3話‐5 現人源泉竜
いつの間に眠っていたんだろう、目覚まし時計を見ると、一時間ほど経過していた。普段、うつぶせに眠ってしまう習慣にないので、何となく肩が凝ったように感じる。
まだ寝ぼけたままの頭に、静かに部屋のドアが開く音が染み入ってきた。アネキ? 両親? ……ひょっとして、ティアー?
思いつく限りの全てを挙げたが、そのいずれでもなかった。親交は一切無いけれど、入学式だったり、学校の廊下だったりで見かけた、保健室の柴木先生だ。清潔に整えられた茶色の髪に、三十歳という年齢の割に目もとの皺が深く、まなじりの下がって優しげな顔が印象的な人だ。いつ見ても表情は笑みに刻まれ、目の色が判別できないのがすごいな……。
アネキの恋人だっていうけど、面識のない人に勝手に部屋に入られて黙っているわけにもいかない。身を起こそうとベッドに両手をついたところで、耳元に火花が散ったのがわかる。
――サクルドは、俺が望まないと姿を現すことさえ出来ないと言っていた。それはおそらく、俺が必要に迫られていなければ力を発揮できないってことだと思う。断りなく部屋に入ってきた人物に、わずかばかりでも警戒心があったから、サクルドの防御が間に合ったんだろう。
あのまま眠りこけていたらどうなっていたものやら、と、ひやりとしたものを感じながら柴木先生の方を見る。彼の表情は先に見たものと、少しも変わりがなかった。顔全体で自然に笑んでいて、とても作りものには見えないのに。状況は、それが心からの笑顔とは認めやしない。
「驚いた。もう防御壁を身に付けたってこと? ……さすがにそんなわけないか」
その声は、外見から想像できる範疇を超えていた。高く、澄んだ、明らかな女性の声。確かに、この人の声は元から男にしては高めだったような覚えもあったが、こうもあからさまではなかったはずだ。
服の下の小瓶が発光しているのがわかったので、取り出すとやはりサクルドが姿を現していた。
「精霊か、マジックアイテムか……いずれにしろ、高泉敦本人がソースの力を使いこなせるわけじゃなさそうね」
「あなたこそ、何者です? 学校関係者なら、ティアーが気がつかないはずがない。学校内の、アクアマリンの使いはマージャだけだったはずです」
「……俺としては、その表情が全く動かないのが不気味で気になるんだけど」
場違いだとはわかっていたけど、訊かずにはいられなかった。この、柴木先生は、どこも不自然じゃない笑顔を見せているけど、それがぴくりとも変わらないとなると感じるのはむしろ悪意だ。
「申し訳ないけど、表情までは動かせないのよー。いくら稀にも見ない傑作とはいえ、ホムンクルスはホムンクルスだもの」
「そんな……ホムンクルスは魔力から生みだされる者。魔力を微塵も漂わせずに行動するなんて、それこそありえないじゃないですか」
「そーよねー。正直、私もありえないと思うわ。偶然……いいえ、奇跡の産物ね。製作者である私自身、何ら計算した上での成果じゃない。だからこの子と全く同じホムンクルスを再び作り出すことは、私にもできないのよ。もったいない話よねぇ」
昨日のヴァンパイアといい、魔物ってやつはおしゃべりが多いんだろうか……ヴァニッシュはそうじゃないし、その時点で個人差の一言で片付けられるか。こんな形で人を襲撃しておいて、べらべらと余計なことを喋るものだ。
学者ばかってとこですね。あの口ぶりからして、「柴木先生」の中身はおそらくホムンクルスの研究者なのでしょう。サクルドの声が脳裏に届く。敵を目の前に、悟られず、堂々とないしょ話ができるっていうのは便利かもしれない。
適当に話を続けて、時間を稼ぎましょう。用事が済めば、ティアーもすぐに駆け付けるはずですから。
「ホムンクルスっていうのは? 作るとか何とか……いや、それより。柴木先生は結局、何なんだ? うちのアネキと付き合ってるんじゃなかったのか?」
自分で口にしてようやく気がついた。アネキは無事なんだろうか。
「高泉円だったら心配いらないよ。もう用は済んだから、今後どうにかするってことはないわ。今は安らか~におねむでいてもらってるだけだから。あ、こういうと誤解を招くか。永眠してもらったって意味じゃあないからね?」
その点は確かに安心だが、その言葉を噛みしめる内に、今さらながら事のおそろしさをはっきりと自覚するはめになる。
柴木先生は、本当に、この俺を殺すために家へ入り込んだ。アネキと関係を持ったのも、もしかしたら俺と関わりがあるのかもしれない。そうだとしたら、余りにも不憫だ。アネキの性格からして、この事実を知ったらショックで錯乱するかもしれない。
「ホムンクルスっていうのはねー、魔術で一から作り出す人工生物よ。まだまだ研究段階だから、生まれた器から出て活動できない役立たずだけどね。具体的な生成方法は知らない方がいいかな。胸くそ悪くなるでしょうから。
本来はこんな風に、単身で自由に動き回れるような生き物じゃあないのよ。そこはそれ、やっぱり我らが父――源泉竜ソース=アイラの専売特許ってことでしょうねー」
「そのお父さまのご意思を、あなたは否定するというのですか?」
小さい身体で精いっぱい凄みをきかせようとしているのか、サクルドの声は冷えきっている。
「ご意思、ねぇ……父親が、軟弱な子供を他のきょうだいと差別化して猫かわいがりしていた。父親の死後、きょうだいはその意思に、盲目的に従わなくちゃいけないとでもいうの?」
「源泉竜さまのお話を、一介の親子関係と同列に語れますか」
「同列? 私にはあなたの方がよっぽど不可解だわ。アイラは私達、魔物全体を同胞、戦友として扱った。だから魔物には、敬称を使う習慣なんてそもそもないのに」
そういえば、源泉竜は神様だとか言いながら、ティアーもヴァニッシュも「アイラ」なんて随分と気安く呼んでいたような。
サクルドは言葉を返すことができずにいる。悔しそうに、歯噛みしている様子がうかがえる。
相手がその隙を逃すはずもなく、柴木先生は片手を上へかざし、すぐさま垂直に振り下す。
やむをえず、サクルドも何か防御の術を繰り出したようだ。昨夜のような緑色の鮮やかな光が、俺達を包み込む。俺の目の前で柴木先生の爪が緑の防壁に食い込むが、破ることはできず、赤と緑の火花が散った。
ひととき、静寂があった。俺にその意図はわからないが、サクルドと柴木先生は視線を交わしあう。柴木先生は相変わらず、微動だにしない笑みを浮かべて。サクルドの方は俺に背を向けているので見えないが――
「なるほど。ソースの盾は、意外ともろいってか。現時点では」
そう呟き、再度、空に切りかかるしぐさ。その時、光の壁と共にサクルドの羽にも揺らぎが見えた。
「サクルド……」
「……敦さまが気にかけることはありませんよ。わたしは、大丈夫ですから」
どう前向きに考えようとしても、俺はその言葉通りに受け取ることができそうになかった。
「さてさて、思ったよりあっけなさそうだわね~」
もはや鼻歌まじりに、柴木先生は幾度と緑の光に手を振り下ろす。その度にサクルドの姿はかすみ、まるで調子の悪い映写機の映像のようだった。
「くっ……ティアー、はやくっ……」
その言葉に、反射的に叫んでいた。
「もういい、やめろ!」
その瞬間、俺の部屋を満たしていた緑の光がかき消えた。サクルドはおろか、柴木先生でさえ、あっけにとられて動きを止めていた。
「ど、どうしてですか!? 敦さまっ」
思った通り、俺が望まなければ、サクルドは力を発揮できないようだ。そんな俺の行動に、サクルドは俺の目の前に浮上し、全身で抗議を表してみせる。
どうせ言葉にしなくても、俺の意思は彼女に伝わる。だからあえて、俺は飾りのない気持ちをそのままに、思いを馳せることにする。
俺のために、小さな身体を張って攻撃に耐える。そんな姿を見ていられなかった。ただ、それだけのことだった。
「そんな……わたしは消えません。たとえこの場で破壊されたとしても、すぐに甦る存在なんです。だからあなたが気にすることなんて……」
それでも、見ていられなかったんだ……一旦、そう感じてしまったら、もうどうすることもできなかった。
何故だろう、俺だって死にたいわけじゃないのに。サクルドがすぐに再生できるなら、ここは彼女の後ろに隠れていた方がいいってことくらい、俺にだってわかるのに。それでも、サクルドに俺の分も攻撃を受けさせることに、耐えられなかった。
「あなたの心境には、個人的にとても興味はあるのだけど……」
表情は変わらず、口調はどこか残念そうに。言いながら、柴木先生は片手を振り上げた。
居間からガラスの砕け散る騒音が届いたのは、それとほぼ同時だった。
「――な、何よこれ! 何なの!?」
柴木先生が開けたままにしていた俺の部屋の扉。そこから、居間にいたらしいアネキの悲鳴が漏れ聞こえ、さらに銀色の狼が飛び込んできた。
柴木先生に飛びかかるつもりで勢いをつけていたらしいヴァニッシュに、さすがに避けるしかないようで、柴木先生は右手側へ跳んだ。
「まどかーっ、無事!? ここを開けてーっ!」
ヴァニッシュが俺達の前に立ち、柴木先生を睨みつけると、今度はティアーの声と玄関を叩く音が響いた。
「一体、どうなってるっていうのよ」
青ざめた顔のアネキが、ティアーを連れて現れる。窓際に追い詰められている柴木先生を見て、普段通りに俺を詰問したらいいのか、彼を気遣うべきなのか葛藤しているように見える。
「どうします? いくら魔力を感知されない存在とはいえ、ホムンクルスである以上、一切魔力を糧に動いていないという保証はありませんよ」
「うーん、銀の獣に抱きつかれたらやっぱり消えちゃうかなぁ。ここまで踏み込んで、その子に付き合った期間を思うとずいぶん時間の無駄しちゃったなぁとも思うけど、ここは撤退するしかないね」
ヴァニッシュから身をかわす時、左に避けていたら逃げ道はなく、こうも余裕ではいられなかっただろう。
「じゃあね、高泉円。詳しいことはその連中に聞かせてもらいなさいな」
悠々と窓ガラスを開け、飛び降りる。ここは八階、人間だったらひとたまりもないだろうが、彼にとっては何でもないことらしい。そういえばヴァニッシュも、八階のベランダから平然と侵入してきたんだよな。