夏休み
夏休みになった。俺が森の奥の館で暮らしてるのは、高校へ通うのに実家からだと遠くて不便だったからで、夏休みになったし家へ帰ろうかなとちょっと考えた。俺がいるだけでも多少なりと、ヴァニッシュの稼いだ金が浪費している現実もあるから。
だが、ティアーが高校に通うための学力はまだまだ足りていない。高校は義務教育じゃないから成績が足りなければ退学もあり得る、そのギリギリ最低ラインに辛うじて立ってるような状況だ。夏休み中だからって遊んでいたら覚えたこともあっという間に忘れそうだし、お互いの時間の合うタイミングで勉強を見るためにここに残ることにした。
昼間、ティアーは敦の姉と会って遊ぶために出かけることが多い。俺は体質的に昼は寝て夜は起きてる方が頭が回るから、遠慮なく昼寝暮らしを満喫していた。
ある日、ティアーは珍しく、敦の姉と夜に会って遊ぶ約束をした。女子ふたりだけで夜遊びっていうのも危ないからと、今回は敦も付き合いで一緒に行くらしい。
「縁日とかいうお祭りに行くんだって。それでジャックの家族が浴衣っていうのを貸してくれて、着せてくれるんだって!」
ジャックは森の奥の館、通称出張所の管理人。彼はダムピールだから人目を避けて森の奥で暮らしているが、街中に実家があり家族が暮らしている。その実家はティアーが学校に通うために提出した書類には、彼女が住む偽りの住所として書かせてもらってもいる。
「浴衣ってたぶん胴のところ帯で絞って息苦しいし、歩きにくいだろうな。敦の前で変なボロ出さないよう気ぃつけろよー」
「締め付けるのって苦手だなぁ~。でも、気を付ける! いってきまぁーす」
十五時過ぎくらい、ご機嫌に出かけるティアーを見送った。待ち合わせは十七時だが、ジャックの実家で浴衣を着付けてもらう時間も考慮して早めに出たんだろう。
俺も、普段は夜の方がすっきりしているが、明日は清掃ボランティア部の活動に付き合う約束になっている。いつもよりは日中起きていなきゃいけない時間が長いので、適当なところでさっさと寝てしまうことにした。
ベッドに入ったところで不意に、思い出した。夏休み。あれからちょうど、一年くらい経ったのか。あいつ……結人に会って、ティアーから敦のことを聞かされた、あの夜。
たった一年……あっという間だったようにも、長かったようにも感じる。
俺はこうやって人間の暮らしに戻ったけど、同じ時間をあいつはヴァンパイアとして今も生きてるんだよな。元気にやってるんだろうか……ほんの少しだけそう考えて、さっさと頭を振ってその思考を追い出す。考えたって仕方ないから。
翌朝。俺ひとりだと森を抜けられないので街路へ出られるまではティアーに付き合ってもらって、今度は俺が「いってらっしゃーい」と見送られ、彼女と別れる。それで敦の家のある団地の入り口まで行ったんだけど。
待ち合わせ場所がそもそも自分の家の敷地なんだから、ここでの待ち合わせの時、たいてい敦の方が先に到着している。ところが今日は俺の方が先に着いて、敦は時間ぎりぎりに慌てた体であらわれた。「ごめんごめん」と、小走りしてきて乱れた息を整えた後も目がぼんやり、心ここに在らずといった感じ。
「何ぼけーっとしてんだよ。これからおまえの大好きな清掃活動だろ?」
「好きだからしてるんじゃなくて、しなきゃいけないからしてるだけだって」
「どっちだっていい。先輩達と合流する前にしゃっきりしておけよ。なんだかんだけっこう重労働なんだから、ぼんやりしたままやってたら危ないだろ」
「だよなぁ……って、そんなにぼんやりしてるかなぁ」
「してる。何かあったのか?」
知らない振りをして訊ねる。昨日、敦は自分の姉とティアーと一緒に出掛けた。今朝こんな風になるっていうならその時に何かあったんだろうって想像は簡単だ。とはいえ、昨晩帰宅したティアーはご機嫌ではあったけどいつもとそんなに変わった様子はなかったんだよな。
「昨日の夜、アネキに付き合って夜の祭りに行ったんだ。涙さんも一緒だったんだけど、彼女、浴衣着て来て……ちょっとだけふたりっきりになる時間があって、線香花火したりして……そのせいかな。なんか、いいなぁって」
「う~ん……朝っぱらから胸やけしそうに甘ったるい」
「なんだよー、豊が訊いたんだろー?」
「悪い悪い、でも言うなって意味じゃないから。そういうことな」
正直、魔物としてのあいつの振る舞いを知っている俺からしたらピンと来ないところはあるけど。普段とちょっと違った装い、時間、シチュエーション。彼女自身の戦略じゃなくたまたまそうなっただけなんだろうが、ここまで揃えばこんな風になったりもするのか。上手くやったもんだと感心した。適度に青春してて結構なことじゃないか。
夏休み中の俺は薄暗い森の奥でマイペースに惰眠をむさぼる生活を満喫していた。そんな快適な夏休みももうじき終わるなぁと惜しんでいた、八月の終盤。また三人で隣町の花火大会を見に行くのだと、ティアーは出かけて行った。
たっぷり昼寝をしていたので目がすっきりしていた夜。そろそろティアーが帰ってくる時間かなと思って、館の一階へ下りていった時だった。
玄関の向こうから、かなり大きな声で泣く女の声が薄らと聞こえてきた。壁越しでも耳に直接刺さるような声量で、外へ出たら耳が壊れるんじゃないかと思った。
玄関の、両開きの戸を少しだけ開いて、片目だけ覗き込むように外を確認する。この森で他に女なんてそうそういないだろうと開ける前からわかってた。やっぱり、泣き声の主はティアーだった。
土の地面の上でも、座る時は正座してしまうのはティアーの癖だ。いつも通りそんな感じで地面に正座しながら、ティアーは声を出して泣いていた。その前にはヴァニッシュがいて彼女の頭を黙って撫でている。こっちに背中を向けているから彼がどんな顔をしているのかは見えない。
いたたまれない気持ちになって、俺は扉を閉じて、二階へ戻る。もうずっと間借りしている、窓のない客室へ閉じこもって頭から布団を被る。ここまでしたらさすがに、もうあの声は聞こえなかった。
今夜はたまたま、ヴァニッシュが仕事休みで館にいたからこうなったけど。彼がいなかった場合はもちろん、俺かジャックがティアーを出迎えていたわけで。わけもわからずあんな風に目の前で突然泣かれて、俺に、ヴァニッシュがしたように迷わず受け止めてやれたんだろうか。
朝になって目覚めると、館の中もその外もすっかり静かになっていて安心した。そんな自分の心境に薄情さを感じて自己嫌悪もあった。
外にはヴァニッシュが人の姿のままそこにいて、ティアーはいなかった。話しかけて事情を聞くと、ティアーは泣き疲れて寝てしまったので屋内の寝床へ運んだという。
「ティアーの奴、なんであんなに泣いてたんだ? 敦達と楽しく出かけたはずなのに」
普通に考えたら、出かけて帰ってきて泣いてたんなら、出かけ先が楽しくなかったとか嫌なことがあったと考えるのが自然なんだろうけど。あのティアーが、敦と一緒の時にあんな風になるなんて、なんだか信じられない気がした。
「……ティアーは、人間の振りをするのが無意識にストレスなんだと思う。学校生活が楽しいのは間違いないだろう。そうだとしてもそこへ通うための自分は、本当のティアーじゃない。着慣れない服を着て、人間の体を保ち続けて、何の気兼ねなく体を動かすことさえ制限しなければならない」
腑に落ちた。敦と一緒だったのに、じゃなく、一緒だったからこそこうなったのか。
以前、学校内で、敦の姉とティアーが一緒にいて話しているところを俺ひとりで通りがかったことがあった。その時に見聞きした感じだと、姉とふたりだけの時は俺達と話している時とそう変わらない感じがした。
「好きな男とそれ以外の男の前とで、態度が違うのなんて当たり前」、敦の姉はティアーにそう教えたというし、三人でいる時は多少は猫被ってるんだろうな。
ティアーにとって敦は何より大事な存在なのに、その本人にだけは、自分の本当の姿を見せられない。偽っている。そも、ティアーの素の性格は正直に生きることが大正義なんだ。俺と知り合った当初なんか、気に入らない人間は遠慮なくぶん殴ってきたくらいなのに、今はもちろんそんなことも出来ない。学校に通わなければ気に入らない相手も、守らなきゃならないけど納得いかない規律なんかいくらでもあるだろう。体で訴えて跳ね除ける強さを持っていても、それを振るうわけにはいかないわけで。
「だったら……敦にティアーが魔物だってこと、話せないかな。あいつだったらそれを知ったら、どうしたらティアーが楽に過ごせるか、一緒に考えてくれそうな気がするんだけど」
「……それなら、豊は敦に話せるのか。自分がダムピールだということを」
ヴァニッシュにしては容赦なく、痛いところを突いてきたな。俺の浅はかな意見を咎めるような、と同時に俺の弱みを突くことに自分の心を痛めてもいるんだろう。表情にあらわれていて、俺も申し訳なくなる。俺を傷付けることがわかっていても、言うしかなかった。そうさせてしまったんだ。
「……俺自身は敦と直接話したことはない、物陰に潜んで見ているだけだ。それでもティアーや豊の話を聞いているだけで、人柄は伝わってくる。事実を明かせばどうするのが最善なのか、寄り添って考えてくれるのかもしれない。だが、それはティアーの夢見る、敦との関わりじゃない」
「気を遣われるような関係になっちまったら……今の敦とはちょっと、感じが変わるかもしれないからな……」
ティアーは素の敦の性格や人間性が好きで好きでたまらないからこそ、今のままの敦とこのまま関係を続けていきたいんだろう。