仄かな光
夏休みが終わって直後の九月は、まるまる一か月、学校は文化祭準備で忙しかった。俺は帰宅部だから関係ないと思いきや。
「課外活動手伝ってくれるってだけでも大概なのに、文化祭の展示まで手伝ってくれるとか。長矢くんって本当にうちの部員じゃないの?」
「ここまで尽くしてくれんのに頑なに部員にだけはなんないのイミフ~」
「俺もなんだか、だんだんわけわかんなくなってきた……」
部長と副部長は文化祭の全体ミーティングに参加していていなくて、他の先輩達が作業しているところを手伝った。この人達は最初こそ入部を勧めてきたけれど、何度か断ったらもう無理強いはしなくなった。
敦は三人目の先輩と一緒に材料の買い出しに出て、俺はひとり、完全な部外者としてここにいて作業しているというのに、もはや誰も気にしないのだった。
中学校でも文化祭は一応あったけど、高校とは本気度が全く違うし、祭りの本番より準備の方が楽しいって感じる生徒も多い。なんとなく一か月通してずっと浮足立ってる雰囲気になる。俺は中学じゃもちろん部活なんかやってなかったし、クラスの催しも手伝ってなかった。
基本的に、面倒なことは嫌いなんだけど……この空気感はそんなに嫌いじゃないなって気がした。
十一月。俺達にとっては大事な日を迎える。敦の十六歳の誕生日だ。結局、十五歳の内は敦は現人源泉竜、ソース……無限に湧く魔力に目覚めないんだろうか。
敦の誕生日は棒菓子記念日と言われてる日で、たまたまその情報を知ったクラスメイトが昼食休みの時間に「誕生日祝いにみんなで棒菓子を持ち寄ろうぜ」と言い出した。棒菓子なんて硬貨一枚でお釣りが出るし、誕生日のプレゼントとしちゃあ小さなもんだけど。ひとりが買う量は少なくてもクラスのみんなで持ち寄れば多種多様に味が楽しめるんじゃないかというアイデアだった。
「俺、クラスのみんなに誕生日祝ってもらえたの初めてなんだ。別に気にしてなかったけど、なんだかんだ嬉しいもんだなー」
転校続きで、誕生日を祝おうなんて距離感になる前にお別れの繰り返しだったんだとか。
たまたま誕生日と記念日が重なったおかげとはいえ、それがクラスの嫌われ者だったらついでにみんなで祝おうぜなんてならなかっただろう。目立たず、押しつけがましくなく、クラスのみんなの手助けをしてきた敦だから祝ってもらえたんだと思う。
クラスの奴らと分け合って持ち帰った某菓子を、俺もティアーに分けて一緒に食べていた。館の中は夜は真っ暗でせっかくの菓子が見えないから、屋外でそれを囲む。満月ってほどじゃないが今夜はおやつを食べられるくらいには月明かりに恵まれている。
「そんで、敦はソースとかいうのになったのか?」
「ううん……」
ティアーは沈んだ顔で、首を横に振る。細長い棒の先にチョコレートをコーティングした菓子を口に入れるが、考えながら食べているせいかちっとも食が進まず、チョコが溶けて唇にくっついている。ていうか、狼ってイヌ科だけど、チョコ食べて平気なんだろうか。今さらだけど。
「一体いつになったらなるんだろうなー。なったらなったで平和な学生生活なんて送ってられなくなりそうだし、いっそならない方がいいんじゃないのか? ソースなんて」
「……ううん」
ティアーはまた、首を横に振る。考え込みすぎて俺の言ってること聞いてなくて、同じ動作を繰り返しただけかな。そう思ったんだけど。
「豊……前に、言ったよね。あたしをワー・ウルフにした人間について、いつかは話すって」
「ああ。そういやそんなことも言ってたっけ」
もう一年以上前だから、ティアーから切り出されなかったらすっかり忘れてたな。
「今からあたしが話すこと、豊はきっと忘れちゃうと思うけど……忘れるんじゃなくて、『思い出せなくなる』だけかもしれないから、言っておこうと思うの」
「忘れると思い出せないって、どっか違うか?」
「違うよ。忘れるっていうのは記憶から消されちゃうってこと。思い出せないっていうのは、記憶のどこかにちゃんと残ってるけど、それが取り出せなくされるってことだもん」
「消される、とか、出せなくされる、とか……何か言い回しおかしくないか?」
おかしいのは言い方だけじゃない。ティアーの、追いつめられたような、鬼気迫る表情もだ。
「ヴァニッシュがワー・ウルフになった時のことを聞いたから、知ってるでしょ? あたし達は元々はただの狼で、死んだ後に人間に儀式をされてワー・ウルフとして命を貰うんだって」
「ティアーも人間に殺されたのか? ヴァニッシュみたいに……」
「殺されてないよ。これも前に言ったよね。あの人は、あたしを助けてくれたの」
チョコレートのついていない一切飾り気のない、しかし塩気が強くシンプルな棒の焼き菓子を口に入れる。なんとなく、頭をすっきりさせたくてこれを選んだ。深刻な話が始まりそうな予感があったから。
「狼だった頃、あたしは山の中に住んでいたけど、たまに山を下りてゴミ捨て場に来てた。狼のあたしには理由とかわからなかったけど、そこに美味しい食べ物をいっぱい捨ててく人がいたからね」
ティアーの話だと、真っ黒なビニール袋いっぱいに、弁当やおにぎりなどの廃棄食品がいっぱい詰まっていて、それが毎日のように置き去りにされていたという。そこは生ごみ置き場ではなく、そもそも正式なゴミ捨て場ですらない。粗大ごみが日常的に不法投棄されていた場所。おそらく、粗大ごみを捨てに来る誰かが、ついでに廃棄食品も勝手に捨てていたのだろう。家庭ごみを捨てるのに金はかからないが、業者が捨てる廃棄食品には経費を取られるからそれを浮かせるために。
「その辺に住みついてしばらくしてから、人間の子供が毎日通いに来るようになった。最初、あたしは気付いてたけど無視してた。鉢合わせないように隠れたり、食べ物探しのためにそこへ行くにもその子が来そうな時間は避けたりしてね」
たとえ子供でも、野生の動物にとって人間というだけで「何をされるかわからない」と警戒しないわけにはいかないらしい。
「でもまぁ、結局は目先のご飯に夢中になってる内に見つかっちゃったんだけどね。その子は動物に興味があったのかな。あたしに話しかけたり、遊びたがったり。なんだかふわふわ~ってした食べ物をたまに持ってきてくれたりしたの。それで……いつの間にか、あたしのことをティアーって呼ぶようになってた」
「名前って、ワー・ウルフになった時につけてもらったのかと思ってた」
「名前っていうのはワー・ウルフになってしばらくしたら自然に思い出すの。自分の中の魔力に自覚的に触れられるようになるから。魔力には記憶が宿ってるから、そうなると前世かから使ってる自分の名前も思い出すんだよ」
ヴァニッシュの名前だって、いくら主だからって元飼い主の人間がつけたってわけじゃないということらしい。人間には馴染みにくい話だし、話の本筋から逸れるので今はその詳細を教えてもらうのは諦めることにする。
「ゴミ捨て場にいる時に、地面が大きく揺れたんだ。高く積んだ粗大ごみのてっぺんにいたあたしは、そこからずり落ちて。一緒に崩れたゴミに潰れて死んじゃったみたい。気付いた時にはもうワー・ウルフになってた。目の前にはあの子がいた。儀式をして、あたしをワー・ウルフにしたんだ」
「人間の子供が、ワー・ウルフになる儀式の仕方なんか知ってるものか?」
「普通の子供だったら知ってるわけがない」
「特殊な子供だった?」
「入れ知恵されたんだよ。『ソース』にね」
痛切な表情で、ティアーが歯を食いしばったのが見えた。そうして彼女は、自分のワンピースのポケットに手を突っ込み、中のものを取り出す。俺に見えやすいよう配慮して、手のひらの上にのせる。
それは、親指ほどのサイズの小さな小瓶だった。中には色のついた水が入っている。暗い中だというのに仄かに光を放っているようにすら見えるが、おそらく目の錯覚だろう。もし本当に光っているなら、薄い上に白いワンピースの生地なんて貫いて、そこに光源があるとわかったはずだから。
「敦がまだソースにならないのはね。あたしがこれを渡してないからなんだ」
「やっぱり……ティアーを作った人間って、敦だったんだな……」
正直、最初っから疑ってはいたんだ。自分を作った主に絶対的な忠誠を抱くというワー・ウルフ。そのティアーが敦を守るというんだから。実際、無事に高校生になって敦と出会ってからは、ただただひたすらに敦のことを想っていた。
でも、敦と話していてもワー・ウルフや過去のティアーとの繋がりはまるで見えなかった。たまに会話の中に彼女の存在が紛れ込んでも、あくまでそれは「海月涙」としての彼女だった。敦を守るというのだって、ティアーだけじゃなくヴァニッシュだって同じだから、ソースという立場の人間が魔物にとってそれだけ特別な存在なのかとも考えられたし。
実際はシンプルに、最初に想像出来た通りだったわけだ。
「現人源泉竜っていうのは勝手に生まれるわけじゃない。この小瓶に宿るソースが選んで、契約するの。そういう意味じゃ人間とワー・ウルフの関係と同じだね。敦はあたしを生き返らせるために、ソースと契約しちゃったんだ」
「ティアーが死んでるのを見て、生き返らせたいって思った……?」
「そう。その代償に、大人になったらソースになるって契約でね。そんなのになったら魔物から命を狙われるし、人間の世界でまともに生きられなくなるっていうのに」
「そんな……それが大事な人間相手だっていうなら無理もないけど、野生の動物だろ? 家族同然のペットですらない……」
そう話しながらも、ふつふつと湧きあがるのは納得ばかりだった。今まで見てきた敦の性格や信条から、そんな行動を取るのは不自然でもなんでもない。
『ちょっとでも可能性があるんなら、俺は諦めたくない』
思い出したのは、知り合って間もない頃。初夏の教室。分の悪い可能性でしかないっていうのに、俺を見捨てて自分が厄介を負わなくて済む方法を選べばいいのにそうはしないで。不利益を負ったとしてもやらないで後悔するよりマシなんだと、何でもないことのように笑って言った……。
「ティアーを死なせずに済む可能性があったから、諦められなくて……ソースになる契約をしちまったっていうのか?」
「そういうこと」
「そんな……代償があまりにもデカすぎる、だろ……」
ごくごく普通の人間の体に生まれることが出来たっていうのに、自らそれを捨てたなんて。元から人間として生まれられなかった俺からしたらなんとも贅沢な話っていうか、ふざけんなとすら思う、けど。
高泉敦という人間の選択としては、あまりにも正道だった。あいつはどれだけ不利益を被ろうが、「自分だけが助かろう」とは絶対に思わない人間だから。巻き込まれなくていいはずのトラブルでも、その目で見てしまったらもう放ってはおけなくて、謂れのない不遇を何度も受けてきた。
「だからあたしは敦を守りたいの。ソースになっちゃったのはあたしのせいだもん」
ティアーのせいじゃない。あくまで敦が自分で選んだことだし、本質的には敦にそう選ばせたソースのせいだと俺は思う。ただ、敦を守りたいって部分を否定したくなくて俺は黙ってその決意を聞いた。
「その小瓶を渡した時点でソースになっちまうっていうなら、敦にそれを渡さなきゃいいだけなんじゃないのか?」
「敦はね。ワー・ウルフになったあたしが魔物の島に行けるように見守れって、この小瓶に命じたの。契約した時点で敦はこの小瓶の持ち主だから、命じられたら従うんだよ。でも、魔物の世界じゃあ契約っていうのは対等だから。大人になって小瓶が敦の元に戻ったらソースになるっていう契約が同時に成立した」
「だからほら、小瓶を敦に返さなきゃいいんだろ?」
「でも、あたしはあと二年くらいしか生きられない。今は敦が命じたから、小瓶の持ち主はあたしってことになってる。死んだらそれが無効になるから、小瓶は自然に敦のところへ渡るはずだよ」
それなら、……あんまり言いたくないが、ティアーが死ぬまでだったら敦は、普通の人間のまま暮らせるんじゃないだろうか。俺の考えはティアーにお見通しだったらしく、次に彼女の発した言葉に心が凍りそうだった。
「あたしが死んですぐ、敦がソースになったとしたら。敦は誰に教わって、ソースの魔力を使いこなすの? それが出来なかったらどうやって、襲ってくる魔物を退ければいいの? 敦が自分の身を守るためには、自分がソースだってことを早く自覚して、魔力の使い方を知らなきゃいけないんだよ」
逃げ道なんかどこにもない、現実を突きつけられる。
「今話してくれたことが事実なら、敦がそれを知らないのはおかしいじゃないか。自分のことなのに。それに、ティアーは俺が今聞いたのを忘れるって言ってたよな。こんな大事な話、早々忘れるわけないだろ?」
「それも全部、この小瓶の力だよ。ソースにとって都合の悪い情報は全て、あらゆる生き物から忘れさせることが出来るようになってるんだ。ソースの仕組みを魔物が覚えていられたら、そもそも人間とソースを契約させなければいいんだって対策されちゃうじゃない」
ティアーがそれを忘れられないでいられるのは、敦の命令でこの小瓶を所持しているから。敦に渡したらその時点で、今話したことを全て忘れてしまうと説明を加える。
「十五歳になったら小瓶を返すって約束なのに、あたしが引き伸ばしにしてるからね……ソースはとっくに、しびれを切らしているんだよ。早く敦のところへ返せって訴えて来てる、気がする。でもね……渡したらその時、もう、今みたいな幸せは終わっちゃうから……」
敦の今後の安全のためには、早く渡して、あいつをエメラードへ連れて行かなければならない。エメラードにはティアー達の仲間がいて、敦が強くなるまでは守ってくれるし魔力の使い方も教えてくれる。そういう組織があるらしい。
それでも、捨てきれないんだ。人間の高校生として、あいつと同じ学校に通える、今の幸せを。
その気持ち……俺にだって、痛い程にわかる。
ごくごく普通の高校生として学校に通う安らぎ。部活動、学校行事。誕生日になんでもないお菓子を集めてクラスのみんなと祝う……。
ティアーだけじゃない。そんな当たり前の人間らしい暮らしなんて、俺だって今までちっとも知らなかった。
いつの間にかそれが当たり前みたいに思ってたけど、全部……あいつに会ってから知ったんだ。こんな、光の中にある世界なんて。
「豊に出会うまでは、あたしとヴァニッシュが死んだ後、誰が敦を守ってくれるんだろうって思ってたんだよ。あたし達がいなくなっても、これからも……豊だけでも、敦の側にいてあげてよ。敦って寂しがりだから、ソースになって、頼れる人間が誰もいなくなったら辛いと思うんだ」
「それは……」
俺の言いたいこともわかってるのか、それとも諦めているのか。「側にいて」とは言っても、俺に「敦を守れ」とティアーは言わない。
ダムピールには、魔物とやりあえる力なんかない。対ヴァンパイアに特化した性質がいくつかあるだけで、ソースとして狙われる敦を守れる力なんか、俺には……。
『ダムピールなんかでいたって守りたいものを守れない。だったらオレはヴァンパイアでいい』
あの夜の俺にはとても正気とは思えない、気の触れた選択だとしか思えなかった。今はほんの少しだけそれも視野に入れ始めた自分に、眩暈を覚えそうだった。
ああ……本当に。いつまでも、こんな風にいたかったな。
俺も、ティアーも、敦も。ごくごく普通の高校生活を続けていきたかった。
そのひとときの夢の日々は、高校一年生のたった一年間しか見られなかった、儚い幻でしかなかったけど。