1話-1 人間の島フェナサイト
あの小瓶を貰ってから、俺の朝はまず寝巻を脱ぐことから始まるのが習慣となった。さっさと上着を脱ぎ、小瓶を首に下げる。
部屋を出る時には、学校へ行く身支度は全て整っている。鞄をテーブルに乗せ、俺はいつも通りアネキの部屋へ。
ノックをする必要がないのは、俺の知る限り――つまり、この十六年間、アネキがひとりでに目を覚ましたことは一度だってないからだ。彼女の生きてきた十七年間さえ皆無であったと、両親は毎朝のように愚痴をこぼしている。
結局、俺は一人で学校へ向かうことになった。親の目がないのをいいことに、十日間の休暇気分でいるらしい。
高校生活三年間は、欠席日数が二十日間を上回ると留年のいち条件を満たしてしまう。いっぺんに十日も休んでいたら、けっこう危ないんじゃないだろうか。
――そんな風に身内の今後を真剣に憂いてやるのは、もう少し後のことになる。今はとにかく、目先の自分の楽しみに頭がいっぱいだった。
俺達の家は、団地としての規模はでかいが一軒の規模は実に小さい、しかも階段しかない建物の八階にある。上り下りの日々の苦労は語る気にもならない。
さて、勇んで玄関を飛び出し階段の踊場へさしかかるまでは上機嫌であった俺は、階段を下りはじめたところで急に足元が重くなったような気がした。
俺の計画は、突き詰めて言えば彼女のくれた贈り物へのお返しだ。この春、彼女の誕生日を機にあるものを用意した。ただそれだけ。
だが、問題はその中身だ。高校も二学年に進級した大の男が、意中の女性に贈る。すでに両思いならちょっとした愚行も可愛げと許してくれるかもしれないが、これを渡された相手の女性の反応というものを想像するのがおそろしい。なんともおそろしい。
まぁ、本当のところ、わかりきってはいた。たとえどんなに反応に困るものを渡したとしても、彼女は他人からの真剣な贈り物を無碍にはしないだろう。そういう彼女だと思うからこそ、俺はこれを贈りたいと思いついたんだから。
「涙さん、おはよう」
一階の踊場に立ち、彼女の背中にあいさつを投げると、いつも通りの笑顔を見せながら俺に向き合う。癖のないショートボブの黒髪に、人よりやや大きい瞳は漆黒。俺達の学校の女子用制服は上下とも白い、襟とスカーフもくすんだ黄色と素っ気無いデザインなのだが、素朴な彼女にはこの上なく似合う。……と、思う。
「おはよー、敦君。円は?」
まったく、彼女みたいな穏やかで心優しく、何よりも笑顔の似合う彼女に、「涙」なんて似合わない名前をつけたのはどこの愚か者だろうか。……当然、親なのだろうが、とうてい理解できるものではない。
彼女――海月涙さんは、アネキの一番の友達だ。アネキはしばしばはた迷惑な行動を起こす、一家のトラブルメーカーである。アネキのために嫌な思いをしたのは数えるのもめんどうなくらいだが、 涙さんとの出会いをもたらしてくれた功績はそれら全てを帳消しにし、さらに平伏して礼を言っても足りないだろう。
「今日は休むー、だってさ」
「もう、円ったら、昨日も同じこと言ってたじゃない。あたしが耳でも引っ張って連れていこうか?」
「いやいや、それは明日からにしよう。今日はもたもたしてたら、俺達が遅刻しちゃうよ」
「……そうだね。じゃあ敦君、明日は十分早く起きるんだよ?」
「りょうかーい」
正直、アネキが遅刻しようが欠席しようが、果ては留年しようが、俺にとってはどうでもいいんだけどな。高校生にもなったら自己責任の範疇なんだし。
涙さんとふたり、通学路を歩く。通学路というのは、何故だかやたらと桜の樹ばかりを植えている。転勤族の共働き両親に連れられて各地の学校を転々としたものだが、どこの学校もおおむねそうだった。
今年はいやに、桜を見ていると感傷的な気分にさせられる気がする。それはきっと、彼女と初めて顔を合わせた日を想起するせいかもしれない……昨年、俺の高校生活がスタートを切ってまもなくのことだった。
四月も二十日を超えようかという頃合だったが、去年は例年より随分遅咲きだった桜は、ちょうど盛りを迎えていた。
涙さんは、今日と同じように階段の下に立っていた。
「君が、高泉敦君?」
「そうですけど……」
見ず知らずの人間に前ふりもなく自分の名前を言われるなんて、気味が悪い……はずなのに、なぜだかそんなに悪い気はしなかった。
「あの、どちらさんですか?」
「あ、ごめんごめん。こういう形で話し掛けられても怪しいだけか。あたし、テ……じゃないや、涙。海月、涙」
「海月さん?」
「涙でいいよ、敦君」
その時から、「涙」なんて名前には違和感があって、口にするのもためらった。
「涙、さん? 俺に何か……」
ただ下の名前で呼んだだけだというのに、妙にこそばゆい感じがした。
「うーんと……そうだね、あたし、君のおねえちゃんを待ってるんだ」
その言葉を聞いて、俺は自宅へ引き返し、アネキを叩き起こして連れてきた。彼女との約束をすっぽかし、学校をサボる気満々でいたのだからあきれるしかない。
アネキは人付き合いが下手で、高校一年目では半不登校状態だった。それを、二年生になって編入してきた涙さんの助けによって社会復帰を果たした。
助け、と言っても、涙さんはごく普通にアネキと接しただけ。アネキは別段、誰かから嫌がらせを受けたとか、そういうわけじゃない。ただ、高校では特別に親しい友人ができなかったそうで。
アネキは教室という空間で、喋ることも笑うこともなく仲むつまじいクラスメイト達の中に在ることが、たまらなくつらいと言った。だから今の高校にはとても通えない、どうにかして一から高校生活をやり直さなければと訴えた。両親は、いじめを受けているならともかく、この程度のことでいちいち逃げ出すなんてと、認めてくれなかった。
当然、両者の気持ちは対立し、家の中はそれはそれは気まずい空気だった。
そんな状況下、二年に進級して、アネキは涙さんと友達になった。アネキの言うところの、「特別親しい友人」ってやつだ。昼食の時間はふたりで机を並べて、学校内に限ってはどこへ行くのも一緒。そういう関係。
俺も同じ高校に入学したからわかったことだが、入学まもない最初のスタートで関係作りにつまづいたせいで、アネキはもうこの場所で心を開けるという自信 をさっぱり失ってしまっていた。そうしてアネキが壁を作ることで、クラスメイトはますます近寄ることをしなくなり、居るのはわかっているけどどうでもいい、そんな印象がクラスどころか学年中に広まった。その雰囲気を察して、アネキはますますあきらめてしまう。
だからこそ、学年の空気を一切知らない涙さんだけが、アネキの友達になれたのだろう。編入生であり、割と周囲の空気というものに臆さずあけっぴろげな彼女は、遠慮なくアネキに声をかけてくれたらしい。
涙さんの存在はアネキにとっても大いなる救いだったろうが、俺や両親にとっても同じだった。一年振りに、我が家が家族の安らげる空間に戻ったのだから。その安らぎの場に、俺達は四人そろって積極的に涙さんを招きいれた。
……まぁ、両親やアネキとは違って、俺は感謝の気持ちだけで涙さんと向き合ってきたわけじゃない。そのことに、今ははっきりと気付いていた。
「プレゼント? 敦君があたしに?」
「そ。この前、涙さんがくれたものへのお返し」
彼女は驚くと、おおげさに目をしばたたかせる癖がある。それだけ俺の申し出が唐突に思えたんだろう。
「突然なのは涙さんの真似なんだけどね。例のお守り、誕生日とかとは無関係にくれたものなんだから、俺だってけっこうびっくりしてたんだ。あれでもさ」
「そうなの? 敦君、ぽかーんとしてるなぁくらいにしか思わなかったけど。……でも、嬉しいなぁ。敦君があたしにプレゼントだなんて。一生、大切にするからね!」
渡す前からこんな風に笑って、お礼を言ってくれるのだ。自分の方からひとに贈り物をしているくせに、これっぽっちも見返りを期待していないんだからすごいと思う。
実は今日だけ、俺の首には二つ目の小瓶がぶらさがっていた。涙さんのくれたものと、俺が雑貨屋で買ってきた小瓶の二つ。後者を外して、俺はあの日涙さんがしたようにそれを彼女に渡した。
「これ……どうしたの?」
「涙さんのくれたお守りの水って、出しても出しても湧いてくるだろ? だから別の小瓶を買ってきて水を入れてみたんだ。水を分けた方は新しく水が湧いたりしないみたいだけど、その……お守りの効果のお裾分けみたいなさ……」
さすがに、全部説明するのは照れくさくて言葉が続かない。このお守りの効果は、大事な人が無事でありますようにという願かけだ。俺も、涙さんに危険がないように、何よりも願いたいと思った。
「うん……ありがとう。大事にする!」
いつも元気な涙さんにしては、珍しく、ちょっと頬が赤らんでしおらしくなったように見えた。と思ったら、途端にスキップして駆け出していってしまった。
あわてて後を追おうとしたところに戻ってきて、
「敦君、行こっ」
右手に俺の左手を取って、大きく手を振りながらまたスキップ。
「ちょっ……涙さん、これ歩きにくいって!」
「いーじゃんいーじゃん、ちょっとだけだよ」
……別に、本気で嫌なわけないんだから、いいんだけどな。