運命のない時代へ
その後の敦の人生は、主にエメラードとアクアマリンを行き来しての魔術の研究に大部分を費やしていた。最終的には、無限に湧く魔力を持つ「ソース」としてよりも、全知を持つ「小竜アーチ」としての存在感の方が魔物の世界では大きくなっていった。
ソースっていうのは魔物からはやっかまれる立場だし、基本的には貧乏くじみたいなものだからそこから解放されるならそれは良かったんじゃないか? と俺は思ったんだけど。アーチはアーチで歴史上、何度かあった人間と魔物の争いを「全知」を駆使して先導し名前を残してきたのが尾を引いて魔物からは嫌われがちなので、結局あんまり変わらなかったな。
梓は父親が人間だったものの母親がハーフ・キャットという魔物だったせいか、俺達と知り合った直後から体の成長が止まってしまった。俺も、死んでヴァンパイアになった十六歳から肉体が変化しない。
聖達はどれだけ時が経って自分の体が老いて、梓が子供のままの姿でも、梓に対する接し方がまるで変わらなかった。対等な友人関係のまま、時に甘えたり甘えさせたり。
敦はというと、元から責任感の塊みたいな性格だったし、アーチっていうのは式竜や支竜の保護者みたいな立場だったのも影響したと思う。歳を重ねるとだんだん口うるさくなってきた気がする。
「子供扱いすんなよなー」と梓は不満そうにぼやいていた。
俺は俺で魔物の世界でやるべき目標もあったけど、基本的には敦達の魔物の世界での日々を傍観しているだけだった。
『あたしが生きる意味を、あなたに分けてあげる。守りたい人も』
人間としてはとっくに死んでてその世界に居所のない俺は、ティアーの言った通り、今はそのために生きてるようなもんだ。でも、敦はすでに、身の安全を脅かされるような立場じゃない。守る必要もないのにただ近くにいるだけ、それって無意味で漫然とした依存みたいだ。
敦が生きてる今でさえこんな心境なのに、死に別れた後のことを思うとそれだけですでに虚しさが忍び寄る。
そも、俺は色々な思惑の結果、二度と「封滅の式」を使えない体になっていた。使ったら最後、一直線に死ぬしかない能力なんか使えないならそれにこしたことはないんだけど。そんな迷惑な能力であったとしても、式竜という存在のアイデンティティであったことは事実なわけで。
アーチの「全知」を駆使して常に暇知らずで生きている敦の姿はちょっとだけ眩しいというか、羨ましくさえ映っていた。
俺は、すっかり忘れていたんだ。もう数十年も経っていたから。
かつて、敦がこぼしていた。敦にとってティアーは太陽のように力強くて、眩しくて、恋愛感情は元より羨望を抱いていたのかもしれないと。そして、一方的な羨望は危険なのかもしれないと分析してもいた。
俺が強くて頼れる涙さんを求めすぎていたから、ティアーに無理にそれを演じさせすぎてしまったのかもしれない。実際、彼女は「敦の前では強い魔物でありたい」という想いに捕らわれて死期を早めてしまった。
そんな悔恨を聞いていたのに、いつの間にか、同じ過ちを繰り返していた。一方的な羨望は危険だと、他ならぬ敦自身がそう言っていたのを聞いたくせに……。
現役時代、あんなに精力的に活動していたのに。目標としていた研究を全て終えて間もなくして。
敦はあっという間に、老いが回って、目に見えて認知機能にも影響が出ていた。
他人のための研究に人生の大半を費やして、その目途が立って、これからはようやく自分のしたいことが出来るのかなと傍目に見ていた俺達はそう思っていたのに。残酷なことに、終わってみればそんな時間はほとんどなかった。
そういう老い方をした人間が今まで通りに魔物の島で暮らせるはずもなく、人間の島の介護施設に入所することになった。
もう何年も生きられはしないだろうというのが医者の見立てでもあったから、俺と梓はその日を迎えるまで、人間の島で暮らすことにした。
「オレ、人間の島に長期間住むってこれが初めてなのに。こんな理由でそうすることになるなんて考えたこともなかったなぁ」
生まれた時から魔物の島で戦士として生きてきた梓にとっては何もかもが初めての経験で、戸惑ってはいたけれど、元から人懐こい性格と素直な好奇心からすぐに新しい環境にも慣れていった。
敦の認知は面会する度に別の時代に飛んでいて、本人には悪いが話している分には割と面白さもあった。ああ、あの時の話か。そういえばそんなこともあったよなぁ、なんて思い出を振り返るみたいで。
とはいえ……入所した時点では歩けていたのが出来なくなり、ベッドから出なくなり、今は身を起こすことさえ出来ず。話す時は電動ベッドで体ではなくベッドの方を動かして無理やりに目線を合わせる。
そうやって調整しても、俺達と話すのに目を合わせる動きさえしなくなった、その日のことだった。それが俺達の最後の会話だった。
「小竜アーチは……ほんの少ししか魔力を持てないから……自分の生きた時間で得た……いちばん大事な記憶だけを持って……生まれ変わるんだ……」
俺も梓もそのことはとっくに知ってるし、あえて説明する必要はない。これはたぶん、俺達がまだそれを知らないと思ってた時期の敦の感覚で、今こうして話しているんだろう。こんな感じにももうすっかり慣れてしまった。
「最初のアーチは……源泉竜から与えられた使命を……ふたりめは……」
ユイノが封滅の式を使わずに済むように、アースがひとりぼっちにならずに済むように、生まれ変わる度に考える。その約束を記憶に刻んだ。
思いもしないところで自分達の名前が出てきて、俺も梓も動揺を隠せない。けれど、敦自身がこっちを見ていないから、構わず独白めいた語りを続ける。
「さんにんめのアーチは……月光竜が訪ねてきて……お告げを受けたんだ……。ユイノが封滅の式を使えなくなるのも……アースがひとりじゃなくなるのも……俺……アーチじゃない誰かが成し遂げる……それはもう、運命で決まっているって……」
その夢を成し遂げるのが別の者であるのがすでに定まっているのに、その未来に向かって努力することに意味が見出せるかな? そう言って、せせら笑う。月光竜っていうのは、自身の見る「絶対に変わらない運命」を誰かが変えてくれることを夢見て、その可能性を感じる相手に接触して揺さぶりをかけてくるものらしい。アーチはそのひとりとして、お眼鏡に適った。
「さんにんめは……それが叶うっていうのなら……成し遂げるのが自分であるか否かなんて関係ないじゃないかって……それでユイノもアースも幸せになれるなら……その運命を目指すって……月光竜からのお告げを、魂に刻むことにした……」
それからも何回か、アーチは転生した。人間と魔物の不可侵条約を締結した軍師、神楽歩もそのひとり。彼は、人類の地位を確かに確立したものの、その戦争で犠牲になった全ての命は自分の責任であると。生まれ変わっても背負い続けろと魂に刻む。
「どうあがいても、変わらない運命とか……その存在を知っても心折れず、生きる意味を求め続けろとか……構わないけどさ……でも……俺だって……」
今の敦の体は、溜息をつくことさえ出来ないようだけど、出来るならそうしたかったんだと思う。
「……疲れたよ……運命に抗うのも、従うのも、背負うのも……だから……アーチがするべき全てを俺がやりきって……次はもう……運命なんかない時代に……生まれるんだ……」
「約束の日」を迎えた先の世界になるまで、もう、転生したくない。
それは、他者のために生きてばかりだった敦の、「自分自身の願い」だった。
約束の日を迎えたら、この世から魔力という概念そのものがなくなる。魂と魔力は一体だから、魔力さえなくなれば、魂に刻まれた「小竜アーチの使命」に縛られることも、なくなるから……。
何かに操られるように、俺は前進していた。床に膝を着いて、敦の胸から下を包む布団を握りしめる拳が、どうしようもなく震えている。その体勢のままどうにか頭だけ動かして、正面から顔を見る。
「……そんな顔、するなよ……俺だって……ちゃんと……自分がしたいこともしたんだから……」
力なく、笑う。あちこちに皺の刻まれた、老人そのものの面立ちなのに、その笑顔は遥か昔に見た敦を思い出す。
「すれ違ったとしても……俺からだけでも……ティアーに好きだって言って……伝えておいて……良かったんだよな……?」
「……当たり前だろ……? あいつは……おまえが……敦のことが、好きで、好きで、たまらなかったんだから……っ」
ティアーが言わないまま死んだのもあいつの意思があってのことだから、いくら知ってるっていっても、俺がバラすわけにはいかないって思ってた。だから、何十年経ってもずっと、胸の内にしまっていたんだ。
でも、今だったら、ティアーもそれを許してくれると思った。
「お告げだか神竜だか知らないけど……そいつが言うことだって、間違ってる。ユイノの能力を封印したのが誰かなんて、関係ない。俺を孤独から救ってくれたのは他の誰でもない、アーチですらない……全部、敦がいたからなんだよ……!」
敦がティアーを助けたから、ティアーは俺を助けに来てくれた。そのティアーが導いてくれたから、俺は敦に出会えた。暗闇と未来への絶望しか知らなかった俺に、光の射す世界を見せてくれたのは、敦だった。
敦にとってティアーが太陽だったっていうなら、俺にとっては、おまえがそうだった。それは俺達の間ではもう禁句みたいなもので口には出せないから、喉から胸の奥までつっかえて苦しかったけど。
「豊……俺さ……死んだら……エメラードに……帰りたいんだ……」
たとえティアーがもう転生していたとしても、彼女の体がそこで眠ることを選んだのは事実だから、俺もそこで眠りたい。あの頃からずっとそう願ってた。何故だかちょっと照れたように、はにかむような調子で呟いた。
わかったよ……辛うじてそれだけ返して、それに対する敦の返事はなかった。聞けなかった。俺の返事は、あいつにちゃんと届いたのかな……。
「あ、敦……っ、豊ぁ……っ」
俺の後ろでただぼろぼろと涙をこぼして、梓は成り行きを見守っていた。俺とは別の意味で、梓にとって敦は唯一の存在だったから、この状況がただ辛くて言葉を差し挟めなかったのかもしれない。敦の言葉がなくなって、ついに、俺の肩に縋りついて泣きじゃくる。俺も今ばかりはただただ悲しみに突き動かされるしかなくて。床に座り込んだまま梓を抱いて泣いた。
お互いに、子供のまま時が動かない体で、これから俺達は長い時間をふたりで生きていくことになる。遥か昔の竜達が願ったように、お互いをひとりぼっちにしないために。