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4/5 聖の海

 幼い頃。アクアマリンでは子供が遊べるような場所は本当に何ひとつとなかったから、僕と梓は毎日のように港へ行った。人間の島からの船は毎日行き来しているし、船員さん達は幼い人間の子供が魔物の島で暮らしていることを心配して何かと気にかけて話しかけてくれたり、自分の子供のお下がりのおもちゃ等を貸してくれたりした。「あげようか」とも言ってくれたけど、家が狭いからあんまり物が増えすぎるのは良くないと思って気持ちだけ受け取っていた。




 船が来るのは夕方から夜にかけてが多いから、自然、夜に子供が出歩くことになるけど、アクアマリンでは誰もそんなこと気にしない。人間の幼子に手を出すような魔物はここにはいなかったから、夜遊びしても別に危なくなかったんだ。




「船が行く方向からして、あっちにはエメラードが、そっちには人間の島があるんだろうね」


「ふーん……」


 月に一度しか出ない、エメラードへ向かう船の後姿を指さしながら考える。アクアマリンと同じ、魔物が住むエメラード。アクアマリンと比べてずぅっと広いから、普通の人間でエメラードへ行く人はほとんどいないって春日居先生が言っていた。魔物の研究がお仕事の先生ですらエメラードへはひとりで行けないし、行ったことがないって。一応は法律であれをしちゃいけない、これをしなきゃいけないって決められてるアクアマリンと違って、無法地帯ってやつだから危ないんだって。




「ひじりはさぁ、いつかにんげんの島に行っちゃうの?」


「え? 行かないよ?」


「えー、なんでぇ?」


 だって、こずえおばさんはにんげんの島へ行っちゃったのに。梓は不安と疑いの目を僕に向けて、見上げてくる。梓とは誕生日が一年も違わないけど、幼いころはたったそれだけでも体格差がけっこう出るから、僕は梓のお兄ちゃんのつもりでいた。




「だって僕がいなくなったら、梓やお父さんがひとりになっちゃうから」




 ついこの前まで、僕はアクアマリンでお父さんとお母さんと三人で暮らしていた。ある日、ぺたんこのお腹を撫でながらお母さんが言った。


「聖ちゃん……お母さんのお腹の中には、あなたのきょうだい……弟か妹のどちらかがいるの」


 お母さんはその子を人間の島で育てたい。だから一緒に帰りましょう? お母さんはそう言った。


「お父さんは一緒に行かないの?」


「あの人は……人間の島へは帰れないのよ」


「だったら僕はお父さんと一緒にいる。お母さんにはその子がいてくれるから、ひとりじゃないよね?」


 そうね……寂しいけれど、聖ちゃんの言う通り。どちらもなんて欲張りかもね。お母さんはとても悲しそうに呟いた。


 別れがつらくなってしまうから見送りには来ないでほしいと僕達に言って、お母さんはこっそり、人間の島へ帰っていった。




 アクアマリンに住もうとする人間はたまにいるけど、すぐに死んじゃったり帰ったりするし、だいいち子供を連れてくる人なんか見たことない。僕の両親はそういう意味では珍しい人間だと思う。だから、僕がいなくなったら梓にも遊び相手がいなくなっちゃって寂しいと思うんだ。




「ほんとーに、どこにも行かない?」


「行かないって。梓に嘘ついたことないだろ?」


「う~ん……そうだね!」


 安心したぁ、と言って大きく口を開けて笑ってくれた。そうすると、つい先日下の前歯が抜けたばかりの隙間が目立つ。お母さんはひとつ年上の僕の歯がまだ抜けていないのに梓のが抜けたのは早すぎるんじゃないかって心配してた。お父さんはそんな細かいこと気にするなって笑っていて、そうやって心配してくれるお母さんはもういないと思い出してちょっと寂しくなる。


 でも、僕のお母さんはもう会えないっていっても人間の島のどこにいるかがわかっているし。生まれた時からお父さんもお母さんもいなかった梓ががんばっているんだから、僕もしっかりしないとダメだよね。




「そうでもないよ? お母さんはオレの中にいつもいるからそんなにさびしくないもん」


「そうなの?」


 梓のお母さんはハーフキャットという魔物で、子供を産むのと引き換えに死んでしまうけど、その子供の中に自分を半分残すんだって。難しくてよくわからないけど、梓にとってはお母さんはいつもそばにいてくれて寂しくないっていうなら別にいいのかな。


「でも、お父さんが帰って来ないのはやっぱりさびしいかなぁ……お父さん、オレが生まれて会えるのとってもたのしみにしてたって春日居先生も言ってたのに、なんでかえってこないんだろ」




 春日居先生だけでなく、僕のお父さんもよく言っていた。梓のお父さんは梓みたいに優しい性格で良い人で、お父さん達にとっても大事な人だったって。


「よりにもよってこの俺に、あんな心のキレェ~な友達が出来るなんて夢にも思わなかったよなぁ」


 お酒を飲んで気持ち良くなったお父さんが、僕を膝の上に乗っけて揺らしながら、思い出話を聞かせてくれた。何度も。






 理由も覚えてないくらいささいなことが原因なんだけど、梓と口げんかになることもたまにあった。


「もういいよっ、梓なんか……ばぁーか!」


 言い合いしてる内にわけわかんなくなって、たいていは僕がばかみたいな捨て台詞を吐いて、自分の家へ逃げ帰る。


 お父さんは仕事で家にいなくて、もちろんお母さんもいなくて、自分のベッドの上で膝を抱えて泣いていた。また酷いこと言っちゃった。僕達にはお互いしか友達がいないのに、これでもう友達でいられなくなっちゃったらどうしよう。謝らなきゃ。でも、なんて言って謝ればいいのか、どんな顔して会えばいいのかわからなくて。その勇気が出せなくて家から出られなくなってしまう。




 そんな風にうじうじしていると、時間を見計らって梓が家に入ってきて、ひょっこり覗き込んでくる。聖が本気で言ってるんじゃないってわかってるよ。嫌いになったりなんかしないよ、大丈夫だよ。って、言いながら許してくれるから、僕も素直にごめんねって言えた。いつの間にか全然、お兄ちゃんじゃなくなっちゃったな。







 お父さんが死んだのは、僕が十歳になったすぐ後のことだった。お父さんは毎晩、瓶で一本くらいのお酒を飲んでいたけど、それを飲んでも具合が悪くなるどころかいつでもとても楽しそうだったから、それが良くないことだなんて僕は知らなかった。春日居先生はよく、体に悪いから控えめにするようにと言っていたけど、お父さんは全然気にしていなくて。春日居先生も自主性を重んじる? 性格で、無理やりお酒を取り上げたりはしなかった。そういう意味ではお父さんにはお母さんがいなくちゃダメだったのかもしれない。春日居先生よりはきつい感じで、お父さんにお酒を飲みすぎないように言っていた気がする。


 そういう話をちゃんと聞く前に死んでしまったから、お父さんがアクアマリンで生きていくためのお金をアクアマリンのどこでどうやって稼いでいたのか僕は今でもよくわかっていない。決して多くはなかったそれをお酒でたくさん使ってしまうことに関してもお母さんは怒っていた。




 ある夜。ベッドの中でぼんやりしていたお父さんが僕を呼んだ。この時はただ眠たそうに見えて、そのまま死んでしまうなんて思ってもみなかった。




「俺はなぁ……愛した人間みんな不幸にしちまったんだぁ……自分の両親も、おまえの母さんも……梓の父さんもなぁ……」


「え……?」


「あんな話……本気にするとは思わなかったんだよなぁ……」






『働いても働いてもぜんっぜん楽になんねぇなぁ~。お隣の島にいるっつぅ、どでかい竜の首でも獲れりゃあ一生遊んで暮らせるんだろうになぁ~』




 隣の島……ユークレースにいる闇竜には、アクアマリン同盟の定めた懸賞金は別にかかっていない。魔物にとって竜族は格上ってわけじゃないけど、なるべくなら尊重したい種族って扱いになっているから、魔物に攻撃してくるわけでもなければわざわざ戦おうとはしない。




「たとえ話のつもりだったんだぁ……でもあいつは……言葉をそのまんま受け取っちまうやつで……そういう頭の奴だって俺ぁ知ってたんだぁ……」




 一生遊んで暮らせる……お父さんがいっぱい遊んでくれるなら、聖も嬉しいだろうなぁ。あいつはガキん頃父親にまったく遊んでもらえなくて、だからそんな風に考えて……。ふらふら~っとお隣の島まで行って……竜に殺されたんだぁ……。




 物心ついた頃から、なんとなくだけど僕や梓を気にかけてくれていたブルー・フェニックスのツヴァイクは、たまたま空を飛んでいる時にその瞬間を見ていた。目の前で死なれてしまって、助けに入れなかったことを申し訳なく思ってそうしてくれていたんだと。遺体も回収出来ていなくって、僕達にはもう死んでしまったんだって秘密にしていたって。


 お父さんのせいでそんなことになったって知ってしまったら、僕と梓が友達のままでいられなくなるんじゃないかって、大人達は揃って心配して、配慮してくれていた。




「俺さえいなけりゃあ……俺なんか……生まれてこなけりゃあ良かったんだよなぁ……」


 うわごとのように言い残して、それがお父さんの最後の言葉だった。お父さん自身、それが最後になるって思ってなかったのかもしれない。寝ぼけているみたいな感じだった。また朝になったら目が覚めるつもりで、目を閉じたのかもしれない。


 僕も呆然としてしまっていて、ベッドの側に膝をついて、何時間もお父さんの手を握っていた。だんだん冷たくなってきたから、死んでしまったのかもしれないって気が付いた。




 アクアマリンにはちゃんとした時計なんかないから想像でしかないけど、たぶん、真夜中だった。梓はきっと寝ているだろうと思って、春日居先生に会いに行った。泣きながら。ほんの数歩の距離にその家はある。




 いつもだったら春日居先生も眠っていて暗くなっている時間だと思うんだけど、その日はドアの隙間から明かりが漏れていた。




「嘘だよ……そんなひどいこと、きよしおじさんがするわけないよ……」


 梓がぐすぐす泣きながら、春日居先生に訴えている声が聞こえた。




「お父さんはいつか帰ってきて……そんなことないよって。おじさんはそんなことしてないよって、言ってくれるよぉ……」


 そこからは声にならなくて、くぐもった泣き声で、春日居先生が抱きしめて宥めてるんだろうなって。そんな姿が想像できた。




 僕は扉を開けるのはやめて、そのまま家に引き返した。梓も知ってしまったんだ。


 でも、知らないままだとしてもおんなじことだ。今までとおんなじ気持ちで梓の友達でいるなんて、許されるんだろうか。




 僕が生まれたせいで、梓のお父さんは死んだのに。


 お父さんが、生まれてこなければ良かったっていうなら……お父さんが生まれていなければ僕も生まれなかったんだから……僕達がいなければ、梓はお父さんと一緒に生きていられたのかもしれないんだ。




 それでも僕はお父さんが好きだった。これからどうしたらいいのかわからなくて、お父さんの胸に頭をうずめてひとりぼっちで泣いていた。何時間経ったのかわからないけど、そのまま眠ってしまっていたらしい。




 夢を見た……海の向こうの世界。まだ、僕自身は見たことのない、大きな大きな島。あんまり大きくて、緑の波に埋もれて溺れてしまいそうな。


 遥か遠い過去の世界。僕ではない僕が生きていた時代。


 その時の僕は、どうやら自分のお父さんもお母さんも大嫌いで。そのお父さんを慕う周りの人達のことも好きになれなくて、ずっとひとりぼっちだった。


 やらなければいけないのにやり残したことがいっぱいあった。




「僕が……やればいいんだ」


 目が覚めて、あえて、声に出してみた。言い聞かせることでより強く、誓いを心に刻みつけられるような気がした。




 人類の始まりの人。原罪のクーク。彼がやり残したことを全て、僕が叶える。


 そうしたら、お父さんは「クークが生まれるために必要だった人」になる。生まれてきてよかった人になれる。


 お父さんだけじゃなく僕だって。クークとしての僕なら、この世に必要だったって……生まれてきてよかったんだって思えるから。




 夜が明けたら、春日居先生が梓を連れて家へ来た。何か用事があったのか……もしかしたら昨夜していたあの話を僕達ともするつもりだったのかもしれないけど、お父さんが死んでいるのを見つけてそれどころじゃなくなった。


 火葬して、骨壺に入れた。アクアマリンでは焼いた骨を粉末状になるまで砕いて海へ流すのが主流だけど、僕はお父さんを海に流したくなかったから、壺に入れたままずっと家に置いておくしかなかった。




 ひと通り終わってから、骨壺を持ったまま、僕は梓達に自分がクークだって思い出したことを話した。ふたりとも驚いていたし、特に梓は自分が支竜アースだからその頃のことを覚えていなくてもちょっと思うところがあるみたいだった。


 あのことを知ってしまってこれから梓にどう接すればいいんだろうって思っていたけど、自分は聖じゃなくてクークなんだって思ったら、何の負い目もなく話が出来た……。








「あっ! 聖ちゃん起きたぁ。おはよぉー」


 真っ白でふかふかのベッドの中にいた。家のベッドよりずっと質が良いから、ここは自分の家じゃないんだと思う。


 見覚えのない女の子が、枕のすぐ横に肘をついて、僕を見下ろしていた。真っ黒な長髪なのに前髪は短くて、眉毛の動きがよく見える。知らない子なのに、なんでか懐かしいような気持ちになる。




 女の子は立ち上がり、別の部屋へ歩いていく。背の高い、大人の男の人を連れて来た。ゴーグルみたいなもので覆っていて目は見えないけど、口は笑顔の形をしていてなんとなく安心する。




「まなぶちゃんとねぇ、どっちが見てる時に聖ちゃんが起きるか賭けてたの。美味しいフルーツ缶おごってくれるって! 後で一緒に食べようねぇ」


「いやいやぁ、さすがに勝ってたって年下の女の子に出させたりしないよ? みんなちょっと暗くなりすぎててさぁ。気晴らしがしたくって、こんな事態なのに賭けたりしてごめんなー」


 あれから梓もずーっとあんたの側を離れなかったんだけど、そろそろ限界そうだったから春日居先生の家に帰らせて休ませてんだよ。そう男の人は言うけど、あれからってなんだろう。いつのこと?


 体がおもだるくて動けない。男の人が僕の左頬に人差し指をほんのかすかに触れさせる。




「ユークレースの地面ってカッチカチだから、倒れた衝撃で顔思いっきり擦ったみたいだな。時間はかかるけど傷跡も綺麗に消えるっていうから、いいって言われるまでこれは外さないようにしてくれ」


 そう言われて自分の頬に手を添えてみると、大きな湿布のようなものが貼りついていた。




「それにしてもちょっと羨ましいよな~。俺なんか何度入院しても待合室の箱の上で寝かされるのに、エイリーンは個室のふかふかベッドだもん。ていうかこんな部屋あったのすら知らなかったわ~」


「……エイリーン?」


 誰だろう。僕のことを言ってそうだけど知らない名前だ。男の人は僕の反応に、「ん?」と首を傾げる。女の子は気にしてなさそうに、ベッドの上に腰を下ろして足をぶらぶらさせる。笑顔でこっちを見つめてくる。




「あなた達は誰? 人間、だよね」


 今、アクアマリンにいる人間は僕と梓と春日居先生くらいだったはずだ。もう何人かいる時だってあるけど、今はみんないなくなった……。


 男の人は女の子に、みんなを呼んでくるから僕のことを見ていてくれ、なんて頼んで出ていった。




「AB型って人間の島でも貴重だから、ここにはもちろんストックなんてないし、他のみんなも血液型バラバラだったんだよね。だからあたしの血しか輸血に使えなかったの。それであたしも今はちょっと、貧血っぽいかも。あんまり動きたくないなぁ」


「……僕が怪我をして、輸血が必要になったってこと? ……ごめん」


 記憶がおぼろげな感じなのはそういうことがあったから、なのかな……何があったんだろう。




「いいよぉ、気にしないで。どっちにしろ、聖ちゃんに輸血するならあたしの血が一番合ってるに決まってるもんね」





 男の人は、梓と、それ以外にもうふたり連れて戻ってきた。梓にしたって僕の知っている梓とはちょっと違う。体が大きくて少し大人っぽいし、髪の毛がうんと長い。元々お母さんに似ているらしい女性的な顔立ちではあったけど、結んでいない長髪だと女の人みたいにも見える。面影はあるから梓だってちゃんとわかるけど。


「ひじりぃぃぃぃ……! よがった……良かったぁぁ」


 ベッドの上の僕を見るなり、梓が無理やり抱き起して、抱きしめたままわぁわぁ泣きだした。腕の力が強すぎて痛いくらいだった。梓ってこんなに力、強くなかったと思うんだけど。


 梓の泣き声を聞いていたら、なんだかそれがうつってきたような……僕も昨日のことを思い出してなんだか悲しくなってきて、いつからか涙が流れ落ちてきていた。頬が冷たい。左頬の湿布にも滲みこんでくる。




「梓……お父さんはどこ?」


「えっ?」


 お父さんを骨壺に収めたところまでは覚えているんだけど、それをどこに置いたのかが思い出せなかった。梓は知ってるかなと思って訊いてみただけなんだけど、梓は驚いて、僕の肩に手をやって顔をまじまじ見てくる。




「おじさんは十年前に死んじゃっただろ?」


「十年……? 昨日じゃないの?」


 梓が他の人達の方を振り返る。ゴーグルの男の人は困ったような顔で頭をかいている。もう一人は腕を組んで壁に体重を預けて、険しい顔でこっちをじっと見ている。観察しているみたいな。片手にノートを持っている。


 もうひとり、明るい土の色みたいな髪の人はにやにや笑いながら、こっちに近付いてくる。




「あの時点で魂の封印は半分ほど成されていたようだ。十年分の記憶はあの中に納まっているのだろうな。クノー」


「はぁーい」


 ベッドに座っていた女の子が弾みをつけるようにぴょんと立ち上がり、自分の首の下、鎖骨のあたりで手を重ねる。祈っているみたいなポーズで目を閉じる。しばらくすると、体の中から剣のような形の何かが浮かび上がってきた。はいどうぞ、と言いながら男の人に差し出す。




 ちゃんと見えるまでに男の人がしっかりと握ってしまったから柄の色はわからなかったけど、刃は真っ赤だった。濁ったような、まがまがしい赤色。


 その刃先を僕に突き付けようとした動きに気付いて、梓がとっさに僕をかばった。ベッドに押し倒して、自分はその上にかぶさって、相手を睨みつける。




「なにすんだよっ」


「良いのか? このままにしておけば記憶は戻せぬというのに」


「そうだけど……」


「それを刺したら元に戻るのか?」


 険しい顔の男の人が、声も同じように厳しく、追求する。




「戻らぬな。少なくともここでは。条件を満たしておらぬ」


「条件?」


「いずれにせよ、クーク次第よ。目覚めた以上は近々に本人が決断するであろう。ライムはしばしその時を待つ」


 赤い剣を携えたまま、外へ出て行った。






「うぅ~~~何から話したらいいのかわかんないよぉ」


「とりあえず髪、縛ったら? 慌てて出てきてそのままなんだろ」


「あたしがやってあげるよぉ」


 梓が髪をぐしゃぐしゃにかき混ぜて呻いているのを見かねてゴーグルの人が助言し、女の子が梓を招きよせてその辺にあった丸イスに座らせて、後ろから髪の毛を整え始める。


「あの……よかったら名前、教えてもらっていい?」


 ずーっとゴーグルの人とか女の子とか思い続けるのもなんだか疲れる。




「あたしねぇ、このみ! 十五歳になったのよ。大きくなったでしょ?」


「え~と、俺はぁ……う~ん、どの名前で紹介するか迷うなぁやっぱり」


 ゴーグルの人は考えすぎてしまったのか、この時は教えてくれなかった。




「俺は『アーチ』だよ」


「アーチ……?」


「ああ。覚えがあるんだろ?」


「……うん」


 僕自身の記憶じゃないけど、クークの記憶の中にいた。


 クークはお父さんのことが嫌いで、お父さんが死んだことにほっとしていたんだけど、そのお父さんそっくりになるよう作られたのが小竜アーチで。死んだ後でもそっくりな人が側にいることになって煩わしいみたいだったな……。




「……ったく、記憶なくなってもこの反応かよ」


 はぁー、と残念そうに溜息をつく。頭をふるふると振ってみせると、顔が険しくなくなっていた。何かを諦めて、吹っ切れたみたいな。




 手に持っていたノートを僕に渡してくる。


「それ、二十歳の時のあんたが書いたノート。ごく普通の人間の言葉で書いてあるんだけど、表紙に魔術式が刻んであって、本人以外が読んでも内容が理解出来ないようになってるんだ」


「魔術式……それも僕が書いたの?」


 これからの僕には必要だから勉強しなきゃなぁって思ってはいたけど。




 髪の毛を綺麗に結い上げてもらった梓が、悲しそうな顔をして僕の方へやってきて、手を取る。袖をまくりあげると、僕の腕にはびっしりと模様が描かれていた。入れ墨?


「これも全部、聖が自分で勉強して……ひとつひとつ刻んでいったんだよ……」


 腕を見て気付いたけど、僕の体もまるで子供のそれじゃない。見覚えのない模様だけじゃなくそういう意味でも、本当にこれが自分の体? って変な気分になる。




 とりあえず、何かわかるかもしれないから渡されたノートを読んでみようと思って開いた。梓が枕の横あたりに座り込んで覗き見してくるから、「読める?」と訊いてみたけど「読めない……」と不満そうだ。アーチの言う通り、ごく普通の文字なんだけど。






「何かわかった?」


「うん」


 そんなに分厚いノートってわけでもないし、あっという間に読み終わった。


「大体わかったから……説明してもらわなくても大丈夫だと思う。たぶん」


「そんなに具体的に書けるもんなのか?」


 アーチが訝しむ。こういう反応を見るに、そりゃあ僕以外に読めないようにしておく必要があるだろうなって思う。読めていたら処分されていたかもしれないし。




「ほとんどは……僕でももう知ってることだったから……」




 このノートを読んでいるってことは、幸か不幸か僕は命を長らえたんだろう。最後の儀式を失敗して。最初のページにはそれが前提として書かれている。そこから、これを読む僕がどこまで事情を知っているのか書いている時点ではわからないから全ての事情を書いておくと。




 僕がクークとして叶えなければならないいくつかの目標。


 現人源泉竜より強くなってそれを他者にわかる形で証明すること。


 ティネスに会ってさよならを言うこと。


 源泉竜の神器を壊すこと。


 母神竜の神器でクークの魂を封印すること。




 これらは僕ももう知っているし……封印の方法自体は知らなかったけど……十年経って大人になった僕にとっても、僕がそうしなきゃいけないって気持ちは変わっていないんだということが何故だか少し悲しく感じる。そのために頑張り続けられたという事実はちょっと嬉しくも思える。




 このノートを読んでいる時には、最後のひとつ以外はすでに達成していて、最後のひとつは達成できなかった……「しようとしたけど失敗したんだろう」って推測が書いてある。だからこそ、「幸か不幸か」って言葉を選んだんだ。僕としてはそこで果たしたかったのだから失敗したこと自体は不幸だけど、誰かがそれを止めてくれたという事実を不幸と言うべきじゃないだろうから。




 最後に、僕の記憶が十歳より以前に戻ってしまった場合を想定して、どうして僕がそうしなきゃいけないのかが書いてあった。僕のお父さんと、梓のお父さんとのこと。僕は生まれてきちゃいけなかったんだってこと。知ってることとはいえ、こうやって文字にして訴えかけてくると苦しくなる。




 クークの夢は、いつか誰かが……これから転生するクークがやらなければならないことなんだから。どうせ誰かがやらなきゃいけないんだったら僕がやればいい。それがノートに書かれた結論で、これも僕の気持ちとおんなじだった。






 何が書いてあったか教えてくれないかと梓に遠慮がちに訊ねられたけど、こんなの言えるわけがない。黙って首を振ると、それ以上は何も訊かれなかった。どうしようかな、このノート。読み終わったんだから燃やした方がいいかもしれないけど、また失敗した時に三度目が挑めなくなるのは困るから残しておこうか。


 僕が燃やさなくても、これからの僕の行動を見たら今度こそ誰かが処分してしまうかもしれないな。これを見た結果の行動だってバレバレだろうし。



「……家に帰りたい」


 自分の体がどんな状態だかわからないから言っていいのか迷ったけど、結局は本心を伝えた。ここのベッドの方がふかふかで寝心地が良いのは明らかなんだけど、それでも自宅が恋しかった。


「メディからは、血が足りないだけで外傷もないし起きたら勝手に帰っていいって言われてるけど……歩けるかなぁ」


 梓がそう言うのでとりあえず立ち上がってみる。手を取って、背中を支えて手伝ってくれるけど、やっぱりちょっと頭がくらくらする。それだけじゃなく、昨日までと体の感覚……手足の長さも目線の高さも違いすぎて違和感がある。





「梓、ちょっと話がある」


「え~……聖が心配なんだけど」


 アーチに呼び止められて、ここへ残るように言われたらしい。心配なんかしなくても、ゆっくりなら歩けるだろうし。ここはたぶん診療所だけど、何回か来たことはあるし道に迷ったりもしない。アクアマリンは狭いし歩き慣れてるから迷いようがない。


「あたしがついてってあげるから大丈夫だよぉ」


「う~……わかったよ……」


 じゃあ、行こ~? と言って、当たり前のように手を握って歩き出した。僕の感覚からしたら彼女は年上のお姉さんって気がするんだけど、当然ながら僕の体は実際には大人なわけだから、ほっそりとしたその手は全然年上のそれじゃない。




 さっき彼女自身も言っていたように、僕に輸血するために血が足りなくなっているせいか足早に歩くことも出来ず、家に着くまでにたっぷり時間がかかった。


 僕が何日寝ていたのかとか詳細を聞き忘れたけど、そんなことがどうでもよく思えるくらいに体は疲労感で満たされていて、別に寝心地のいいわけでもないと知ってる自分のベッドに早く倒れ込みたい気持ちでいっぱいだった。血が足りないってだけで人の体ってこんな風になっちゃうんだな……。


 元の体に戻すためには、血になりそうな食べ物を食べないといけないんだろうなぁと考えようとしたところで、僕にはもうそれも必要ないってことを思い出す。ちょっとだけ休んだらもう、僕は続きをするつもりでいたから。


 あんまり長引かせるのは良くないと思った。せっかく僕が十年間頑張って整えたチャンスを無駄にしたくない。あんまり長いことこうしていて、僕が……まだ生きていたいとか、死にたくないとか思ってしまったら、今までの全てが無駄になってしまうから。






「ほらほら、いたよぉ? お父さん」


 寝室にぴょこぴょこと入っていった彼女が、お父さんの方のベッドの下から骨壺を出して僕に手渡した。


「どうして君が知っているの?」


「聖ちゃんが教えてくれたんじゃない。あたしが人間の島へ帰ったら、お母さんに渡してって頼まれたの」


 頼んだっていうのも僕自身からなのかが気になったけど、彼女は「あたしもねむたぁい」とあくびをしてから、いそいそと僕のベッドにもぐりこんで寝息を立て始めた。寝つきが良すぎて驚くんだけど……血が少なくなっていた上に、目覚めない僕に随分と付き添っていてくれたそうだから仕方ないか。


 どっちにしろ、今日はお父さんのベッドを使うつもりだったからいいや。


 壺はベッドの下ではなく、これから僕が使う枕の横において、壁に寄りかからせる。






 やっと眠れると思った時、ゴーグルの人が部屋に入ってきた。


「寝るとこ悪いけどちょっといーい?」


 と明るく声をかけてくる。良いか悪いかのどっちかで言えば良くはないんだけど、この人にとって大事な用事かもしれないし、そうだとしたらここで断ったらこの人にその機会はもうないかもしれない。そう思って、付き合うことにした。


 こっちの部屋に椅子はないから、隣の部屋からわざわざ運んできて、僕の枕の横にそれを置いて腰を落ち着ける。僕は終わったらすぐに眠れるように布団の中に入っているから、目線の高さを合わせるためなんだと思う。立ったまま話したら威圧的になりそうだから、かな。




「改めて自己紹介いたしますと、俺の名前はマナっていいまーす」


「はぁ……」


「そんで、春日居先生に『学』っていうありがたーい人間名をいただきました!」


「先生が?」


「そう。それもこれも、あんたと梓にこの命を助けていただいたおかげなんだよね」


「……そうなんだ」


 梓や僕が何をしたらそうなるのか、さっぱりわからなくて、なんて答えたらいいのかわからない。




「さっき読んでたノートにそういうことは書いてなかったんだろ? そういう、目的を果たす上で都合の悪い情報はさ」


「都合……悪い?」


「そうだろ? あんたがいなかったら俺はアクアマリン同盟に殺されてたっておかしくなかったんだからさぁ。あんたという存在がこの世にあったから救われた命があるってこと」


 僕がいなかったら……生まれていなかったら。この人は殺されてたのかもしれない? 本当の話なのか判断がつかない。決心を鈍らせたくて嘘をついている可能性がゼロとは言い切れない。そもそもなんで、ノートの、




「ノートの内容知ってるのは何故かって考えたところ? あんたと知り合って五年間、ちょっと暇してたり余裕ある時とかたま~に考えてたんだよね。アーチに言わせると俺って、人間観察が趣味の嫌な野郎ってことらしいからさぁ」


 それで想像してみただけで別に内容読めたわけじゃないんだよねー、と、あっけらかんと言ってのける。




「俺達に何かあると毎回当たり前のように親切に助けてくれるのに、いつまでも距離が遠いのはなんでだろうなって考えた時にさ。万一俺達と仲良くなったとして、この世の未練のひとつになりかねないから距離を保ってたんだろうなとか。俺達のことはあくまで『梓の友達』でしかないって思おうとしてたんだろうなってさ。残念だけど世の中そんなに甘くないんだよ。俺は受けた恩は絶対に忘れてやらないから、死にに行こうとしてるあんたを阻止するためならなんだってする」


 例えば、と言いながら、目を隠しているゴーグルのレンズの部分を指先でこつこつ叩いて音を立てる。




「俺のことを信用するって言って見せてくれたあんたの大事なもの、バッチリ悪用するためにまたこいつに頼ってんだ」


「ちょ……」


 何をどう悪用するのか訊きたかったのに、自分の言いたいことだけ言ってさっさと出て行く。多分、僕を混乱させるためにわざと気になるところで区切っていなくなろうとしてる。アーチがどういう意味で言ったんだか知らないけど、『嫌な野郎』という言葉にはちょっと説得力を感じてしまった。


 すごーくもやもやするけど、またあの人に会って真意を確かめてからでないと次の行動に移せない。なんて考えてしまうとそれだけで相手の思う壺な気がしたので、予定は変えないことにした。









「そなたがクークであるな? 我が名は巨竜ライム。我が父、巨神竜の命によりそなたを打ち負かすため来たる者よ!」


 そいつは初対面から尊大な態度を隠さず堂々とやって来た。ある意味、僕の周りにはいない手合いなので薄らと興味を引かれた。




「先刻、そなたの従える三竜どもにも対面したのだがな。あの式竜と支竜がまさか幼体の竜だったとは。奴らの能力と役割については我らが巨神竜の領地にまで知られておったから驚かされたぞ」


「……子供の姿をしていれば、僕が少しでも愛着と憐れみでもって彼らを尊重するだろうという計算ゆえのことさ」


「ふむ?」


 源泉竜が創造したあらゆる生物は、彼にとって都合よく作られて配置されている。僕も含めて。




「巨竜。君はそんなにも自分のお父上が誇らしいのかい?」


「当然であろう。ライムが父を愛するのと同じく、父もライムに全幅の信を寄せてくださる。このライムに自身の夢を託してくださった。その信にライムは全霊で応えねばならぬ」


 そうだろう。巨神竜の創造した巨竜やタイタン族は、彼の信ずる理想を体現した生き物だ。圧倒的に強く、その強さを驕るだけでなく命ある限り高め続ける。源泉竜の愉しみのために弱く醜く作られた僕達とは真逆の生き物だ。




「僕は君が羨ましいよ、ライム。僕も君のように、何の疑いもなく、父と母を愛せる心を持って生まれたかった」


 せめて死が解放であるならまだしも、この心身は幾度転生しようとも父への愛憎に憑りつかれることが定められている。




「うむ……風の噂と我が父より聞かされてはおったが、それらに違わず源泉竜という者は悪辣が過ぎるなぁ。いっそ感心するほどであるぞ」


 誠、気の毒であるなぁなんて思いっきり同情の目で見られてしまう。不快よりもいっそ可笑しくて僕の方が先に笑ってしまう。




「ならばこのライムが、そなたの定めを破壊してくれよう。それこそが我が父より託された、ライムの夢でもあるからな」


「夢?」


「源泉竜がそなたらに授けた役割を全て剥奪し、無力化してライムの力を示すことが我が父の夢。そなたが源泉竜を憎む心と魂を定められたというのなら、それを奪ってくれようぞ」


「……だったら、君の夢は僕の夢だね」


 自分から言い出しておいて、僕が全肯定したことにライムは面食らったようだ。しかし、そう間もなく破顔する。


「楽しみに待つが良い。我が夢の同胞よ」


「ああ。楽しみにしているよ」


 いつになるかわからないけれど、いつかそんな……夢のような日が来るというのなら。




 自然と目が覚めた。狙っていた通り、明け方の少し前くらいに。


 隣のベッドにはまだ彼女がすやすやと眠っていて、起こさないよう慎重に自分の布団をめくる。少しでも衣擦れの音を立てないように気を付けながらベッドから下りる。まぁ、粗末なベッドなのでどんなに頑張っても軋む音は隠せなかったけど、起こさずに済んだから別にいい。




 人間の集落の奥へ向かう。約束していたわけではないけど、なんとなくそこにいるんじゃないかなって推測は出来ていた。


「目覚めて一日と経たずに務めを果たさんとするとは……いかにもそなたらしいではないか、クークよ」


 孤島ユークレースへ繋がる一本道……海の上を人ひとり分くらいの道幅で、例の粘土の地面が橋のように伸びている。元々はもっと太い道だったらしいけど、ユークレースに閉じ込めている種族が更にそこから出にくくするために道を削って細くしたとか聞いたことがある。昔は僕達に一生縁のない場所だと思っていたのだけど、案外縁のある場所だったのかもしれない……縁というより、因縁かな。


 その細い道の真ん中に、ライムは立っていた。あの真っ赤な剣をけだるげにぶら下げて。仕組みはわからないけどあの剣は僕がこん睡状態だった時は彼女の……体内に預けていて、でも今はそこから取り出してしまった。鞘もないそれをずっと手に持って行動しなきゃいけないんだから煩わしいだろうな。




「そんなにもライムが恋しかったか?」


「そうなんだろうね……僕にとってはともかく、クークにとっては」


 あのノートには、そんなに詳しくはライムのことは書いてなかった。大人の僕にもわかっていたんだと思う。クークの魂は頻繁にあの記憶を思い起こさせてくるだろうから、書かなくたって遠からず伝わるだろうって。




 ティネスを喪ってからのクークの記憶の中で、ライムと交わしたあの約束だけが唯一の輝かしい思い出だった。だから何も僕達にプレッシャーをかけたいとかではなく、自然と何度も浮かんでくるんだろう。積極的に思い出したいような記憶が、クークにはあまりにも少なすぎたから。




 僕も細く頼りない道の上を歩き、ライムの前に立つ。巨竜という名前の割に、人の姿としての体は僕よりほんの少し小さいくらいで、ちょっとだけ見下ろす形になった。


「本当に……僕を助けてくれるの?」


「ああ。そなたの望みを叶えてやろう」


 望みがあるのなら、この両手を取るが良い。ライムは自らの胸の高さに、手のひらを上に向けてさらけ出す。迷う理由もないから、すぐにそこへ自分の手を重ねる。





 重ねた手と手の間から光が漏れだしたと思ったら、球体に膨らんで僕の体を包んだ。金色というには少しだけ煤けた色、ライムの髪色……魔力の色と同じ。魔術壁とかいうんだっけ。


 ライムは球体の外にいて、少しだけ屈んでから跳び上がる。一気にジャンプするような感じではなく、ふわふわと浮上していき、僕を包んだ球体もそれを追いかけていく。気が付けば僕の体と一緒に、さっきまでライムが持っていた赤い剣が球体の中にいて浮遊していた。


 分厚い雲にもうすぐ触れそうってところまで上がってくると、ライムは一度だけくるりと横に回った。駒が回転するみたいに。すると、人間の体はふっと消え失せて、次の瞬間には巨大な竜が現れた。巨大という言葉が生易しく思える……「広大」と言い換えた方が良い気がする。アクアマリンがその背中に何千個と乗っかりそうなくらい、体そのものが大きな島みたいだ。そういうもののことを「大地」と呼ぶそうだけど、アクアマリンで生まれ育った僕にはそんなの想像すら出来ないや。




 ライムは僕を包んだ光の球を、両手の爪の先で挟むようにして、翼を羽ばたかせて滑空を始めた。衝撃でアクアマリンが吹っ飛んだりしないんだろうかと心配になるけど、そうはならなかったみたいだ。同様に、あまりに早い移動で僕の体に影響はないんだろうかと思ったけどそっちも異変はなさそう。




 跳び上がった時点で米粒のようなサイズにしか見えなくなっていたアクアマリン……僕の故郷は一瞬で見えなくなった。どんなにちっぽけでも、つまらなくても……思い出のたくさんある、僕にとって大切な場所だった。もう二度と戻れないんだと思うと、やっぱりちょっと名残惜しくて、鼻の奥がつんと痛くなる。




 下から眺めていた頃には分厚く見えた雲だけど、ライムが突き破るとあっけなくその上に出た。雲の上ではもう夜が明けていたらしく、真っ赤に染まっていた。朝焼けっていうんだろうか。こんな色がこの世にあるなんて知らなかったな。


 せっかくアクアマリンを離れるなら青い海と空を見てみたいなって思っていたんだけど……世界には、僕が想像するよりもたくさんの色があるのかもしれない。






 きれいだなぁって思った瞬間、ひとつぶだけ涙が浮かんできて、拭った。


 クークはたぶん、きれいなものを見ても、それをきれいとも思えなかったんだと思う。それよりも強い感情に蝕まれていたから……エメラードなんていう美しい自然のただ中で暮らしていても、それを素直にきれいと思えなかったんだ。


 クークの記憶を通してみる太古の景色は、いつもぼんやり薄暗かった。僕自身の目で見たらもしかしたら、別の色をしているんじゃないのかなって思ったけど……。


 もし、それが本当に美しかったとしたら、僕はそこにずっといたくなってしまうかもしれないから。「僕は」このままそこを見ないで終わらなきゃいけないんだ。ノートに書いてあったけど、大人になった僕はティネス……セレナートに会うためにそこへ行ったはずだから……何を思ったんだろうなぁ。気になるけどそれもやっぱり、あのノートには書いてなかったなぁ……。




 いつの間に……いつから眠っていたのか思い出せない。


 そして、いつから……記憶が元に戻っていたのかも。




 記憶の混濁に戸惑いながら、身を起こす。孤島ユークレースで母神竜の神器、マザー=ブルーを自分の心臓に突き立てたのは間違いなく僕の意思で、記憶のはずだ。それ以降……診療所でどうやら介抱を受けて、梓達の前で目覚めて、ノートを開いて、家へ帰って、また眠って……そしてまた、目覚めてからの。これは、僕の記憶か?




「気が付いたか」


 無意識に視界から外していたのか、よく見たら彼は最初から僕の目前に立っていた。巨竜ライム。豊の体を奪い、その体で行動する……。




「ここ、は」


「そなたも来たことがあると聞いているが」


「……ああ。ここは」


 母神竜の領地、イリサ。二年前、母神竜の神器を回収するために訪れた場所だ。




 大洋上に浮かぶ、中が空洞の巨大な水晶が連なる小さな島。アクアマリンよりもさらにずっと小さなここは、島というより城と呼ぶべきかもしれない。


 重なり合う水晶の隙間がいくつか開いていて、そこから中に入ると後は透明な階段が下へ向かって伸びていて、最下層に神器が安置されていた。その最下層に僕達はいるらしい。




「母神竜殿が神器をこの地に置き去りにしたのは、何も関心が薄かったというだけが理由ではない。ここはこの星そのものの水源であり、この世で唯一何者にも、かつ何物にも穢されぬ水が湧き出ずる。その水を用いて刃を作らねば、この神器の真の力を引き出せぬのだ」


「そのためにここで儀式をすると。ならば何故、わざわざ僕の記憶を戻した?」


「下準備というものよ。ついで、どこまでこの神器の微調整が可能か試したかったのもあるな」


 悪いが、記憶は戻したが血液はそなたに戻したわけではない。この地に穢れは持ち込めぬゆえ、飛行中に海にばらまいてしまったぞ。なるほど、たっぷり休んだというのに未だ体調が優れないのは、失った血液まで取り戻してはいないからなのか。






「さあ、しかと見るが良い。この美しい刃を。そなたがユークレースの小道から海へ手を差し伸べて作ったものとは比較になるまい」


 あの時は暗かったし、刃の出来栄えなど確認する気にもならなかったから比較など出来ないが。比較対象なんてなくても、喉元に突き付けられた刃の美しさは疑いようもない。一点の穢れもない透明度。刃と言うより薄紙一枚のようにも見える繊細さ。






「最後に今一度、聞かせてもらおうか。誠に、そなたには何ひとつ、心残りなどないと申すのか?」


「……もちろん、僕には」






「どいつもこいつも……ほんっと、俺の周りって嘘つきだらけだよなぁ。良かれと思ってそうしてるのはわかってるんだけどさ」




 あるはずのない、第三者の声が水晶の城の中で反響する。




「ふっ……来ると思っていたぞ。アーチ、アース」


 何故だか少し嬉しそうに、ライムは挑発する。




 鏡面のように光を反射する階段の最上段に、アーチと……梓が立っていた。だが、梓の様子がおかしい。そも、髪の毛が短く、色もなくして黒くなっている。


 苦しげな顔でアーチの肩に手をかけて体重を預けて、かと思えばしまいにはそのまま項垂れて膝をついてしまい、顔が見えなくなる。




「梓!」


 いったんはこちらから目を離し、アーチも跪き、梓を覗き込む。声に切迫したものを感じる。ただ事ではない。




「……まさか」




 思い出したのは、幼い頃。封滅の式に封印されてがんじがらめになった、アースの魂。その魔力の儚い輝きを梓が僕に見せてくれた時のこと。


 ……これを使い果たしちゃったら、オレってどうなるんだろう。体の半分はお母さん……魔物なんだから、もしかしたら死んじゃうのかなぁ。


 そう話していた、幼い、不安そうな顔。




 ふたりはどうやってここへ来た? 小竜アーチにはほとんど魔力が宿らない。梓が髪に宿していた魔力は、使ってしまった痕跡がある。


 彼らは巨竜と違って竜族の羽など持っていない……アクアマリンからこの大洋上のど真ん中へ、わずかな時間で移動する術なんて、何らかの魔術を使ったとしか……。






「ぁ、梓……?」


 もう、思い残すことも、怖いものも。何もないと思っていた。想定すらしていなかったから。


 僕に助けられる価値なんて、助かる価値なんてないと決めつけていたから。僕の為に誰かが、命を賭ける可能性なんて。




「だ、だいじょ、ぶ……オレは、こんなとこで、死なない……死ねない……」


 へたり込みながらも、アーチと何か目と目で交し合ったらしい。頷きあって、アーチが梓に肩を貸して立ち上がった。




「オレがここで死んだら、聖は自分のせいでオレがって、思うだろ? オレだって、おんなじだよ。ずっと前から、思ってた……聖が急に変わっちゃったのは、オレとお父さんのせいなんじゃないかって……あのことを知っちゃったんじゃないかって……でも、怖くて訊けなかったんだ……






あの時……春日居先生がせっかく話してくれたのに信じなかったから……そのせいで聖がずっとひとりで頑張らなくちゃいけなくなったんじゃないかって……。だったらもう、いいよ。お父さんを待つのはやめるから……どっちかしか選べないんなら、聖を選ぶ。オレを置いていなくなっちゃったお父さんじゃなくて。




楓や学や敦や豊や、みんなっ……いくら友達がいっぱい出来たってさぁっ……オレが一番寂しい時にずっとそばにいてくれたのは聖だけだよ。他の誰も、代わりになんかなんないよ……だからもう、いいだろ? もう、クークじゃなくて。オレに、聖を返してよぉ……っ」




 胸元を抑えたまま、ぼろぼろと涙した。きっと、ただでさえ苦しいんだろうに、さらに息を詰まらせて。




「でも……でも、梓……。僕は……やめるわけには、いかないんだよ……」


 今日の為にずっと頑張ってきたんだ。あの日、真実を知ってからずっと。


 僕だけじゃない。クークだって、ずっとずっと救いを求めてきたんだ。何百年も前から、いつか終わる日を。


 ここで僕が諦めたら、一体だれがこの夢を果たせるっていうんだろう。




「こんな悲しいことを、僕以外の誰にさせられるっていうんだ……?」


「させられねーよ。それはあんただって、同じだろ」


 同情的な色は一切見せず、ただただ厳しい目で僕を見据える。




「ふたりとも、勘違いしてるんだよ。真実を。『順番が逆なんだ』」


「順番?」


 疑問を投げるのは僕だけでなく、彼のすぐ傍らに立つ梓もだった。え? と言いたげな顔で、こっちに向けていた目をアーチへ移す。




「ソースの力なんかに縋った俺の言葉は、あんたには届かないんだろ? だったら本人に伝えてもらおうか。直接にな」




 アーチは傍らの梓の肩に両手をかけ、心なしか姿勢を正す。魔力を失った直後で少し弱っている梓も釣られて背筋を伸ばすが、十センチほど身長差があるせいか見上げる形になる。


 一度、瞼を下ろして再び上げると、それだけで何かが変わっていた。彼は……どんな時でも自身を不当に下げようとはしない、力のある目の持ち主だった。こちらの気分次第ではその目はたまに煩わしくも思えた。それが、今はぼんやりと夢の中にでもいるように霞んでいる。




「……梓?」


「……だ、……誰?」


 梓も、目の前にいるのが見知った彼でないことに気付いた。それはもちろん、そうだろう。付き合いの長さ、深さでいえば、梓と彼のそれは僕とは比べ物にならない。




「そっかぁ……こんなに大きくなったんだ。良かったなぁ」


 ふにゃりと締まりなく笑み溢して、さらさらと梓の、黒くなった髪を撫でる。




「それじゃあそっちは、もしかして……聖かな? 立派になったねぇ。あんなに小さな赤ちゃんだったのに」


 うんうん、と、ひとりで納得して頷いている。




「お……お父さん、なの?」


 信じられないものを見るように、恐る恐る、梓が訊ねる。


「いいのかなぁ。ぼくは約束を守れなかったし、そばにいられなかったのに」


 自信なさげに苦笑するけど、否定はしない。




「きよしと、こずえさんに君が……聖が生まれてさ。子供ってすごいなぁって。あのきよしが、聖のためならなんでも頑張れそうな気がするって言ったんだ。だったらぼくも、子供がいたら、今より頑張れるようになるかなぁって思った。でも失敗して、最後の最後にまた、みんなに迷惑かけちゃった……だけど、安心した。自分がずっとそばにいられるよりも、梓に良い友達がたくさんいる方が、ぼくは嬉しいよ。父親は自分で選べないけど、友達は自分で見つけなきゃいけないからね」


 何も得られない一生だったけど、友達だけは最高の人たちに巡り会えたから、ぼくは幸せだった。ちゃんと父親になれなくてごめんね、と彼が言うので、梓はふるふると首を横に振る。梓は何か言いたそうだったけど、突然のことで言葉が浮かばないみたいだった。まごついている内に、彼はそっと、安らかに目を閉じた。




 次に目を開けた時には、いたたまれないような、恥じ入るような目で。




「わかったろ? 聖が生まれてなかったら、梓はこの世に生まれてなかったよ」


その命は自分の両親だけでなく、梓の父親にも望まれてた。望まれない命だからクークのために捧げてもいいなんて思い違いだ。




 言いたいことを言い尽くしたのだろうか、改めてこっちを見た彼の表情が、一瞬にして絶望に染まる。遅れてそれに続いた梓も似たような感じだった。






「呑気な奴らよの。長話に最後まで付き合ってやったライムに感謝するが良い」


 心底から呆れたような声が、背中から聞こえる。さては忘れておっただろう、ここにいることを。なんて言っているけど、確かにほとんど忘れていた、かもしれない。申し訳ないことに。




 何が起きているのか察しがついて、首を前に倒し、自分の胸元を見る。透明な刃が真ん中に突き立っていた。背中側から刺し貫いたんだな。自分で刺した時もそうだったけど、これを刺しても痛みはないから、言われるまで気付かなかった。


 体が上手く動かせないらしい梓をその場に残し、階段を駆け下りてきた彼の足が視界の隅に見えた。それと同時、ライムが僕の背を押し、突き飛ばす。何の抵抗も引っかかりもなく刃も抜ける。




「聖……っ!」


 ちょうど辿り着いた彼が、倒れ込むところだった体を受け止める。力の加減をするような心のゆとりがなかったのだろう、掴まれた両肩に強く指が食い込んで痛い。




 流れるように、その顔を見た。見知った人物で、だが、どうして……今までずっとそう呼んでいたはずの名前が、思い出せない。




「あ……、敦……?」


 仕方がないので思い出せる方の名で応えた。何故か少しくすぐったいような、違和感がある。相手にとってもそれは同じだったらしく、一瞬、どこか間抜けな顔を見せた。ぱちぱちと何度も瞬きをしている。




「ふっ……ふふ、ふふふ、ぁはははははっ!」


 堪えきれないように、ライムが腹を抱えて笑い出した。僕達は揃いも揃ってわけもわからず、呆然とその姿を見守るしかない。




「やったぞ、ついに……全て成した! 我らの夢を!」


 ああ……なんて長かったろう。夢を成すとは、辿り着くとは……こんなにも遠く、果てのないような時を費やさねばならぬものであったとはなぁ。




 涙こそ流していないが、泣き笑いのような、疲れを隠しきれない恍惚を叫ぶ。喜んでいると同時に嘆いてもいるような、曖昧な慟哭。




「そなたの魂から、クークの全てを奪い取った……源泉竜にもアーチにもアースにもユイノにも、他の誰にもクークは救えなんだ。そなたらに出来ぬことをこのライムだけが成し遂げた。それこそが我らの夢。父の、ライムの、そしてクークの望みよ!」




 純水で形作られたという刃を振るい、天に掲げる。その中には相変わらず一点の曇りもない。血液が混ざっているようにも見えない。




「先刻、申したであろう? 母神竜殿の聖地たるここでなら、神器の能力の微調整が可能だと。ゆえにそなたの魂からクークの情報のみ切り捨てることなど造作ない。そなたの身には今や一滴の魔力もなければ、いかに日光を浴びようがそれが戻りもしない。もはや魔物の世界では生きられぬであろうな」


 先ほどの哄笑で疲れを吐き出したのか、今度はどこまでも晴れやかに微笑んでいた。




「これでようやく、ライムは我が父の元へ行ける。万感の報告を携え凱旋出来る。そなたらにもこの体にももはや用はない。後はせいぜい、各々好きにするが良い」


自らの首に透明な刃を横から押し当てる。




「……さらばだ、クーク。そなたが我が夢を共にする同胞であったことは、ライムにとって誉れであったぞ」


刃は首をすっと通り抜けたが、それで何が切れたのかはわかりにくい。その体は糸の切れたようにふっと、前に倒れようとする。からんと音を立てて、柄だけになった神器が水晶の地面に転がり落ちる。


 とっさに、敦と同時に動いてその体を受け止めた。いかにも固そうな地面にそのまま激突したらかなり痛そうだったから。








「う~~~ん」


 梓も一歩ずつ慎重に階段を下りてきて、意識のない豊はなんとなく最下層で横たわらせて。その顔をしばし観察しながら敦は呻いていた。


「こいつ、……ふっつーに寝てるかもしんない」


「普通にって何? 普通じゃない眠りってどんなの?」


「ヴァンパイアになるより前から豊ってけっこう眠り癖があって、人間の島の学校でも人より多く寝てた。そんで、休み時間とかに起こそうとするだろ? そういう時の顔と同じ」


「つまり……ごくごく安らかに寝ている、と?」


「そう、かも」


 言いながら、本人も半信半疑なようだったが……ふわぁ~と当たり前のようにあくびをしながら豊が身を起こすのを見て、深く溜息をついた。




「あれ? なんだここ」


「なんだって……豊こそなんだよ。大丈夫なの?」


 梓は素直に心配そうに、豊の前にしゃがみ込んで顔を覗き込む。顔色だって何の問題もなさそうで、そのまま首を傾げてしまうが。


 眠そうな顔のままきょろきょろと周囲を窺ってから、あ、そういうことか。なんてひとりごちる。




「大丈夫も何も俺、ライムと会話してたし、たまに。あいつめちゃめちゃ喋るからうるさいんだよな。せっかく寝てても遠慮なく話しかけて起こしてくるし」


「えぇー、どんなこと話すの?」


 ちょっと興味を引かれたらしい梓を、悪いが先に言わせてくれ、と敦は制す。




「おぉ~まぁ~えぇ~なぁ~、どんだけ心配したと思ってんだよ俺達がぁ~~っ!」


 豊の胸ぐらを掴んでがくがくと前後に揺さぶった。豊もされるがままではなく即座に立ち上がり、肩を掴んで同じような動きで反撃する。


「はあぁ~? 敦にだけは言われる筋合いねーし! おまえがこれまでどんだけ、俺達に心配と苦労かけてきたか少しはわかったかよっ」


「うっ」


 思いっきり心当たりがあるようだが、その辺の事情は僕と知り合う以前の話なようだから、傍から聞いていてもあまりピンとこない。




「ライムに連れまわされている間、どこへ行っていたんだ?」


 せっかくなので僕も気になることを訊いてみた。


「んー? あいつの古巣の、エメラードのタイタン領とかな。この服もそこで拵えて貰った」


 ライムが身にまとっていた、大きな布をぐるりと巻いたような服の裾を掴んで少しだけ捲って見せる。


「これ、源泉竜の紋章なんだよな。最初から自分じゃなくて俺が使う前提で作らせてたんだ」


 そこには魔術式のようなものが描かれていた。線の色も豊の魔力の色に合わせて緑になっている。




「何話してたっつーと、そうだなぁ。多すぎて言えないくらいだけど。源泉竜や俺達に勝ちたいっていうのはあくまで巨神竜の夢であって、あいつ自身の夢は巨神竜の夢を叶えてそれを報告しに行くことなんだってさ」


 託された夢を叶えてからでないと最愛の父に会えない。だからその夢を追う。追っている夢が自分自身のものではないのに、長い時を費やさなければならなかった。先ほど見せていた苦悶の理由が理解出来た気がする。


「そんで最終的には母神竜の聖地で儀式して、終わったら体も返すって言ってたから、じゃあそれまで好きにさせとくかと思って」


「自分の体勝手に使われといて、よくそんな言い分信じられたなぁ」


 敦だけはなんだか納得いかなさそうに口を尖らせている。自分だったら絶対そんなの信じないのに、理解出来ない。と言いたげだ。




「そりゃ、それ以外の何も話さないんだったらそうだろうけど、他の話と合わせて総合的に判断してだよ。さっきの服の件みたいに行動でも示してくるし、矛盾しないだろ。……何より」


 豊は自分の右の手のひらをひらりとかざして見せる。右手の指は五本とも、第二関節より先がない。左手の人差し指の爪を手のひらに突き立てて、思いっきり引っ掻いて赤い傷跡をつけた。ぷつぷつと玉のような赤い雫が浮き、線となって滴り落ちる。


「傷が治らないだろ? 俺の体はヴァンパイアじゃなくて竜になった。あいつが作り変えたからな……ヴァンパイアでなくなれるっていうなら、嘘とか本当とか度外視で信じるしかなかったんだよ」


「豊……あの、さ」


 敦が何か言おうとしたが、豊は「なんか面倒なこと言いだしそうだから言わなくていい。聞かない」と突っぱねた。いかにも歯切れの悪い調子だったから何かを察したのかもしれない。










「で……三人揃って魔力がすっからかんだから、俺が竜になって乗せて帰るしかないんだよな? 初めて竜になるっていうのにこの距離を休みなく、三人も乗せて。落ちないように魔術壁で囲っておいて? ユイノはライムと違ってそんなに魔力もないのに出しっぱなしにして?」


 難しすぎるだろ……失敗して死んでも化けて出るなよな、と盛大に溜息をつく。せめて魔術壁を出さずに済むならまだマシなんだろうが、僕も梓も普段は鍛えている体だけど今は万全の体調ではないし。敦はそこまで鍛えていないからここからアクアマリンまで竜にしがみついていられる自信がないときている。




「せ、め、て、人の背中の上でベラッベラお喋りとかやめろよな? 気が散りそうだから。俺ぁ観光バスでもタクシーでもないんだからな?」


「はぁーい、わっかりましたぁ」


「気ぃつけまーす」


「わ、かり、ました」


「う~ん……」


 聖くらいしか約束守ってくれなさそー、と胡乱な目でふたりを見ながら、手首を振ったり屈伸したりと準備運動をしている。




「あっ、そういえば豊さぁ。竜って泳げるのかなぁ?」


「仮に泳げたとして、泳ぐ方を選んだとして、途中で力尽きた場合どうすんだ? マージャの作った魔術式で飛んできたおまえにゃわかんないだろうが、こっからアクアマリンってとんでもない距離だからな? 海の中って肉食の哺乳類もいるんだぞ?」


「哺乳類~? うっそだぁ~」


「見た目は魚でも哺乳類なんだよっ」


 梓と豊が軽めとはいえ言い合っているのはちょっと珍しく思えた。これからひとりで負担しなければならない大仕事に重圧を感じていそうな気がする。申し訳ないけど今の僕には本当になにひとつ出来ない。アクアマリンに帰ってからのこれからもどうしたものかとすでに頭を抱えたい心境だった。




「元気出せよ、人生設計狂っちまったのはわかるけどさぁ。俺だって、これからもあったりまえに使えると思ってたもんがなくなっちまってどうしようかなーって考えてるとこだから」


「……すまなかった」


「何が?」


「ソースの魔力で、学の望みを叶えるはずだったんだろう?」


「ああ……それなぁ」


 いつか泉竜を破壊し、滅ぼさなければならなかったのは事実だけれど。その為に夢が潰えてしまうなら、彼らの夢が叶うまで使えるものは使うという判断もあったんじゃないかと思ってしまった。


「クークじゃなくなったからってそんなすぐに考え変わるなんて驚くよなぁ。あんだけ厳しく、ソースなんかに頼るなって言ってた癖に」


「そ、それは」


 今となっては僕自身にもよくわからない。クークであろうと思い続けてきたけど、どこまでが自分の意思だったのか曖昧になってしまった。




「別に、あいつらの呪いを解くのに大量の魔力が必要なんて決まったわけじゃないだろ? 俺はアーチなんだから自分の持ってるもんでやってくよ。無限に湧く魔力なんかよりよっぽど使えそうじゃないか、『全知』なんてさ」


「まーた神罰くらいそうな、調子乗った考えになってきてないか?」


「それも知ってたのかよ……あいつから?」


「ああ。ライムの奴から得意げに」


「あんの野郎……」


 意外といいところもあるかもって思ったけどやっぱりむかつくわーと、鼻を鳴らして怒りをやり過ごしている。




「うっわぁー、見て見て聖ぃ! 空も海もすっげー青いぃ!」


 いよいよ出発しようかと水晶の隙間から外へ出たけど、予想通り梓がはしゃいでいる。めったに見られないものだからこんなことになるんじゃないかと思ってた。


「お、ま、え、なぁっ。エメラードへ行く船でこれくらい何度か見ただろうがっ」


「だぁーってぇー、それでもオレには珍しいんだもーん」


「背中の上では黙ってろよ? 約束破ったら叩き落としてやるからなっ」


「あ……あの、責任もって口は塞いでおくから」


 梓がこの景色を見慣れて興奮が収まってから出発するのが一番なんだろうが、僕達も早めに水分と食事を摂らなければ命が危うい。それは豊もわかっているのだろう、しょうがねーなぁと頭をかく。





 水晶を取り囲む、石英の地面の岸壁ぎりぎりのところに豊は立ち、竜の姿に変化した。最初に巨竜ライムが変身した時のように、人の肉体が盛り上がって巨大化して、といった手順は踏まなかった。ライムが空の上でそうしたように、一度だけくるりと回転する。人の姿が一瞬消え、次の瞬間には大きな竜の体が現れた。身にまとっていた服は細長い首の付け根にぐるりと巻かれて、今度はスカーフのように見える。あの布に刻まれていた魔術式の効果で、こうした変身の仕方になるんだろうか。


 竜の肌の色は、豊の目の色より少し薄い若草色だった。体の大きさは闇竜の三分の一くらいで、そんなに大型ではなさそうだ。三人乗っても窮屈とは思わないが、広くて安心とも言い難いサイズ。


 肉食獣に似た太い腕を片方動かして、どうやら僕達を手招きしている。揃ってぞろぞろ歩いていくと、両手で僕達を挟むようにして、球体の魔術壁を出して囲ってくれた。次に僕達に背中を向けて乗るように促してくる。





 足の力で強く地面を蹴りあげて跳び、中空で羽を動かして急上昇した。梓がさっそく感嘆の声をあげようとしたのを急いで塞いだ。




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