4話-3 封滅の式
「ふたりとも、準備はいい?」
向かい合う俺と豊の間に、ティアーが中腰で控えている。豊に限ってないとは思うが、やはりヴァンパイアの最初の食事――というのも違和感はあるけど――には危険が伴うとかで、こんな風に第三者が必要になるらしい。
俺はハンカチをくわえたまま、頷く。ティアーが言うには、魔物同士だったら多少かみつかれるくらいでは蚊に刺されるようなもので、こんな風に細工をしたり予行したりしない。当然と言えば当然だが、人間は血管に達するまでかみつかれる経験は少ないので、慣れるまでは舌を噛まないように布を噛ませておくのだという。
豊は俺の手を取ってくれはしたものの、まだ迷いがあるのか頷くことはせず、
「敦、本当にいいのか?」
等と不安そうに訊ねてくる。むしろ、決意がにぶりそうなので出来れば早めにやって欲しいくらいだ。ハンカチが唾液を吸って、喉も乾いてきそうだし。ということを目で訴えてみる。
おそるおそるという感じで、豊が口を開き、俺の腕を口に付ける。上と下の唇で挟んだまま、しばらく動く様子がなかった。心の準備ってことだろうか。
その隙に、俺もティアーに受けた説明を振り返る。仲間がヴァンパイアに血を分ける時は、たいてい腕を渡す。別に切り落とすってわけではなく、人間が注射で採血をするのと同じように手っ取り早いからだ。注射針と比べるとヴァンパイアの牙の太さは段違いだから、痛みと傷口が完全に塞がるまでの過程は比較にならないだろうけど。
しかし、報道されたヴァンパイア被害者のほとんどは首筋に牙の歯形があった。首は相手の血を一滴残さずいただこうという意思の下に狙われる部分なのだそうで。前からか後からか知らないが、ヴァンパイアに抱きつかれ首をかじられながら一生を終えるのは余りにも報われない。想像するだけでぞっとする。
ついでに、ヴァンパイアに血を吸われたらヴァンパイアになって、かつ決して逆らうことのできない配下にされてしまうという噂が人間社会にはあるのだが、 その真偽を確かめてみた。結論は、それは本当だが手間と労力の割に見返りはない、というかあまり有益な行為ではないのでよほどの物好きでないとやらないということだった。
血を吸ったヴァンパイアを親元、吸われてヴァンパイアとなった元人間を子とたとえてみる。子を作るには、血を吸いながら相手に自分の魔力を送り、術式を施す必要がある。
子はヴァンパイアになったからと言って、いくら吸っても自給はできない。親元は、子が生体活動をする上で必要とする魔力及び生命力を奪われ続ける。結果、いくら血を吸っても体力回復が追いつかない。常に空腹で、よっぽど頑張らない限りは理性を保てなくなってしまう――
なんて考え事をしていたせいか、豊の動きに対する心の準備が間に合わなかったようだ。あるいは、予測はできたとはいえ肉体的苦痛に対して無反応でいるというのが未経験では無理だったのか。
牙が肉に食い込む感触に、思わず身体が震えた。ほんの一瞬の俺の反応に、豊はすぐに反応した。
すぐに俺とティアーから離れて、豊は部屋の中央にまで後ずさっていた。俺はとりあえず、しまった、と思う。そして、力になりたいなんて言っておいて完遂出来なかった自分に失望する。
気まずい空気が流れたのも、ほんのひとときだけだった。顔をうつむかせ、声を震わせながら、豊は……
「こんなことしてまで、生きていなきゃなんないのか……」
呟いた。涙声だった。
俺は呆然として、口からハンカチを落としてしまった。
「だめよ」
ティアーが立ち上がり、豊の前まで歩み寄る。
「死ぬなんてあたしが許さない。認めない」
なら死ねばいい、なんてティアーが言うとはそれこそ思いもしないが、それにしたって想像以上に断固とした、厳しい語調だった。
「自殺するっていうなら、本人の決断に任せるしかない。他人が口を挟む資格なんてない。だけど、ヴァンパイアは自分で死ねないんだもの。死にたいっていうんなら、どうするつもりなの」
「そーだな……ことの元凶にでも、責任とってもらおうか」
顔を上げ、ティアーに向けた表情は。目は今にもこぼれ落ちそうな涙で潤っているが、そこには喜びも悲しみも、何の感情も見えなかった。うつろというか、今にも豊の感情そのものが、消えてなくなってしまいそうな。
「うそつき、わかってるくせに。もう、そんな時間の余裕はない。とっくに理性を失いはじめてるって、わかるんでしょう?」
「だから、俺が俺でいられる内に、消えてなくなったらいいって思うんだよ。そんなに間違ってるか? 俺がいなくなって誰か困るのか?」
「困るっていうか……俺は豊が死ぬのは嫌だ、けど」
思わず口をついて出たが、俺やティアー達が豊を惜しんだところで、それが何になるっていうんだろう。死んで欲しくないからどうか生きていてくれ、なんて、一方的で勝手な言葉でしかないんじゃないか。
「もしここにいたのがヴァニッシュだったら、豊の願いを叶えたかもしれない。ヴァニッシュはあたし達みんなのために、自分の手を汚すこと、今さらためらったりしないもの。要するにそういうことなんでしょう?」
「……ああ。ここにいたのがヴァニッシュだったら、俺はあいつに泣きついたかもしれない」
「だからだめなの。あたしはもう、ヴァニッシュに必要以上に手を汚させるようなことはさせない。もちろん、あたしや敦だってそう」
きっぱりと、拒絶の宣言。ぽっかりとうつろな豊の目に、ほんの少し、力が戻ったように見えた。
「だれもかれも、ヴァニッシュが銀の力で簡単に同胞殺しをしてるって勘違いして。どんな時だって、ヴァニッシュは銀で誰かを傷付けた時は、その分いっつも心を痛めてるっていうのに」
――もしかしたら、ヴァニッシュにとって銀の力っていうのは、俺の思っているよりよほど重荷なのかもしれない。豊がヴァンパイアになり、弱って倒れてし まった時のことだってそうだ。何も知らなかった俺は、仲間が倒れてるのに放っておくなんて冷たい奴だくらいに思ってしまったけど、今ならわかる。彼の性格からして、倒れている仲間に手を差し伸べることさえできないのは辛かったはずだ。
「……悪い。泣きごとでも、そんなこと考えるべきじゃなかった……」
自分だって辛いだろうに、豊は今度は謝罪の意で深く頭を下げた。
「あたしこそ。こうなったのはあたしのせいでもあるのにね。でも、ヴァンパイアになってしまっても豊には豊のままでいて欲しいと思うんだよ。……魔物だってさ、適当に折り合いつけて生きていけばそう捨てたもんじゃないよ」
あえて呑気な風に言いながら、ようやくティアーは笑顔を見せる。それを受けて、小さく小さく、豊も笑った。
そんな光景に、俺はひとり、いたたまれない思いでいた。
自分が苦しくても、あっさりと仲間を思いやる気持ちを取り戻せる。厳しい言葉だって、本当に相手を大切に思うから出てくるものだ。
……もっと前からわかりきっていたことではあるけれど、改めて、ティアー達の絆の深さを見せつけられたような気がした。
俺ときたら、豊の役に立ちたいんだと声を上げるだけで、いざ牙が突き立ったらあっけなく痛みにひるんでしまっていた。腕を確認してみると、淡く色が変わる程度に歯形がついているだけだった。
「俺も、ごめん。今度は平気だから」
説得力はないかもしれないが、今度こそ、覚悟を固めたつもりだ。さっさとハンカチをくわえて、強引に豊へ腕を差し出す。
痛覚それ自体はどうすることもできず、豊が血を吸っている間、俺は痛みに耐えて小刻みに身体を震わせていた。
歯を食い縛るついでにきつく目を閉じ、俺は豊を見ないようにした。ティアーも気を遣ったのだろう、しばらくすると部屋を出た。
唾液でも血が溢れたのでもないだろう、冷たい何かが、時折俺の腕に落ちてきた。