさ」
ブラック・アニスが舌なめずりをしても、舌が乾いているのか湿った音は立たない。
「ばっかみたい。……ソースの魔力があるから味が変わるなんて、あるはずがないのに」
「そうですよ。ソースという未知に対する思い込みがもたらした錯覚か、あるいは、遠い遠い記憶を美化しているだけでしょうね」
敦さま、準備はよろしいですか?
老婆に向けたセリフと同時に、脳裏に届くサクルドの言葉。
多少は間違えても、わたしからフォローすることは出来ます。思い切って、今、発動してしまいましょう。
わかった、とにかく、やってみるよ……。
全ては、ブラック・アニスにこちらの用意周到を悟らせないことにかかっている。エリスはそう言った。だから老婆の狙い通りにティアーが単独で護衛に立ち、他の仲間はさも気がついていないかのように日常を送ることにしたのだから。
長くベル達とやりあってきたからだろう、相手――ブラック・アニスも用意周到なことに変わりはない。だからある程度、こちらの油断を見せてやらないと姿を現さないだろうと思われた。
だったらこちらから仕掛ければ、なんて豊が言ったものの、手を出されない限りエメラードの同胞にはあまり手出ししたくない、というのはベルの方針だった。
「これから、ある魔術式を書いてよこすわ。明日までに死ぬ気で覚えなさい」
右の足首に巻いた、ハンカチに近い大きさの白い布を広げると、エリスは俺の右肩に左肩を押し付けるようにして腰を下ろす。地面にハンカチを放ると、その上に人差し指で魔術式を描く。色の着いた薄い水が白い布に染みて、魔術式を浮かばせる。もちろん、初見では解説がないとさっぱりわからないので、エリスは ひとつひとつ丁寧に説明をしてくれる。
「ナイフの魔術式と比べるとえらい細かいんだな……」
「術のスケールが違いすぎるからよ。これには、セレナートの魂が刻まれているんだもの」
「魂かぁ……いつだったか、サクルドあたりが、魂は目に見えるって言ってたけど」
「そういうこと。魂というのは、魔術式の結晶のようなものよ。たとえば個人を狙いうちした、呪いに近い魔術を使う場合、相手の魂を刻んだ魔術式を描くの。 他の何も巻き添えにしないで、個人だけを攻撃したいって場合に有効ね。もちろん、魂なんて並大抵のことでは視えないわけだから、そう使われるものじゃない けど」
「セレナートは、呪われてるのか?」
「まさか。この方法は攻撃にばかり使われるわけじゃないから」
ブラック・アニスに悟られないよう、平静を装って。あるいは彼女に対して恐れおののいたようにでも見せて、俺はエリスに叩き込まれた魔術式を発動させなければならなかった。
俺はソースだから、理論上は簡単なことだ。魔物達と違って、俺は呪文も魔術道具もなしに、脳裏に描くだけで魔術を発動させることが出来るのだから。
最後に、ティアーを置いていっていいのだろうかと思った。ティアーの実力を信じようという、サクルドの言葉に後押しされた。
ひとおもいに、発動させる。昨夜、言われた通り死ぬ思いで記号構成と由来を覚えた魔術式だ。
正体不明の浮遊感に、俺は術の成否さえわからず周囲を見渡した。思い至る。これは、夏の日に、鼻をつまんで背泳ぎの態勢でプールに身を沈め、水面を眺め た時の感覚だ。呼吸の苦しくない最初の瞬間がずっと続くような状態にあるのだと悟る。自分が水の中にあるとわかっても、一向に呼吸の苦しくなる様子がなかった。
ここはおそらく、セレナートの水源のただ中だ。例の魔術式は、セレナートの傍へ瞬間移動する為に組まれた式だった。瞬間移動の魔術の原理は、現在地点と目標地点それぞれに式を用意し、相互反応させるものだそうだ。セレナートはエメラードの水源を守る、土地に密着した存在だから、目標地点としてはぴったりということだった。
水面を仰いでも、セレナートの姿は見えない。下を見やると、思いがけない気配に思わず息が詰まる。
とりあえず、魔物のようには見えない……人間の女が、沈んでいた。俺の母親のような年代で、水中で溶けてなじむような空色の短髪が、頬を包むようにゆらめく。歴史の教科書で見かけるような、古めいた衣服の上に最低限の鎧をまとっている。
まるで生気がなく、確かめる気にもならない、亡骸だった。
そよ風のような微弱な気配を察し、見上げると、セレナートの寂しげな微笑があった。
あらゆる生物にとって不可侵である水源に、ひとりの人間の遺体。それも、遠く過ぎ去った時代の人と思われる身なりなのに、腐敗の様子は少しばかりもない。
こんな状況で、水源の主である彼女――セレナートに、どう切り出したらいいものか、俺は考えあぐねていた。肩に乗るサクルドはといえば、身を乗り出し、懐かしいものを見るように遺体を眺めていたりするからなおさらわからない。
「驚いた……よね、やっぱり。その人、ね。セレナートが、初めて好きになった人だよ」
「敦さま。この場所への転移の魔術は、彼女が考えたものなんです」
サクルドが示したのは、セレナートではなく、亡骸の女性だった。
「彼女の名は、織江 心。魔物名はコロン。三百年前、人類の解放を目指して戦の旗頭となり、しかし歴史にはその名を伏せたソースのひとり。コロンは、命終えた瞬間にこの場所へ亡骸を移す術を自らに刻みました」
「なんで、わざわざそんなことを」
「聞いたことないかな? ……多くの生物は、魂に記憶を、肉体に感情を宿すって。だから……何度生まれ変わっても、性格やものの考え方は変わらないんだよ」
魂に蓄積した記憶は、魂と肉体を繋いでいる魔力を通して追想出来る。だから、本当は全ての人間が魔力を持っているのだが、魔物と比べて極めて微量の魔力でしかないため、大多数の人間は前世の記憶なんて思い出さない。
前世の記憶を持つ魔物が、それに振り回されないで済むのは、魂と肉体は切り離されて転生するからだと聞かされていた。よく考えれば、その時点で思い至ることも出来たはずだ。それじゃあ、魂とは別に転生するという肉体は、どうなるのか。
「基本が前向きな者は何度生まれ変わってもポジティブな性格になりますし、逆もしかり。幾度、転生したところで後ろ暗い思考から逃れることは出来ません。快楽殺人者は、来世でも――よほどの幸運に恵まれない限りは同じ過ちを犯します」
「それじゃあ、いくら死刑にしたって意味がないじゃないか」
「かつて、そうした感情の持ち主を罰する役を担う神竜様がおられました。断罪竜さまの力は、あらゆる存在を完全なる無に還すことが出来て……もちろん、最高神の太陽竜さまは別ですけれど。太陽竜さまの定められた、同胞殺しの禁を破りし者にその力を行使してきたのです」
「だから……こころはこうして、肉体を放棄することを選んだの」
セレナートは急がず、横たわる女性の傍まで下りてゆき、ようやく言葉を次いだ。
「何度生まれ変わっても、その身を侵す絶望からは逃れられないのなら……もう、転生なんてしなくていい。この生涯で何もかもやり遂げて、永遠の眠りにつくしかないんだ……って、言って、ね」




