3話‐6 現人源泉竜
「……どういう、こと?」
怒り、恐れ、悲しみ……ありとあらゆる負の感情に、アネキの声は震えていた。この現場、愛情のかけらも残さず去っていった恋人に、聞かずとも自分に計り知れない不条理が襲いかかっている予感があるのだろう。
「……柴木先生は、敦を狙っている魔物だったの」
「円、あなたの弟には特別な事情が」
「彼と、敦や涙達は何か関係があるの?」
サクルドの言葉には聞く耳を持たず、さえぎる。アネキは、ティアーの言葉を求めているのだ。信じたいからこそ――そしてティアーの口から現実を突き付けられることで、受ける心の負荷が最悪のものになるとわかっていても。
「高泉敦は特別な力を持って生まれた。だから魔物に狙われる。……だからあたし達は、彼を守るためにエメラードから出てきて、今ここにいる」
アネキの気持ちをわかっていて、ティアーはあえて直球の伝え方を選んだ。オブラートに包むとか、適度に虚飾をまじえた優しい伝え方ってものもあるだろう。だけど、ティアーにそれはできない。
一年間の付き合いで、ティアーもアネキの性格をよくわかっているはずだ。悪気はなくても、自分の目的、してきたことはアネキを深く傷つける。理解していてもそうせざるをえないのは、真実を伝えることでしかアネキに対して償えることはないから。傷つけても、真実を告げることが何よりの誠意になる。そうして――
「出ていって……あんたの顔なんか二度と見たくない!」
こうして、アネキの怒りを真っ向に受け止める以外、彼女にしてやれることはない。事実をティアーの都合でぼかして、アネキの感情のぶつけどころを奪えば、かえって彼女を苦しめる。俺にさえわかることがティアーにわからないはずもなかった。
アネキは言葉で感情をぶつけるが、他人に身体的な暴力をぶつけることは苦手だから。心からの言葉をティアーに与えたものの、何をするでもなく、ただティアーを睨みつけた。
「ごめんね、円……言い訳をする気はこれっぽっちもない。だけど、あなたといた一年間、とても楽しかったよ」
静かに告げて、ティアーは去った。玄関の戸が閉まる音が確認できると、アネキもようやく動く。両手で顔を覆い、自室へと走り去った。
居間に出て、散らかった窓ガラスを片付ける。アネキの部屋からは、押し殺した嗚咽が漏れてくる。
俺も苦しかった。少し、泣きたい気分だった。それでももっと辛い思いをしているであろうふたりのことを想うと、どうしようもなかった。
サクルドはすでに姿を消しているが、ヴァニッシュは獣姿のまま俺の後をついて回る。片付けを済ませて、また自室のベッドに上がると、そこにもついてきて言葉もなく共に過ごした。もう眠る気にもならない。
なんとなく、ヴァニッシュの頭を撫でながらその表情を見てみる。狼のヴァニッシュの表情はどこまでも澄んでいて、俺に何も求めていないような気がする。言葉も、感情も。ただ側にいて、ティアーの代わりに俺を守っているのだろう。
――俺は、決断した。
「アネキ、起きてるか?」
彼女の部屋の扉を二回、ノックする。もぞもぞと布団の動く音がして、電灯がつけられる。入っていいという意思表示ととらえることにする。
「何よ」
涙でくたびれた風の顔には、もはや疲れしか見えなかった。一時的なものではあるだろうが、怒りも悲しみも抜け落ちてしまったかのように。
空いている勉強机の椅子に腰を下ろすと、アネキの方から話を切り出した。
「つっこまれる前に言っておくけど、あんたが悪いわけじゃないってことくらいわかってるから」
「許せないのはあくまで……涙さん、なんだよな」
「あんた、あの子の本当の名前、知ってるのね」
思わずティアー、と言いそうになって言葉に詰まったのを、見破られてしまった。彼女が魔物であるなら「海月涙」という名前が仮名であるのは、確かめるまでもないことだ。
「親友だと思ってたのに……あたしはあの子の本当の名前も、家も知らなかった。本当に、利用されてただけなのね」
「みっともない弁解だと思ってくれていいけど、これだけは言わせて欲しいんだ。
アネキだって、最初から彼女を友達として必要としていたわけじゃないだろ? 自分が孤立していないと外から見られないで済む、そういう気持ちで一緒にいたはずだ。
だけど、そんな気持ちはお互いの接点だけで、今はアネキも彼女を心から親友だと思ってただろ? 涙さんだってきっと同じだよ。アネキだって知ってるじゃないか。彼女は隠し事はしても、自分を偽ることは絶対しないって。言葉にして伝えてくることに嘘はない、絶対に」
ティアーは最後、アネキと過ごした一年間は楽しかったと告げた。その言葉自体は嘘じゃない。だったらふたりは、やっぱり友達だったんじゃないかと思う。
「わかってるわよ、そんなの。だけどあたしだって、もう顔も見たくないって気持ちは嘘じゃない。あたしの友達って顔して、頭の中ではあんたのことばっかり考えてたんだから」
「……そう言うと思ってたよ。だから彼女は、俺が連れて行く。父さんと母さんにはもう言ったけど、俺はこの島を出るよ」
俺の行方不明が知らされた時、両親はすぐに出張先から発ったそうで、夕方にはこちらへ戻ってきた。一日とはいえ仕事を切り上げさせてしまったのは悪いと思うけど、俺としては直接、事情を伝えてから出て行けることに安心した。
「あいつらの島に行くってこと? エメラードへ?」
「そうだよ」
「わかってんの? 人間が住めるような場所じゃないでしょう、あそこは。勇んで行くつもりかもしれないけど、人間が生きていけるような場所じゃないかもしれないのよ?」
一応、心配はしてくれているらしい。政府間のものとはいえ交流のあるアクアマリンと違って、エメラードは人間には未知の世界だ。人間に都合よく開発され た島に生きてきた者にとっては、自然のあるがまま手付かずになっているという、たったそれだけの情報が脅威であり、語り草になっている。
「勇んでなんかないよ。俺だって不安しかないけど、ここにいたら何度だって、家族や周りの人間を巻き込むことになるかもしれないんだ。だったらどうにかし て、自分の身を守る方法を身に付けるしかない。――この島で、自分の力で生きていける自信が出来るくらいの力を手に入れたら、きっとすぐに戻ってくるよ」
エメラードがどんな場所なのか知らないが、俺の力を強化するためには魔物社会に入って鍛錬するしかないらしい。俺のいるせいで、豊のように目の前で殺され、アネキのように傷つけられるところを見せられるのはごめんだった。
先のことはわからないが、今の気持ちとしては、俺だって生まれ故郷であるこの島が恋しい気持ちが強い。自衛の力を手に入れたらすぐに帰ってこよう。そうしてこれまでのように、一方的に脅かされることのない生活を取り戻してやるんだ。