4話-4 封滅の式
出航しても、俺には特に異常はなかった。ヴァニッシュの言っていた個人差とやらは、幸いにも当てはまらなかったようだ。
就寝準備にトイレへ行くと、船員らしい男が吐いていた。これが個人差なのだろうか。船に合わない体質なら、なんで船乗りになんかなってしまったのだろう。
「お加減はいかがですか?」
トイレから出たところで、サクルドが姿を見せる。今や、彼女が自分の都合で現れることはないというのはわかっている。俺が、サクルドに聞かせてもらいたいことがあると察して出てきてくれたのだろう。
「腕はちょっとずきずきするなってくらいだけど、めまいがあるかな……」
「軽い貧血だと思います。エメラードに着くまでは辛抱なさってくださいね」
まだ寝るような時間でもなく、船内の通路は明るい。サクルドの輝きも目立たない。
甲板へ上がると、夜の闇の下、サクルドの真昼のような緑の光はより強く感じられた。しかし、巨大な輸送船の上にあっては微々たるものであることに変わりはなく、サクルドの姿はいつもよりさらにちっぽけに見えた。
「お疲れさま。どうだった?」
乗客の立ち入れる範囲は限られているため、甲板の中央に立ちつくし、周囲を警戒していたヴァニッシュに声をかける。
「……これだけ陸地から離れれば、もう安心していいと思う」
船室の窓から見た時は、港町の様相がはっきりとうかがえたものだが、人間の島フェナサイトはすでに、暗い海の上の小さな影と化していた。
なんだか、ひどくあっけないものだなと思う。大多数の人間にとって、生涯、離れることなく過ごす島。ほんの少し前まで、俺もそんな風に一生を終えると信じて疑わなかったのに。
「ヴァニッシュ、後はわたしにまかせて、あなたはティアー達と先に休んでください。明日は、この航路における正念場となりますから」
「……わかった」
もう安心と言いつつ、どことなく心残りがあるような顔をしながら、ヴァニッシュは去った。
「今のところ、ヴァニッシュの触れることのできる存在は、ティアーと敦さまだけなんですよ。先日、ヴァニッシュを敦さまに触れさせたのはそれを試すためだったんです。銀はソースの魔力を奪いはしますが、奪われた分の魔力は絶えず補給される。だからソースである敦さまに触れたところで、彼の銀はあなたに害を及ぼすことはない」
さすが、俺のことなら何でもわかるというサクルドらしく、余計な前ふりもなくさくっと気になっていた部分を話しにかかる。
「同胞に触れられないだけならまだしも、銀の力は魔物達にとって煙たがられるものなんです。肉体的にも精神的にも、ヴァニッシュは同胞と触れ合うことはできない。彼もまだ若いですから、孤独を甘受するほどには達観しきれません。だからヴァニッシュにとって、ティアーとあなたはとりわけ、貴重な存在なのですよ」
「でも、ティアーだって魔物だろう? 魔力を奪われないのか?」
「銀を持つからといって、同族との接触にまで影響を及ぼすとなると子孫を残すことさえできませんから。仕組みはわかっていませんけれど、そのあたりはうま くできているみたいですね。そしてワ―・ウルフは割と稀少な種族ですから、彼らの生涯において、他のワ―・ウルフとの接触がある可能性は限りなく低い。だからティアーとヴァニッシュはお互いを、かけがえのない肉親のように思い合っているんです。血縁はなくてもね」
個人的な事情は本人に確かめるべし、というのは俺のポリシーだったけど、今日、その考えに軌道修正を施した。
ヴァニッシュの言う通り、豊は正面から問い詰めても、必ずしも真実を語ってくれない。仲間の助けが必要な局面だと自覚していても、何故だか限界まで口をつぐんでしまう。
ティアーの言う通り、ヴァニッシュは求められたら拒絶しない。本当は話したくないことでも、訊ねられれば打ち明けてくれるだろう。自分の言葉で傷を深くしながらにでも。
だから、時には第三者を通して当たり障りのない程度に事情を聞くことだって、間違ってはいないはずだ。何も、当人の傷に触れるような深部にまで触れる必要はないんだから。
そして、今の俺にとって最も疑問をぶつけやすいのはサクルドだった。正直、理屈では納得していても他人のことは訊きにくいのが現実だ。そんな内容を、口にしなくても理解してくれる彼女は頼れる存在だった。
「そう言っていただけると光栄です。……けれど、ひとつ付け加えてもよろしいでしょうか」
「何が?」
「第三者を通さないと見えないのは、何より自分自身――つまり、敦さま自身のことでもあるのですよ。現に、たった今、誤解されています。豊は最初の目的こそ別件でしたが、三人はあなたを守るために集いました。彼らの絆には、最初っからあなたも含まれているのですよ。ソースは守るべき対象ではありますけれど、それだけでは豊も、ティアーもヴァニッシュも命をかけたりしません。あなたと直に接し、その人柄にひかれたから、あなたを守りたいと感じた。それは、まず間違いないでしょう」
「そうは言っても、あいつらとそういう、高尚なやりとりをした覚えがないんだけど」
豊とはごく普通のクラスメイトで、ティアーはアネキの友達で、ヴァニッシュなんてこの春に知り合ったばかりじゃないか。
「人柄というものは、何も特別な言葉やイベントでしか知りえないものではないのですよ。何気ない毎日の中で、にじみ出るような感性だってあります。敦さまはまさにそういった方です。言葉でアピールすることは稀ですが、純粋な気持ちを自分の中にたくさん抱えていて、それを行動に反映できる。あなたのことをきちんと見ていればその思いは伝わってくるのですよ」
「そう過大評価されるとかえって疑わしくなるんだけど……」
「残念ですけれど、これは決して美徳としてだけ語っているのではありませんよ」
そう評するサクルドの表情は、これまた複雑でなんとも形容のしがたいものだった。
「歴代のソースに共通する、ある共通点が、敦さまにも見受けられます。たとえるなら、ある小さなキズが敦さまに影を落とし、現在の性格へ影響しているんです」
「共通点?」
「それは……今のわたしからお話することは、できません。これはわたしの個人的な感情によるものですから、機会があれば他の誰かにうかがってください。……申し訳、ありません」
思えばサクルドとは、俺が質問して彼女が答える、そんな会話ばかりだった。まるで先生と生徒のように。しかし、先生だって感情のない機械じゃないんだから、感情に左右されることなんていくらでもある。
「ありがとう。今までたくさんのことを教えてくれたんだから、これくらいで気に病むなよ」
こう感謝を伝えても、サクルドの表情は晴れないままで。こんな調子の時にしつこく話を続けるのも悪い気がして、俺達も部屋に戻って眠ることにした。
部屋の電灯は落とされていた。サクルドを連れて部屋に入ると、ちょうどいい感じに部屋が明るく照らされる。おかげで、寝ているみんなの身体を踏みつけて起こしてしまう、なんてならずに済みそうだ。
寝る時は必ず狼に戻るティアーは、たいてい誰かの身体の上で眠る。今日は狼のヴァニッシュの背中にあごをのせていた。ヴァニッシュの方は俺達が戻るのを待っていたのか、ぱっちりと開かれた銀色の瞳と視線が合う。「俺も寝るよ。おやすみ」と小さく声をかけると、その目が閉じた。
布団で眠る豊の寝顔は、これ以上ないというくらいに安らかだった。その表情を見るだけで、ほんの一瞬、目頭に熱を感じた。明日、目が覚めれば、きっと元気な豊に会える。そう信じられる気がした。
4話終了。5話に続きます。