1/5 聖者の命名
これ以降の話は本編主人公がメインではないので没にしていたものです。設定自体は当時からあったもので後付ではないです。
今更過ぎる続編なので本編と違って最後まで一気読み出来るように一話ずつ全部公開しています。一話ずつが長すぎてスマホ等で読みにくかったらすみません。
その時、自分の身に何が起こったかすぐにはわからなかった。数百年振りの感覚だったから。
体のどこかが固い。その「どこか」がどこなのか……後で振り返ってみるとそれは、背中が地面に着いてる感触だったんだけど、その時はわからなかった……泥の体が何らかの加工をされて、板状に固められたのかなんて、ぼんやり考えていた。
灰色の空を背景に、しわしわの、棒状の何かが五本浮かんでいる。
それが自分の手だと思い出すのにも、一体どれくらいの時間が流れたのかわからなくて。飽きるまで眺め続けていた。
かつての自分の体を構成していた関節の存在を思い出して、とりあえず地面に肘をつく。思い出したところで感覚まで取り戻すのは至難で、身を起こすのにも随分もたついた。
見渡すと、周囲は黒く蠢く泥に取り囲まれていた。ついさっきまで、自分自身もその泥の一部だった。
「うっ……、う」
唐突に、こみ上げてくる感情の奔流。それは喜びなんかじゃなくて、あまりにもみじめで。まだ信じられていなかったんだ。自分が解放されたという事実を。
次の瞬間にもその泥に自分も飲まれ、溶けていくんだと思っていた。それが数百年に渡って当たり前の感覚だったから。
どれだけ待っても自分の体が泥に戻らないのを訝って、俺はようやく立ち上がり、ふらふらと歩き出した。目的の場所はもちろん、道のりも意識していない。無意識に歩を進める足に身を任せていただけだ。
どんよりと重たい空の下。遮るものの何もない、平坦な地面。それが生き物だと知っているから、なるべく泥を踏まないように進みたかったけど、実際にそう出来ていたのかは知らない。地面はほとんど見えていなかった。ただ、前だけを見ていたかった。
せいぜい人の体ひとり分くらいの幅しかない、白い道が海上に架かっていた。今まで歩いていた場所と違って、ひたひたと音が鳴る。その頃にはすでに「足の裏が冷たい」という感覚を思い出していた。
白くて大きな箱が並ぶ場所に来た時だった。箱の中から出てきた人影が不意にこっちを見ると、
だれだ、という短い音だけ残して。一瞬で色を失った。
「……え?」
なんだか間抜けなその音が聞こえる瞬間、自分の喉が震えるのを感じた。
状況がわからないまま立ち尽くしている内に、箱の中からどんどん人が出てきては俺の前で動きを止める。みんな一様に、真っ白になって。
動いている人が誰もいなくなってからようやく、自分のしたことの恐ろしさに気が付き始めて、足の力が抜けて。今度は俺も動けなくなった。両腕を胸の前で交差して、震える肩を抱いて。へたり込んで地面に着いた膝の震えも止まらない。
寒くて寒くてたまらない。何ひとつ身に着けてなくて裸なんだから当たり前なんだけど。
いつしか、周囲が囁き声の集合と数多の気配で騒がしくなっていた。もう誰も見ないよう、地面に額を押しつける。殺せ、殺せという合唱のような言葉の群れを聞きたくなくて、肩に添えた手を耳へ移そうとしたその時。
「おぉ~~い、そこの人~~! 聞こえてるっ?」
他の声に埋もれないよう配慮したのか、一際大きな呼びかけが届いた。また悪いことがあるんじゃないかと怖かったけど、ほんの少しだけ頭を動かして前……声のした方を見る。
誰の姿もない。気配はあるものの、誰も彼も、俺の視界に入らないよう白い箱の後ろに隠れているようだった。そのどこかから、
「聞こえてるなら、出来るだけ大きな声で応えてくれ~! オレの名前! アースっていうんだ!」
……アース? 声にしたつもりだった。でも、蚊の鳴くような音が漏れただけ。
「……たぶん、そんなに声出ないんだと思うけど! 今だけでいいから、あとちょっとだけ頑張って……オレの名前呼んでくれ!」
オレのとこまで声が届くように! そう、必死に呼びかけ続ける。
もう一度、声を出そうとした。鼻がくすぐったくてうまくいかない。喉が苦しい。
いつの間にか、俺はしゃくりあげて泣いていた。声ひとつすら、自分の望むように出せないのが悔しくて。
誰だか知らないけど、何百年振りに、俺を呼んでいるらしい誰かの存在が……嬉しくて、堪らなくて。
絶対に応えなきゃいけないって。そうしたいって、強く思った。
「ぁ……あ、……アース!」
静まり返った。箱の向こうの人々は固唾をのんでいるようだった。
俺から一番近い箱の向こうから、細い足が一歩踏み出して見えたその時、
「待って! やっぱりダメよ梓! もし……あの石化の呪いに拡散の式が通用しなかったら、梓も石になっちゃうのよ!?」
悲痛な声。たぶん、女の、子供だと思う。
「大丈夫に決まってる! たぶん、オレの力はこういう時のためにあるんだから!」
「そんなの何の根拠もないじゃない!」
「だとしてもオレが諦めたら……オレ以外の誰にもあいつを助けられない。見殺しになんか出来ない!」
誰かに掴まれていたらしい腕を振り払って、彼……アースは出てきた。体型だけ見れば、腕も足も棒のようでなんだか頼りない男の子供。腕に白い布をまるめて抱えている。
挑むような気遣うような目で、跪く俺を見下ろす。目が合ってしまったけれど、向こうの体に変化は見えない。
ほっとひと息つくのが見える。そうならないと信じていたとしたって、これっぽっちも不安がないわけじゃなかったんだろう。
急ぎ足で近付いてきて、目の前で膝をつく。勢いつきすぎたのか塵埃が上がり、思わず目を閉じる。
ふわっと体が浮いた。両脇に腕を差し入れて無理やり起こされたらしい。見た目の印象の割に力が強い。
どうなっているのか理解が追い付かないまま、頭にばさりと布が被せられる。
片腕で体を、もう片腕で頭を抱き寄せられて、アースの体と密着する。布はローブ状になっていたらしく、鼻から下は覆われていない。頭を押さえているのは、たぶん、目を覆うためなんだろう。
「このまま立ち上がって、歩けるか?」
問われる。正直、自信はなかったけど、頷く。
よしっ、と満足そうな声を出してから、アースはゆっくり……俺がその動きについていけるのか様子を見ながら立ち上がろうとする。
取り残されたくなくて、必死ですがりついている内に、どうやら俺も立ち上がっているようだった。
そのまま強く、体と頭を押さえつけられながら、そろりそろりと歩きだした。
一番近かった箱……小屋の中に連れ込まれて、寝台の上にそっと腰掛けさせされた。
と思ったらアースは即座に踵を返し、外へ出る。「オレがいいって言うまで絶対開けちゃダメだぞ!」という言葉の直後、女の子の泣き喚くような金切声。アースの反論もヒートアップしすぎて、双方が何を言っているのかもはや聞き取れない。小屋の壁が分厚いせいもあるのかもしれない。
やがて小屋の中へ戻ってきたアースは、音を立てて扉を閉めてから、間髪入れず閂を下ろす。重たい溜息をつきながら、ほんの一瞬だけ、寂しそうな横顔を見せた。
だが、こちらへ向き直った時は朗らかに笑っていて、そのまま歩いてきて俺の顔を隠していた布をずりおろす。
ようやく落ち着いて、相手をじっくり見た。日中は灰色、夜は黒色しか存在しないようなこの島……アクアマリンの中にあって、その鮮やかな金色の髪は眩しい。本人の持つ魔力の色が髪にあらわれているんだ。少しでも多くの魔力を溜めるために伸ばしているんだろう髪はきっちり編み込んでまとめられている。育ちがいいんだろうか。
俺自身はこの島を出たことがないけど、同胞……海を越えてまでよその島を侵略し暴虐の限りを尽くしてきたゴブリン族は、外の世界にこんな色を求めていたと聞いている。降り注ぐ黄金の日差しも、群生して風に揺れる波のような大自然も、ここにはないから。欲しくて、羨ましくて。
だからって略奪していい道理はないし、その天罰でああなったんだろうけど。永遠のような日々を、ひたすら死と再生を繰り返す、泥の体に成り果てて。
向こうもまじまじと俺の顔を見てくる。たぶん、目を確認しているんだろう。見た者を次々と石化させた目。もう何百年も見ていないから、俺自身、自分の目も顔も覚えていない。どんな風になっているっていうんだろう。
「自分の名前とか、どっから来たのかとか、覚えてる?」
「……名前、は……たぶん、……マナ?」
答えながら、自分でも半信半疑だった。記憶のどこかにあるんだけど、それが自分の名前かそれ以外の誰かだったのかが曖昧だったから。
「ここは都市の島アクアマリンの、人間の住む集落なんだけど、わかる?」
アクアマリン……この島がそういう名前だったのは憶えがあるけど、「都市の島」なんて表現は知らない。首を横に振る。
「マナは孤島ユークレースの方から歩いてきたみたいなんだけど」
孤島ユークレースは、俺達ゴブリン族と、ごく一部の竜族……気性が荒くて他の種族と共存出来ないやつが隔離されていた。それは数百年前からそうだった。
合ってるかわからないけど、首を縦に振る。
「どう、して……おまえ、だけ」
「さっき、オレの名前を呼んだろ? オレはちょっと特異体質でさ。名前を呼ばれた相手からの魔術はぜーんぶ無効に出来るんだ」
最後まで言えなかったけれど、汲み取って答えてくれた。
「マナが頑張ったからだよ。頑張って声出して、オレの名前を呼んで。頑張ってここまで歩いてきて。それと、」
大きな目でまっすぐこっちを見返してきて。
「何百年も、辛くても痛くても、今日まで生き続けてきたから。偉いよ。よく、頑張れたよなっ」
……見た目だけの印象だけど、たぶん、アースは生まれてまだ十数年の子供で。対する俺は、一応は何百年も前から、どんな形であっても生き続けていて。
そんな、いわば自分よりずっとずっと幼い、……若輩者といっていいような相手からの言葉なのに。心の底からそう、称賛してくれているのが伝わってきて。
「ぅう……あ、あ、うわぁあああん……っ」
声を上げて泣いた。情けない、なんて思う余裕もなかった。
終わったんだ。やっと、やっと。地獄としか思えなかったあの日々が。永遠に終わらないと思っていた断罪が。
まぁ、そう簡単に終わるわけがなかったんだよな。己の……自分達という種の罪深さを低く見積もりすぎていたんだと。俺はこの後すぐに思い知らされることになった。
誰かの慟哭と泣き声が耳に障って、目が覚めた。瞼を開けると、目に入る景色全てが白みがかっていて、色がなかった。
「なんで……こんなことされなきゃ、なんないんだよぉ……っ」
俺の意識が戻ったのに気が付いていないのか、アースはしばらくひとりで泣きじゃくっていた。
「アース……?」
「マナ! 気が付いたのか!?」
自分が何されたのか、覚えてるか!? なんて、ぞっとするようなことを訊ねられる。
首を振って答えてから身を起こそうとするけどうまくいかなくて、手こずっているとアースが背中を支えて手伝ってくれた。
どこだかわからない、見覚えのない部屋の中。見える全てが白か灰色か黒い色だから、室内が明るいのか暗いのか、昼なのか夜なのかもわからない。
人の体重に耐えられる程度の木箱をいくつか並べて、薄いシーツらしき布を敷いただけのお粗末な寝台の上に俺は仰向けに転がっていたようだ。
いつの間に着替えたんだっけか、上下とも黒っぽい、体に密着した服に変わっていた。
これ持てる? と訊かれて差し出されたのは柄のついた手鏡だ。さすがにそれくらいは持てると思って受け取ったけど、思ったよりずっしり重い。鏡が重いんじゃなく、体に力が入らない。
見かねたらしいアースが、俺のひじに手をやって支えると、ようやく自分の顔の前で鏡が安定する。
自分の顔なんかとっくに忘れたけど、そこに映っているのはゴブリンの顔じゃなかった。見覚えのない……たぶん、これといって特徴のない、人間の顔。
いや、顔なんてどうでもよくて特徴が掴めないだけなのかも。問題なのは、目だ。
生き物の目というのはこんな感じではないだろうって確信が持てる。無機質で、ガラス玉みたいなつるつるした球体が、眼窩にはまっている。ぴったりと、隙間なく。
まさかなぁと思って指先を持っていって、触ってみる。えっ、ちょっと、なんて引き気味なアースの声が聞こえるけど無視する。思った通り、コツコツと、石を触ってるみたいな音がした。
「それ、義眼なんだ。オレの友達が依頼されて作ったやつの、ストックで」
だから俺の目のサイズに合ってるかはつけてみないとわからないと言われたと。見た感じ、サイズだけならピッタリなんじゃないだろうか。見た目にも装着感にも違和感はない。
「目のピントとか合ってるか?」
「ピント?」
「えーと、ぼやけて見えてたりとか」
「……たぶん、ぼやけてはない」
「どんな風に見えてるんだ?」
正直に答えるべきか、迷った。せっかく用意してくれた義眼なんだし。
見えてはいるけど、色彩がない。アースの黄金色の髪色も、今は真っ白にしか見えない。なんだかそれがひどく残念に思えた。
「あのさ……ただ『オレが知りたい』ってだけで訊くの悪いって思うんだけど、本当のこと教えて欲しい。実際どうなんだか知ってないと、『どれくらい大変なのか』って想像さえ出来ないだろ?」
至極、真面目な顔で言うから、それが悪いことなんだって本気で慮っている様子でちょっと可笑しい。そんな風に思いやってくれるのが悪いわけないのにな。
その気持ちに甘えて、本当のことを話した。その上で改めて、訊ね返す。
「俺はなんで、義眼になってんだ?」
「覚えてないんだ……」
俺が石にした人間たちは……あそこは人間の集落だったから、魔物だったならまだしもただの人間が石化なんかしたらそりゃあ即死もするだろう……みんな亡くなった。その刑罰として、俺はアクアマリンの刑法に則って、原因となった目玉をえぐり取られたらしい。
「悪い……もしかして、記憶飛んだのかも。痛すぎて」
「なんで謝るんだよ、自分は目玉取られてるっていうのに」
「なんでって、そりゃ」
アースは俺に肩入れしているから、「殺したくてそうしたんじゃないのに」って鼻を啜ってそんな主張をしてくれるけど。俺がいたことで他人が死んだ上に、刑罰として処された行為を俺は忘れてしまったんだから。償いとしては十分じゃないってものだろう。
死んだ相手が魔物だったら、たとえひとりでも俺は死刑だったかもしれない。人間だったから目玉で済まされたけど。アクアマリンじゃ人間の命の扱いが軽いのは、俺がゴブリンだった時代から変わってないのかな。
こんこん、入口のドアを叩く音が聞こえてきて、アースはそちらへ歩いて行った。今更ながら部屋を見回すと、最初にアースと一緒に入ったあの小屋とは違う場所みたいだ。粗末だったあの小屋に比べるともうちょっとまともな建造物な気がする。
やがて戻ってきたアースは、俺の手を握る。
「オレが触ってる間は、マナの目は何を見ても石化させないんだ。それも忘れてるのかもだけど色々試してそうわかった」
「義眼になっても石化は……」
「その能力はなくなんなかった。だから、しばらくの間オレの手を放しちゃダメだ」
これから入ってくる相手を石化させないためなんだろうというのは、アースがドアへ向かって「いいよ」と呼びかけたからわかった。
ドアを開けて入ってくるのは、アースや……鏡に映った姿から判断する、今の俺とそう変わらなさそうな年頃の男。色はもうわからないけど髪を長く伸ばして後ろに雑に束ねているから、たぶん魔力の色が髪に出てるタイプなんだろう。
端正な目つきなんだけど目の表情が淡泊で、何を考えているんだかわからない感じでこっちを見下ろしてくる。
手に、ベルトみたいな、何か黒々とした大きな道具をぶら下げている。まだ白と黒しかない視界に慣れなくてそれが何であるかはなかなか判然としない。
アクアマリンの戦士がよく着るタイプの、紐の結び目ひとつ解くだけで着脱出来るゆったりとした服を纏っているから、見えないけど肌に戦闘用の魔術式を大量に刻んでいそうだな……そういやアースもそうだ……ゴブリン族だった時は俺も全身が魔術式で真っ黒だったけど、ゴブリンのそれは一族で共通の術式だから隠す必要がなく、見せないよう配慮した服を着たりはしない。何百年と経っても伝統的な意匠は廃れていないようでちょっと感心する。
「盟主の塔へ連れて行く」
「嫌だ」
ふたりのやり取りは簡潔すぎて、たぶん俺が当事者なんだろうけど何のことだかわからない。
「これは盟主ハイリアからの命令で、僕はその伝令でここへ来た」
「だったらなおさらだ。ハイリアがってことはどうせ、有害指定で地下牢へ入れろとかいうんだろ」
「命令に背くことが何を意味するか、梓にもわかるだろう。もしかすれば死罪にも匹敵する」
「見殺しにするくらいなら死んだ方がマシだ! ……聖ならわかってくれると思ったのに!」
幼い表情に精いっぱいの抵抗をにじませて主張するけど、ついには涙ぐんで俺の手を握っていない、空いた方の腕でぐいっと目元を拭いている。
男は少しだけ悲しそうな顔をした後で溜息をつき、また元の無感情に戻ってアースを見る。そして、
「これ」
「何?」
「後ろを向いているから、頭……マナにつけてやれ」
「悪いもんじゃない?」
「残念だが粗悪品だ。装着していれば梓と触れてなくても行動の自由が認められる」
手にぶら下げていた黒い何かをアースに押しつけ、くるり、反転する。しぶしぶという感じでアースが、俺の頭にそれをつけようとする。
頭の後ろにベルトで固定して、目を透明な板のようなもので覆っている。前方は普通に見える、けど、頭痛がひどくてくらくらする。じきに慣れると男は言う。
着けたけど、とアースが報告するやいなや、こっちに向き直る。その表情はさっきまでと全然違っていた。
「ぃで、ひぃでででで、ぁにふんだよぉっ!」
がばっとアースにとりつき、両手の親指をその口に突っ込んで両方に力任せに引っ張る。
「助けたいっていうんなら泣き喚いてないで、どうしたら助けられるかまでちゃんと考えろっ! ……ばぁーーーか!」
あっけに取られて、思わずぽかーんと口を開けて見上げてしまう。表情も言葉もいきなり精神年齢が下がったというか……子供じみてるっていうか。
涙目になりながら赤くなった口元を擦るアースに、さっきまでの幼い剣幕などなかったように涼しい顔を向ける。いや、切り替え早すぎだろ。
「塔へ行ったからって別に悪いようにはしない」
「ほんとにぃ?」
「僕が信じられないのか?」
そう言われて、アースは押し黙り。「ちゃんと考えた」みたいで、
「わかった、よ。それ、オレもついてっていいの?」
「どっちでも。いてもいなくてもやることは変わらない」
男を信じることにしたらしいアースは塔まではついてきたけど、中には入らず「下で待ってる」と言い、入口下に設置されている階段のところに座り込んだ。
俺がかつて生きていた時代には盟主だの塔だのはこのアクアマリンにはまだなかったので、連れられてきたところでそれが何を意味するのか見当もつかない。
最上階にある広い部屋。そこは謁見の間であり、また非常時にはアクアマリンの住民が合議をする場も兼ねていると説明される。俺の処遇もそこで決まったらしい。この男の提案が通ったのだという。
ハイリアとかいうガタイのいい男……全身にたくさんの開眼、顔についてる両眼はどちらも閉じている……窓際にある教卓らしきところに肘をついてこっちを見ているだけで何も言わない。
「ハイリアからの命令というのは便宜上そういうことにしただけで、この場は僕に従ってもらう。彼が同席しているのは立ち合いの為だ」
部屋の中央には、向い合せに二脚の椅子が置かれていて、先に座るよう促された。従えと言われたんだから遠慮なくそうさせてもらう。
「君は、その目を向けた相手の魂の魔術式が瞬時に見え、構成も理解できるそうだな」
「……なんで、知って」
「覚えていないそうだが、尋問の際、君自身がそう答えた。実証もした」
記憶が飛んだことは、部屋を出てアースとふたりだけで話した時に知ったんだろうか。
「その目を使って、魂の式を読み取って。そして僕に魔物名をつけて欲しい」
思いがけない、ていうより「ありえない」ってレベルの指示に、理解が追い付かない。ただでさえさっきから頭が痛いっていうのに、余計なことを考えたせいか悪化しそうだ。
「そんな必要どこに……だって、あんたの名前は」
最初に顔を見た時からとっくに知ってた。彼はこの世界、特に魔物にとっては唯一無二の存在だから、魂の式を読める目を持つ者なら間違えようもなくすぐにわかる。
「『クーク』だろ?」
神竜族がひとり、源泉竜ソース=アイラがこの世に生み出した、人類の最初の一対でオスの方。始まりの人。俺達魔物と人間は敵対関係だったけど、クークだけは例外で俺達の仲間として人類と戦った。
「そんな不吉な名前はいらない。僕には僕だけの確固とした名前が必要だ。ちょうどもうじき十五の誕生日を迎えるから、闘技場には新しい名前で出場したい」
「闘技場?」
「知らないなら後で梓……アースにでも訊いてくれ。ともかく。僕の式を解読し、『クーク』以外で最適な音の組み合わせを見つけてほしい」
魔物の世界で人間が定住するためには、人間として生まれて命名されたのとは別の「魔物名」が必要だ。それは魂の魔術式を解読して、名前を呼ばれるだけで魂が刺激を受ける音の組み合わせを見つけるのが一般的なやり方で、この人の場合それは間違いなく「クーク」という名のはずだ。
「そう簡単に言ってくれるけどさ。魂の式なんてじっくり読み込んだら悪用だって出来るのに。それを突然……湧いたみたいな、得体の知れない俺に頼んでいいのかよ」
降って湧いた、と言いそうになってやめた。それだと空から来たみたいだけど、現実は数百年という時を泥の体で地に這いずっていたのが俺なんだから。
「だからこそ、信用に足る者に出会えるのを待っていた。そうでなければとっくに誰かに命名させている」
「信用できるっていうのか? 出会いがしらにノータイムで何人も殺したような大罪人を?」
「梓が信じる者なら僕も信じられる。それだけだ」
相変わらずの無の表情に呆とした目の癖に、至極当然のように言ってのけて、むしろ軽く首を傾げさえしている。言われなくてもわからないか? くらいなことを言いたげな様子で。
「あれぇ?」
いつの間にか周りのリアクションが薄くなって場が沈黙し、自分ばかり話してるのに気が付いた。
「なんだよぉ、最初の方は普通に相槌うったりしてたじゃん?」
ひとりで一方的に語るのなんか寂しいんですけどー? そうぼやいてみせると、
「いや……確かに概要は知ってたけど、実際何があったか本人から直で聞くと、想像以上に悲惨で」
「おまえが梓に懐く理由がよーくわかった」
アーチとユイノは顔を見合わせる。そりゃあそこまでされたらそうもなるわな、なんて言って。
「いやいや、今聞くべきなのはそっちじゃないじゃん? 江波聖がどんな人なのかを話す前座だったろ、俺の過去なんて」
「前座のインパクトがでかすぎて消し飛ぶだろ!」
「おまえのそういう空気読めないとこ、演技か嫌がらせと思ってたんだけどもしかして素なのか……?」
ユイノがいつまでも俺に当たりがきついのってそう思われてたからってことだったのかぁ。全部が全部そうじゃないけど、半分くらいは自分の狙いで茶化してる向きもあるからしょうがないよな。
聞いてて愉快な話じゃないのは分かりきってるから俺だって話したかったわけじゃないけど、こういう状況から命を救ってもらいました~って説明するためには避け難いもんな。
「話戻そう。本人直々に頼まれたおまえが解析してつけた名前が『エイリーン』なんだな?」
「そーそー。ただただ単純に式を読みとって音組み合わせるだけの事務的作業な」
人間の親が子供に由来と真心を込めてしっかりと考える命名とは全然違う。
魂の式を読み解く作業は、それが見える術者でもけっこう時間がかかるものなんだけど、俺の場合は石化の過程で脳が勝手に式の最深部まで解読しているらしい。相手を一瞬にして石化するには、相手の魂の最深部に直接干渉しているみたいだから。
これがあんまりおおっぴらにはしていない俺の「特技」。石化させられなくたって、魂を覗き見られてるなんて知れたらますますもって嫌われるだろうし悪用もされかねないから、信用できる相手にしか基本的には話せない。
魔物名の命名だって通常なら半日がかりの作業になりがちだけど、わずかな時間で完成した。
「アクアマリンじゃあ聖の地位は絶対的だから、『聖の魔物名をつけた』ってそれだけで扱いが変わったんだよね」
当時を思い出しながら、梓はうんうんと頷いている。命名の儀式が済んで塔の外で待つ梓の元へ戻った時、本当に嬉しそうに喜んでた顔を俺も覚えている。俺を救ってくれたのはもちろん、他ならぬ彼が尽力してくれたのが嬉しかったんだろうな。
即座に殺処分にするべしって層の声は、たったそれだけのことで沈黙した。出自がゴブリン族であるってのと石化の呪いが危険すぎて忌み嫌われていたし、有害指定自体が完全に解除されたわけじゃなかったけど。
「梓も大概だけど、魔物名の命名なんて一生に一度しかない大~事な機会を、会ったばかりの他人の救命に躊躇なく使ってくれるって……聖人か何かか?」
ユイノがどん引きしているけど、俺だって未だにどうかしてると思うからなぁ。本人の言う事を真に受けるならそれだけ梓を信じてるってことで、梓がそれに見合う人柄だというのはみんな納得すると思う。
そこまでしてくれたのにやっぱり俺自身に興味があるわけじゃなく、人間の集落で姿を見かけることはあってもあの時以外で会話したのは数えるほどしかない。単純に、闘技場で戦うための鍛錬で常に修行場にいたりハイリアの命令で雑事をやらされたりと忙しすぎて、そもそも目に留まる範囲にそんなにいないんだよな。
「だったら俺に対するさっきの啖呵はどういうことなんだよ。聞いたらますますわかんなくなったんだけど?」
この話をするきっかけになったのはこうだ。
フェニックスの件が解決して、儀式の代償でアーチは衰弱して何日も昏倒していた。その間に、島の外へ出かけていた江波聖が帰還した。もう帰って来ないんじゃないかと本気で心配していた梓はそりゃあもう喜んでいた。
ようやく意識が回復したアーチと彼が対面し、アーチの方は普通に挨拶したんだけど。
「気安く話しかけるな。僕は君が大嫌いだ。この世に存在する他の誰よりも」
第一声がこれだった。初対面でこれはアーチも意味がわからないってもんだろう。一足先に挨拶したユイノに関してはごくごくまともな対応だったから、アーチひとりの狙い撃ち。基本的には人の良いアーチもさすがにご立腹でどういうことだと反抗した。
「それが僕と君との運命だからだ。この世に生まれたその時からの」
これまた意味がわからなすぎる。アーチだけでなくその場にいた俺達、誰にとっても。そんなこちらを歯牙にもかけず、ハイリアに帰還の報告をしなければならないってさっさと出て行った。
「敦はいきなりで嫌だったと思うけど、オレはちょっと嬉しかったな……聖って子供の頃はあんな感じだったから、昔の聖が戻ってきた気がして」
そこは俺も気になってた。アーチに対するさっきの態度は、梓に対して本気で叱責していたあの時、ほんの一瞬だけ見せた姿に似ていた。あの頃はまだ子供だったけど、それにしたってあまりにも大人げないあの感じ。
梓に言わせると彼の性格はそっちが素であって、普段の無感情ぶりは無理をして振る舞っているという印象らしい。
「クークが人間じゃなく魔物側で生きてるのってもう数百年振りのことだし、アクアマリンにとって聖は本当に宝物みたいなもんなんだよね。聖が魔物名を思い出して自分がクークであるって知ってから急に、今みたいになっちゃって。まるでアクアマリンのみんなに求められている自分であるために本当の自分を消しちゃったみたいで……」
梓のその分析は的を射てると思うんだけど、その割にはクークという名前を嫌って俺に別の名前をつけさせるくらいだから謎が深い。「そんな不吉な名前はいらない」とか言ってたし。
「聞いとくのも面白いかもしれないと思って黙ってたけど、あいつの人となりとさっきの言動は別に関係してないかもしれないぞ」
「どういうことだよ」
「ただただ単純に、『アーチ』と『クーク』は仲が悪かったんだよ。根本的に相性が悪くて。アースがクークにべったりなのも今と同じだしな」
神話時代、クークに最も近い立場として仕えていた四竜「式竜ユイノ」「支竜アース」「小竜アーチ」「巨竜ライム」。どういう因果か、現在のクークである彼のそばにそのうちの三体が集っている。「それが運命だから」とか言ってたけど、偶然でここまで揃われちゃあ本人としても薄気味悪さがあるのかもしれないなぁ。
「前世からの恨みで知り合う前から嫌われました~って、俺にどうしようもないじゃん。そんなのに監視されながら衣食住共にしなきゃいけないってさぁ」
エメラードに帰れる船が出るまであと数日しかなかった気がするけど、とはいえたかが数日でもそれはきつそうだ。今に限らず今後も、アーチがアクアマリンに滞在する際は不審な行動を取らせないようエイリーンが監視するようにと盟主様から直々の命令が下された。アーチはもちろんあっちも相当に嫌そうな顔をしていたけど、そういう事情だったんだな。
「『住』は仕方なしとして、誰が食だの衣だの面倒みると言った。それくらいは自力で何とかしろ」
まったく図々しいな、エイリーンが帰ってきたと思ったら早速の調子で罵倒している。言ってることは間違っていないせいか、不満げながらアーチは口を噤む。
こうやって集まって話してる間、アーチはずっとベッドの中にいた。エイリーンはそのすぐ横まで歩いていき、
「おい」
「な、なんだよ」
「いつまでそこに入っている。出ろ」
「……留守中勝手に使って悪かったけど」
「それは別に。ただ、そっちじゃない」
エイリーンの住居であるこの小屋にはベッドがふたつあって、彼はアーチが使ってない方を指さす。そこには俺が座ってた。俺は今、腹に大きな裂傷……ってレベルじゃないかも……重傷を負ってるので、障らないように座ってろと梓にもユイノにも気遣われてこうなった。ふたりはずっと立ったまま話していた。
「あれ? そっちのベッドってずっと空いてたじゃん。聖の普段使ってない方のベッド借りたんだけどダメだった?」
梓がここに泊まる時はいつもそのベッドを使っていたし、俺の住む場所の決まるまではここで寝ることもあったけど、何とも言われなかった。本当は嫌だったんだろうかと思ったけど、
「……そこは、僕の亡き父の場所だから、君に使わせるのは気分が」
「ほ~ん……つまり、梓とかならいいけど俺は嫌って、そういう?」
「その通りだが」
そこまで言われるとさすがにちょっと気の毒になってくる。俺でさえオッケーだったのにアーチはダメなんだ。
渋々と、不自由な体をどうにか動かし立ち上がって俺の座るベッドに移ってくる。物は試しに交代するように俺がそっちのベッドに移ってみるけど何も言われない。ていうか、ちらりとも見てこないから関心がないのかも。ガンガンに嫌われるのはもちろん嫌だけど興味すら持たれないのもそれはそれでどうなんだか。
「そういやまだ訊いてなかった! この超~~~非常事態に一体どこ行ってたんだよぉ!」
大変だったんだぞ! と手を振り上げて訴える梓。僕が島を出る時点では何の異常もなかったんだから仕方ないだろ……と困り顔のエイリーンだが、質問には答えてくれるらしい。
「これを回収してきた」
腰のベルトに固定していた小袋の中から取り出したのは、真っ青で透明な棒状の石。中が空洞になっているから水でも汲めそうだな。
「何これ」
「母神竜の神器。海竜マザー=ブルー」
「しれっとすごいこと言いだすなぁオイ」
梓とユイノが間近に覗き込んでる。梓の方は事の深刻さがわかっていないようだけど、ユイノの方はけっこうビビッてそうに見える。しかし、いかんせん見た目だけだと非常~に地味だし、梓の気持ちもわかる。神器ですよって言われなかったら気付かないと思う。
「海中に住む魔物が偶然に、母神竜の領地イリサを発見したと。興味があるなら調べてみたらどうだと上層部に情報を売りに来た」
それで、エイリーンを含め少数精鋭が選抜され、小型船舶で行って帰ってきたらしい。
「イリサって大洋上のど真ん中だろ? 人間の使う大型船舶ならともかく、小型船でよく行って帰ってこれたもんだ」
アクアマリンの魔物が機械の船を操縦するのは難しいと思って訊いてみた。その通り、だから普通に命がけの航海だった、と事もなげに答えてくる。
「神器って母神竜本人以外に使えるのか? 持って帰ってきたところで意味なくないか」
「母神竜は自分の神器に対してこだわりが薄かった。だからこそ自らの領地に置き去りにして手放すし、竜族であれば誰でも使えるし……どういうわけか、僕にも使用権があるようだ」
竜族ではないのに使用権。それはたぶん、「クーク」には扱えるという意味なんだろうが、そこには触れなかった。俺がその正体をアーチ達に話してしまったのを知らないからだろう。
「まぁ、今この場では使用条件が満たせず効果を発揮しないし、その役割からこれまでに使用した者はいないようだな。たとえ竜族なら誰にでも使えると言っても誰も関心を示さなかったんだろう」
「何が出来るんだろ」
「この神器で切れば、肉体と魂を分離させることが出来る」
「……んん?」
それが出来るからなんだっていうんだろう? 梓は全く理解出来ないようで、首を傾げる。
「もっとすっげーこと出来なくていいの? せっかく神器なのに」
すっげーこと、イコール殺傷力と思ってそうだな。確かにそういう攻撃特化の神器だってあるだろうけど、これだって別にすごくないわけじゃないと思うぞ。魂だけに干渉できる道具なんて他に聞いたことがない。
エイリーンは、刀身のない神器の先をアーチに向ける。
「切ってやろうか」
「は?」
「煩わしい、前世からの縁とやらを切り離せる。これを使えば」
「……間に合ってるよ、ったく」
いよいよ気分を害したのか、壁の方を向いてごろりと転がってふて寝し始めた。ちょうどいい頃合いだし今夜はこのくらいでと解散になった。
腹に空いた大穴が塞がりきっていないので、俺は人間の集落ではなく診療所で寝泊まりしている。また余計な実験でもされるんじゃないかと梓は心配しているけど、エメラ-ドに帰るまでに少しでも傷を癒したかったから、ここに泊まって新しい塗り薬の治験をしていた。効果が良い方に出るか悪い方に出るかも定かでないからみんなにはそのことを話してない。
昔のことを話したせいか、ひとりになってこうやっていると色んなことを思いだしてきた……。
梓達に助けられてからしばらく、俺は疎まれながらもアクアマリンで暮らしていた。十五歳になったら闘技場で戦う戦士になりたい梓は修業に追われて春日居先生の手伝いは出来ないから、助手みたいなことをさせてもらっていた。
そんな日々は長くは続かなかった。人間の島フェナサイトにいるソースを監視するため人間の学校に入学しろ、なんつー大役を命じられたから。石化の呪いを負ってるとはいえ体自体は人間だから、魔物に人間の真似事をさせるよりはよほど自然にふるまえるだろうと。
大役とはいっても誰もやりたがらない役で、そもそも俺がアクアマリンにいても百害あって一利なし。厄介払いがしたいだけなのが見え見えなので梓は俺に代わって腹を立ててくれたし、俺自身もそんなに気乗りはしなかったんだけど。
「市野学?」
人間の島に潜入するために必要な書類を春日居先生に書いてもらうことになって、そこに先生は当たり前のようにすらすらと、俺の人間名らしきものをしたためた。
「人間の世界を表す言葉に『市井』というのがあってね。そこから採ったんだよ。せっかく行くのなら気負うだけではなく、多くのことを学んでおいで」
そして、アクアマリンから出られない梓や聖の分も、人間の島を見てきて……帰ってきたら土産話でも聞かせてやって欲しい。なんてことを頼まれた。
聖の方の真意は俺にはわからないけど、梓の方はわかる。失踪した父親が帰ってくるのを待っているから、アクアマリンから離れられないんだ。塔の最上階からなら四方の全景が見渡せるような、こんなちっぽけな島から出ずに一生を終えてしまいかねない。
そう言われてみると、人間の島の学校の中なんてそうそう見られる場所じゃなし。楽しんでみるのもありかもしれないって思えるようになった。
「春日居先生が人間名つけてくれたんだって? 実はオレもそうなんだー」
「父親か母親がつけたんじゃないのか?」
「どっちも人間の言葉をあんまり知らなくて、先生につけてもらった方が良い名前になるだろうからって頼まれたんだってさ」
同じ人に名前貰うってきょうだいみたいでいいよな~、なんて屈託なく笑うので、こっちも照れるより素直に、そうだなぁって思った。
ライトはタイタンの集落へ、ユイノは骨竜の家で養生していてそれぞれ不在。アーチはぐっすり眠りこんでる深夜の時間帯だった。
「エーリースちゃんっ」
ここまで人出が足りてない場合、夜型の魔物ってわけじゃないエリスも一応寝ないで過ごしているようだ。昼間は閉ざしっぱなしの窓を開けて月を眺めていたベルが、不意にエリスの方へ目をやり、声をかける。
「何かしら」
「嫌な感じがするのよ。ともすればおチビが死んでもおかしくないような異変が起こりそうね」
ヴァンパイアとして数百年生きている彼女は、成りたてヴァンパイアのユイノと違って予知の精度が段違いだ。もちろん、未来そのものを見られるわけじゃないにしろ、その「嫌な感じ」とやらが誰の身に起こりそうなのかもなんとなく察知するらしい。
「あのー」
てっきり嫌われてると思っていたから話しかけて相手にしてもらえるか疑問だったけど、意外にもベルとはごくごく普通に会話が成立した。
「肩代わりの魔術式を刻んでおこうって?」
「石化の呪いの副産物で、魂の式を用いた魔術式なら短時間で構築出来る、ね」
「便利そうでいいじゃない。アタシのヴァンパイアの呪いもそれで解けないかしら」
「いやぁ……それが出来るんなら俺だって、ゴブリン族の呪いを自分で解きますし?」
「それもそうよね」
ん? ヴァンパイアって呪いなんだっけ。俺がゴブリンだった頃にはまだ周知されていなかった種族だから詳しく知らないんだよな。まぁいいか。
エリスが愛用している、魔術式を肉体に転写できる布を貸してくれた。直接刻んだら目に見える形で魔術式が残るし、そもそも入れ墨のようなものなので痛みもある。要するに直接は不可能だから。
すっかり準備が整ったところで、
「で、やっぱやっちゃうんだ?」
「もっちろん! 男に二言はないってやつ?」
「アーチがそれを望むとは、とても思えないのだけれど」
俺を咎めるとか、アーチを気遣うとか、そういう感じではなくただ淡々と事実を述べる。そんな風にエリスは言う。
もし、肩代わりが発動して俺が無断でそうした術を刻んだのがバレたら、アーチは怒るだろうな。そんなこと、俺にだって想像はつく。
でも、そもそも術が発動するような事態に追いやられるのだとしたら、それはおそらくアーチの行動が招くんだと思う。
たぶんだけど、一方的に襲われてそうなるっていうより、自分から危ない状況に突っ込んでそうなるような予感がするんだよな。
現在進行であいつを危険に巻き込みまくってきた俺が言うのもなんだけど。
だからあいつにも責任があるし、お互い様ってことになると思うんだ。
そんな予想がある意味大当たりして、アーチはフェニックスの使い魔、ムシュフシュによってアクアマリンに連れ去られた。エリスが言うには十日経ったら追いかけていいらしいので、俺も準備を始めた。エメラードからアクアマリンへの船はひと月に一便しかないので、十日後に移動するには自分で道を作らないと。
「女王マージャの魂の式と自分のを繋げて、孤島ユークレースまで瞬間移動する魔術式を作るって……マジで便利すぎるな、おまえの特技」
ユイノは翼を持つ生き物に変身して飛んでいくそうだけど、俺にはもちろんそんなこと出来ないからそうすることにした。
「それを応用したら世界中どこでも行けないか? 例えばフェナサイトの知り合いの魂の式を覚えておけばいつでも行き来出来るとか」
「出来ない出来ない。魂の魔術式なんて複雑なもん、俺だってそうそう記憶してらんないし」
「だったら……」
「マージャの式だけは特別。何度も何度も見に行ったからな。呪いを解く糸口が掴めるんじゃないかと思って、見過ぎてる内に覚えた」
結局解呪には至らなかったけど、今回使い道が出来たから無駄にならなくて良かった良かった。なんて言ってたらいつの間にかユイノが同情するような目でこっちを見ていたけど、気付かないふりをして地面に魔術式を掘り続ける。
そもそもこっちからマージャへの一方通行で、戻っては来られない。世界のどこへだって行けたとしても帰ってこられないんじゃしょうがないだろ。そう言ったらそれもそうだな、とユイノも納得したようだ。
「よーし、出来た。でも、使うまでに雨が降ったら地面に描いた式も流れて消えちまうから、いったん石化させ、て」
「……どうした?」
一瞬にして、腹部に痛みが走った。懐かしいようなそうでもないような痛覚。
ずっと泥の体で生きてきたからか体に密着するような服を着るのがちょっと苦手で、俺はサロペットジーンズを愛用している。その隙間から覗き込んで、上に着ているシャツを少しだけたくし上げると。
「あちゃ~……こう来たかぁ」
てことは、アーチがいるのはアクアマリンの地下牢だな。処刑されて首を落とされた、とかじゃなくて良かった良かった。って言ったらさすがにそんな場合じゃないだろってユイノに突っ込まれる。だよなー。
「エメラードにはこんな傷を治せるような医者はいないぞ?」
「どうしたもんかな……」
「飛べよ。今すぐアクアマリンへ。人間を診られる医者がいるんだろ」
「十日待てって話は?」
「エメラードの魔物たち、って言ってたからな。おまえはアクアマリン同盟の一員だから対象外ってことで」
もしムシュフシュに何か言われたらそう返せ。って、言い訳を考えてくれた。
「ユイノが俺に親切なのってレアだなー」
「こんな時まで馬鹿言ってんな。それに……あの夜に俺があそこにいたら、さすがに止めた。いくらあいつのためだからって身代わりに傷を受けようなんて、軽はずみにするもんじゃない。俺と違って再生する体じゃないんだぞ」
そうやって受けた傷のせいでティアーは死んだんだ、と付け足す。ああ、そりゃあ、アーチにとっちゃ地雷だな。自分の想像していた以上に怒られそうな覚悟を固めた。
俺が消えたら地面の魔術式を消しておいてくれとユイノに託して、俺は飛んだ。懐かしい場所へ。
ぐちゃぐちゃの泥のただ中にへたり込んでいた。立ち上がりたいけど、腹の傷はいよいよ深刻な勢いで広がっていて、うまく体が動かせない。とはいえこのままでいたら死へ一直線だ。
おさえていないと今にも臓器が零れ落ちそうで、左腕はジーンズの内側に突っ込んで直接おさえて、右手だけ地面につけてようやく立ち上がる。
この体を手に入れた、あの日と同じ道を歩く。おぼつかない足取りは同じだけど、あの日と今日とでは意味が全く違う。
ユークレースとアクアマリンを繋ぐ細道を抜けたらそこはすぐに人間の集落で……だからこそあんな悲劇を起こしちまったんだけど……、春日居先生の家もそこにある。早くあそこまで、たどり着かないと。
「う……うぅっ」
痛い。痛すぎて、涙が止まらない。
かつて何億回と繰り返したけれど、痛みだけはどんなに繰り返しても全然慣れなかった。
俺は、まだ、死にたくない。
やっとまともな体を手に入れたんだから、一日でも多く生きて、色んなことをしたい。
「いたい……いたい、よ……あずさぁ……」
嫌だなぁ。あいつにはいっつも、こういう、弱ったところばかり見せちまって。
今日会えるのだって数年振りなのに、こんな姿を見せたら心配するだろうな。
あいつは本当は、頼られるより甘えるのが好きなのに。それが似合うやつなのに。
心から気負いなく甘えられる人を生まれる前から喪ってるから、慕っていても春日居先生にさえちょっと遠慮がちだった。
「……はは」
痛みと死への恐怖で混乱していた頭が、幾分平静を取り戻した気がする。あいつのこと考えたせいかな。
何としても、死ぬまでに辿り着くんだ。あの家まで。
どれだけ重傷でも、きっと何とかしてくれる。見捨てないで、助けてくれる。そう信じられたから。