4話-2 封滅の式
「考えてみたら、俺、ごく普通の人生だったら船に乗る機会なんてなかったよな」
甲板へ上がったものの、船が出るまでに一時間はある。しかし、海に浮かぶ鋼鉄の巨大な固まりの上にいると思うと計り知れない緊張があった。
「これって、もし途中で沈んじゃったりしたらどうなるんだろう。やっぱりなすすべなく死ぬのかな」
ティアーは荷物を運ぶため、豊は着替えるために船室へ行ってしまったので――俺は乗船前に、公衆便所で着替えておいた。さすがに学校の制服のままっていうのは船員から怪しまれそうだから――俺に付き添っているヴァニッシュに話し掛ける。
「……沈むってこと自体、そうあるものじゃない。それに救命艇に全員収容できるはずだから、万が一のことがあっても慌てず騒がず行動することが大切だ。必要以上に緊張するのは良くない。それに、動き出したら他に心配するべきこともある」
「他に? 沈むかもしれないってこと以外に危険が?」
「……危険じゃなく個人差だから、敦にその症状が出なければ問題ない。魔物にはほとんどないことだから、俺もティアーも平気だったし、たぶん豊も大丈夫だろう」
「なんか、豊は別のことで具合が悪そうなんだけど、大丈夫なのか? 本人は何でもないって言ってたけど」
ついでのような流れになってしまったが、やっぱり気掛かりだった。
「……敦も気が付いていたとは思うが、豊はあまり、素直じゃない。助けが必要だとわかっていても大したことないと言うし、あるいは自分が苦しんでいるとさえ認めなかったりもする」
――俺は、気が付いていた、なんて言えない。学校で見ることのできた豊の印象は、この数日のあいつとはまるで別人だったから。もしかしてそうなんだろうか、とつい先ほど、思い至っただけなんだから。
「……豊は自分の存在に、罪悪感でいっぱいなんだ。母親に望まれずに生まれてきて、彼女の人生に決定的な汚点を作ったと考えて」
「何でだよ、豊に何の責任もないじゃないか」
「……当事者にとっては、理屈で割り切れないことなんていくらでもある。たとえ自分に責任がなくても、豊は自分を愛せない母親を責めることができなかった。その矛先を向ける対象は自分であり、……父親だ」
豊の父親。無差別に人間の女性を襲い、子孫を残そうとするヴァンパイア。それはそれでヴァンパイアの都合ではあるけれど、人間側からすれば納得できるものじゃない。現に豊やその母親は、こんなにも苦しめられている。
「……豊は最初、父親を殺すために俺達に助けを求めた。俺達の情報網で奴を追って、後少しでたどり着くというところで諦めた」
「何か、あったのか」
「……相手に、愛する家族ができていたから。父親自体は憎めても、家族に何の罪もない。だから豊は、その家族に免じてあいつを許すしかなかった」
「そんな簡単に納得できるものか?」
「……できるわけがない。納得できないまま父親を許さなければならなかったものだから、罪の矛先を自分自身に向けて、抱え込んでしまったんだ。……豊自身は、口が裂けても言わないだろうけど。敦は知っていていいことだと思うから俺から話した」
あわれみといつくしみを併せたような、やり切れない表情でヴァニッシュは語る。今度ばかりは、俺も同じ表情をしているかもしれない。
自分の出生を嘆く時、生みの親を憎めなくなってしまったら、否応なく自己否定を抱えることになる。憎しみにとらわれず他人を思いやれるのは尊いことだけど、そのために苦しみを自分でかぶるはめになるのはあまりに理不尽だ。
板ばさみになってどこにも逃げ場所がない、豊の苦しみはそういった質のものだった。
ヴァニッシュは出発まで、甲板から魔物の気配を探っているというので――たとえ魔物の乗客がいたとしても船の中で暴れられるような可能性は低いだろうけど、念のために――俺はひとりで客室へ向かうことになった。
甲板から中へ入ってすぐ、一フロアの手前半分が客室、後ろのもう半分が乗組員の部屋になっている。大量の乗客がいる場面を想定していないのか、部屋数は意外と多くないし、通路も狭いしで、船というものは必ずしも居心地がいいわけではないんだなと思った。
「だから、あたしの血をあげるって。遠慮なんかしてる場合じゃないよ」
割と声が大きく、怒鳴るようなティアーの声に、思わず扉を開けようとした手を止めてしまう。すぐに、扉の前で待ちぼうけをくらうのも何だかなと思い直し、ノックをして中に入る。
この部屋はふたり用の四畳半で、布団をしいて寝る仕様だ。ティアーもヴァニッシュも寝る時は狼になるというから、この規模で十分だからと選んだ部屋だ。
扉と対局の部屋の隅、積まれたふたり分の布団に背中を預けている豊の表情は暗い。部屋の中央に立つティアーの表情は、今となっては懐かしくすらある叱責モードだった――朝食を抜いてきただとか日常生活のちょっとした不摂生を咎める時、よくこんな顔をしていたっけ……。
「何してたんだ、ティアー」
「うーんと……豊のお食事について、ね」
「ヴァンパイアって、人間の血じゃないといけないってわけじゃないんだな」
「正確には人間か魔物の血の方が吸収がいいんだよ。単純に、自分より弱い相手の方が危険は少ないし手っ取り早いから、人間の方が狙われてるってだけ」
まぁ、人間だってそうだしな。野生動物の肉だっておいしく食べられて栄養面にも差は出ないだろうが、単に楽で効率的だから食用の動物を量産する。
「別に無差別に人間を襲わなくたって、何人か仲間がいればみんなから少しずつ血をのませてもらって生活していけるんだよ。だから今は、とりあえずあたしの血をのんでおこうって言ってるのに聞きわけがないんだから」
「……一度でものんだら、もう、後戻りできなくなる」
豊のこぼした言葉は、痛ましくなるくらい深刻だった。俺にははかりようもない絶望が、そこににじんでいる。
「もしかしてヴァンパイアになってから、何も口にしてないのか?」
「そうだね。だからそんなに弱ってるんだよ。ただでさえ、足を再生させたり変化したり、体力を消耗することばっかりしてるのに」
ティアーの言葉には容赦がなかった。弱っている豊にはちょっと強すぎやしないかとも思うが、俺は豊の身体のことを知らないからそう思うだけかもしれないし。何とも言えない。
「敦。ほとんどの魔物は魔力を日光で回復するの。あたし達の食事が意味するのは人間と同じで、肉体を元気に保つため。人間は食事を絶つと体力がなくなっていくけど、魔物はそうじゃない。食事を絶ったりすると、肉体を保たなければならないっていう本能が大きくなって理性を呑み込んでしまう。だからきちんと食事をとるのは、あたし達にとっては大切な責任なの。自分を失わないために」
こと食事に関してティアーがやたらと厳しいのには、そんなわけがあったのか。
「このまま豊が血をのむのを拒んでいたら、近い内に無差別に人間を襲うタイプのヴァンパイアになる。豊だってそんなこと、望んでないでしょう?」
気がついた。ここでもまた、豊は板ばさみなんだ。そして、逃げ場所がないと思っていたのも俺の間違いだということに。
今の、陰鬱な豊の表情を見ていると、豊はとっくに逃げ道に気がついていて、それを実行することも検討に入れているのではないかという心配が芽生えてくる。
「わかった。なら今回は、俺の血にしよう」
そう宣言するも、唐突だったせいかふたりとも唖然として、
「なんでいきなりそうなるんだ?」
「慣れてないと痛いと思うけど、いいの? あたしだったらベル……所長によくあげてるんだから、気にしなくていいんだよ?」
「交代制なんだろ? だったら俺もその内参加することになるんだから。
エメラードに着いたら今より心身ともに余裕なくなりそうだし。
せっかくだから今、体験しといた方がいいかなって」
「あ、そーいうことか。なるほどね」
ティアーの方は納得してくれたようだが、豊の表情は晴れない。位置の都合で上目遣いの視線には、やんわりと拒絶が込められているような気がした。
「今日、キネ先輩に頼まれたんだよ。豊のこと頼むって」
本当は、豊の為に俺のできることが、これくらいしか思い浮かばなかったから――ただ、力になりたいと思っただけなんだけど、口にするのははばかられた。
最初から魔物の仲間だったとはいえ、やっぱり豊が死んだのは俺の事情に巻き込まれたからだという思いが消えない。それを豊に打ち明ける勇気も、今の俺にはなかった。だから、少し体を張るくらい何でもない。