7話‐1 ウンディーネの初恋
寝起きの頭で無意識に身体を動かすと、激痛とはいわないが地道に肉体を痛めてやる気を奪う感覚に全身を支配された。
「いてててててっ」
「おはようさん。もしかして筋肉痛かぁ?」
「そ、そうだよたぶん」
「筋肉痛が翌日にやって来るのは身体が若く健康的な証よ。良かったじゃない。それより、あんまり騒ぐとベルが起きてきてどつかれるわよ」
呑気な調子で口々に言ってくるライトとエリスをうらめしく思うも、まぁ他人事だしなと自己完結する。どうやら俺は朝っぱらから少し混乱しているらしい。
「てーか、何だか筋肉痛とは違う痛さもあるんだけど、ところどころにっ……」
「ほぅほぅ、どのあたりだ?」
「右の頬とか、足とか腕とか……とにかく色々……」
「ヤブ蚊に刺されただけじゃない。その内免疫が出来て何とも感じなくなるから、安心なさい」
ああ、そういえば自然に身を置くと言うのにそういった予防をすっかり失念していた。蚊に刺された、ってレベルよりいささか強い痛みなんだけど、住宅街にいるような蚊とは種類が違うのかもしれない。
人間の島だったら、刺される前に防虫剤という予防法、刺されたらかゆみ止めという対症療法があるのに、エメラードではそれらが何一つ存在しないのだから厳しい。
それなりに騒いでしまったように思うが、隅で体を丸めているベルと、大の字になっている豊にはあまり影響がなかったようだ。
「……起きたか、敦」
しずしずと扉を半ばまで開けて、ヴァニッシュが顔を覗かせる。
「……俺だけでも用は足りるんじゃないか、エリス」
「ダメダメ。初っぱなから甘やかしてどうするの。それにティアーだったらまだしも、あなただけだとあの子、脅えるでしょう。敦、あなたの最初のお勤めよ。行ってらっしゃい」
「はいよー……」
ガチガチに固まってるんじゃないかと思える両手を突っ張って、棒のような両足でどうにか立ち上がる。ふらふらの足取りで向かってくる俺を、ヴァニッシュは同情するような、それでいて厳しさも感じられる表情で見守っていた。
ツリーハウスからは東と西の空が見渡せる。東の空に、まだ明けたばかりの太陽が見えるので、夜明けからまだほんのわずかしか経っていないのだろうと推測する。
昼に活動する魔物達は、夜明けと共に起床し、森が完全な闇に支配される前に寝床へ入るのが一般的だという。エメラードには電灯もないし、火を用いるのにも魔術で光源を用意するのにも資源が必要になる。だったら夜は素直に寝てしまえというのが普通らしい。
筋肉痛の体で下りる縄ばしごは生きた心地がしなかった。当事者である俺だけでなく、先に下りたヴァニッシュにも余計な心配をかけてしまう。
「それで、俺は何をすればいいんだ?」
「……水源まで出掛けて、水を汲んで帰ってくる」
ヴァニッシュはあくまで護衛とのことで、俺は大きめの木のバケツを二つ受け取った。何者かに襲われた際、頼りのヴァニッシュの手が塞がっていた、なんて笑い話にもならない。
「水源ねぇ。すぐ近くを流れてる川の水じゃダメなのかな」
昨日の日没前、ティアーがこの周辺を案内してくれた。歩いて五分とかからない場所に川があり、魚はたいていそこで調達するのだと教わったのだが、水源とやらの話はまだ聞かされていない。
「……俺達だけなら川の水でもかまわないが、人間は簡単に腹を壊すから、念の為。それに水源の水は美味しいし体にも良い。魔物や野生の獣さえ、可能な限り日に一度は水源まで出向いて水を飲むくらいだから」
そういうヴァニッシュの言葉に嘘はないようで、水源までの道のりは楽だった。動物や魔物が日常的に通って出来たのだろう、歩きやすい獣道が一筋、目的の地点まで伸びているから。
道中、せっかく同行しているのだからと先ほどから気になっていたことを訊いてみる。
「そういやさ、ヴァニッシュだけおとといまでと服が変わってないか? ティアーも豊も着替えてないのに」
昨日、ヴァニッシュはずっと獣の姿のままだった。人間の姿をしたヴァニッシュと顔を合わせたのはおとといの夜に別れたきりだったが、今朝、ヴァニッシュはかなりの軽装をしている。下は膝下までのゆったりとしたズボンで、腰のかなりきわどい位置で固定している。上は布一枚を適当に縫ったようなアンバランスさで、左鎖骨のすぐ下あたりに結び目があって腹が見えている。布の色は白が基調だが、そこかしこに青い絞り染めの模様があり、全体的にうっすらと空色がかっているように錯覚して見える。
「……本当なら、俺もティアーのように獣に戻りやすいラフな服を着ていたいんだ。けど、大の男がこう薄着で人間の島をうろうろできないから」
と、困ったような、あるいはどうでもいいようにもとれる表情でヴァニッシュはぼやいた。
水源というくらいだから山奥の湧き水のようなものを想像していたのだけど――人間を襲う類の魔物は人里に近い森に住みつくため、フェナサイトでは平地にある森よりは山の方が安心とされている。だから資材とする木の伐採は山で行うが、それに関する仕事を専門とする人達くらいしか山深くには立ち入らない。やはり魔物に遭遇する可能性はゼロにはならないから、庶民にとってどちらも縁のない場所であることには変わりない――そんなわけで湧き水については小学校の理科の授業で触れられただけで、実際には見たことも触ったこともないのだけれど。
目的の水源とやらは、湖だった。ただしフェナサイトでいうところの普通の湖とは趣が異なる。
湖を囲う木々までは通常の森のままなのだが、湖のところどころに生える木の数々は、淡い黄色で塗り重ねられたようにあいまいで湖の情景に溶けるようになっている。木が密集していないので見上げればあるはずの空はそこになく、プールの中から見上げる水面と似たゆらめきがあった。
不可思議な景色に見とれていると、空の水面に、しずくが落ちたような波が広がった。数秒待ってもそれ以外の変化がないので地上の湖へ目をやると、その中央にたたずむ少女が目にとまる。距離があるので詳細は知りようがないけれど、たたずまいからどことなくおどおどとした様子が伝わってきた。
「……あれが、エメラードの水源だ」
水に立つ彼女を指差し、ヴァニッシュが静かに告げる。
「あれって……湖じゃなくって、あの女の子がそうだってこと?」
「……そうだ。せっかくだから挨拶するといい。俺が離れればきっと寄ってくる。この場所で騒ぎを起こしてまでソースを襲う者なんているはずがないから、心配いらない。話の終わりを見計らって迎えに来る」
俺自身には心配はないというのはその説明でわかったけれど、逆にヴァニッシュのことが少し気がかりになった。そう言いながら、諦めるように、寂しいようにも見える表情をしていたから。
ヴァニッシュが姿を消すのを待ってか、水源と呼ばれた少女はようやくこちらへ向かって一歩を踏み出した。
今日も恨めしく思う程に風がないため木々はしんとしずまりかえり、容赦ない湿度にじわじわと湧き続ける汗の音さえ聞こえそうな静寂がここにある。その中にあって、彼女の挙動には音が伴わない。水面を歩いているにも関わらず波さえ起こらなかった。
いつからか彼女の身体は少しずつ水に沈みつつあった。そうして、俺の立つ岸に指をかける頃には目から下が水の中にあり、そこまでしたら疲れるんじゃないかと思うような上目遣いで俺を見ている。この状態からわかる彼女の外見は、空を透かしたような髪と瞳の色くらいのものだ。
悪いがこのままだと話しにくいので、地面に腰を下ろして目線を近づけさせてもらう。ただそれだけの動きで、まぁ予想通りに彼女は肩をびくりと震わせた。
「あ、あの……こちらはセレナート……その名のまま呼んでもらえたら嬉しい、な……」
少しばかり意外だったのは、そう話す彼女の目には不安や怯えはなく、純粋な好奇心の表情だった。
「俺は高泉敦。その内、別の名前を貰うらしいんだけど、今は敦って呼ばれてる。水汲み当番らしいから毎日顔を合わせるかもしれないんで、よろしくお願いします」
「ふふ、知ってるよ……エメラードに来たソースはみんな、同じことをしてきたんだもの……」
葉に溜まった雫が、葉を大きく揺らせて下に落ちる瞬間のように彼女は微笑んだ。ささやかなようでいて喜びがたっぷり含まれた、見ている方が幸せになれそうな笑顔だ。そんな表情がはっきりわかるのは、そう言いながら彼女が首までを水面から出したからだ。




