誓いの夜
森の奥の小屋で寝泊まりするようになって半月。俺もすっかり、日が暮れて周囲が真っ暗闇になると自然に睡魔に襲われる体に変わっていた。
暗くなったら寝る、を繰り返して馴染んだというのももちろんだが、日中は町を歩き通しでヴァンパイアの気配を探っているから体が単純に疲れ切っていた。夜になるまでに。
ティアーは夜になると狼の姿に戻って俺のすぐ横で寝ている。今夜もそうするものと思っていたら、いつまでも人の姿のまま変わらないでいる。眠い目を擦って訊いてみると。
「今夜はまだ寝ないの。満月だからね」
「満月?」
ティアーは小屋の戸を開けて外へ出る。俺も後へ続く。
小屋の目の前だけは木が広範囲に生えていない、開けた広場になっている。この森の樹木は平均して三メートルほどの背丈で揃っていて、夜には黒々とした波のようにも見える木々の葉からちょうど、満月の上半分が顔を覗かせようとしていた。
「あたしもヴァンパイアと同じで、日光より月光の方が魔力の回復効果が高いからさ……満月の夜は眠たくても起きてないと」
「せっかく回復出来るっていうのに、なんか……いつになく元気なくないか?」
単純に、眠たいのに起きていないといけないのが不満なのか? そうは思えない、悲しみをほんのり忍ばせた表情に見える。
「あたしね……月を見るのは嫌いなんだ。あの時もこんな、夜だったし」
「あのとき、って」
事情を聞きたかったのに、先に言葉を詰まらせたのは俺の方だった。
瞬間的に、心臓を突き刺すような痛みが走った。
「うッ、」
咄嗟に、息を吐き出す。胃の中のものも出てしまうかと思ったが、胃液すら出ない。舌がからからに乾いて、ほんの数滴の唾液が飛んだけど、それだけ。点々と地面に落ちるが小さすぎて痕すら残らない。
地面に膝を着いてしまいそうで、堪える。今は立っていなければならないと直感した。
「それ」は、全身を巡る血が、血管の中で震えるように暴れるような不快感だった。
「豊? どうしたの……」
心配そうな声で、胸を押さえて上体が屈みがちになった俺を覗き込もうとしたティアーの表情にも一瞬で緊張が走る。
即座に体勢を変えて、俺を背中に庇うような位置を選んで立つ。普段は人と同じ形に擬態している爪の先、その全てを鋭利な形に整えて身構える。
「よりにもよって満月の夜に銀狼と別行動……不在とか。いくらなんでも侮りすぎだろうよ」
怒りも侮蔑もない、淡々とした声が夜の森に静かに響く。
「おまえ、ヴァンパイアか? 何の用でここへ来た?」
「白々しい……てめえらはいつもそうだ。ハンターだからって一方的に狩る側に回ったつもりでいやがる。銀狼はオレ達にゃ知られたハンターだ。あんだけ目につく行動しておいて、こっちが殺られるのをただ黙って持ちぼうけするとでも思うのかよ」
相手は、森のどこかに潜んだまま姿を見せない。何らかのごまかしをしているのでなければ、声は正面の方角からきていると思う。ごく普通の人間の耳でしかない俺でもそれがわかるのだから、耳の良いティアーだったらそれだけで大体の位置取りはわかってしまいそうだ。
「飼い主のハンターが死んで野良になってからの銀狼は、ヴァンパイア狩りにゃあ勤しんでねぇって聞いてたけどな……よくある話じゃあ、そこのダムピールが新しい飼い主で、銀狼に命令してんのか。てめえを生み出したヴァンパイアに復讐するために、とかな」
「なぜ……豊がダムピールと知っている……?」
俺はヴァニッシュの飼い主なんかじゃない、あくまで彼が善意で、それも無償で俺に協力してくれているだけ。だが、それ以外の事情を全て、相手は言い当ててみせた。さしものティアーも困惑が隠せない。ダムピールには魔物のように魔力のにおいとやらがないから、そうとはわからないはずなのに……。
「ヴァンパイアにゃあダムピールをそうと嗅ぎ分ける能力はねえ。でも、てめえがダムピールだってこたぁ分かる。オレにだけはな」
そいつは、森の影……俺達から真正面にある木の影から右半身だけ、姿を見せた。首には表地が黒、裏地が赤のスカーフめいたものを巻いている。右手には黒い手袋をつけて、黒い鉄の塊がぶら下がっている。暗くて判然としないが、おそらく、銃だ。引き金に緩く指先を引っかけていて……。
「父さんと同じ血のにおいがする。半分」
半分しか見せない顔、だけど。生まれてから今までに飽きるほど見たのと近い顔だから、嫌というほどわかる……現実を、突き付けてくる。目を逸らしたくなるような現実を、拒むことさえ許されず。
呆れるほどに、自分……俺に似た顔をした、少年だった。体格はほんの少し小さい。声変わりする前のような高い音域の声質といい。十二から十四歳くらいのどこかで、ヴァンパイアとして存在が確定したのかもしれない。元はダムピールだったのか、そうでなかったのかまではわからない。それをいちいち確認していられるようなゆとりのある状況でもないから、ただただ頭が混乱していく。
「そういうことだから。父さんを殺したいなら、まずオレを殺してからにするんだな。ダムピール」
殊更に強調するような恨み節は一切なく、ただ無感情に告げる幼い声。すっと、右腕に持った小銃を俺達へ向けた。
「豊……どうする?」
「どう、って」
「情けない話だがこの状況、ティアーはどうにも動けないんだ」
ヴァンパイアっていうのは耳が良いらしいから無駄な努力なんだろうが、ティアーは小声で苦境を伝えてくる。
「魔物相手に銃なんか通用しねえと思ってんだろう? そういう種族も多いが、ワー・ウルフっつうのは受傷にゃ強くねぇ。当たり所によっちゃあ銃弾一発でも、あっという間に傷から腐りが広がって死ねる」
ぐうの音も出ない、というのはまさにこういう状況のことか。ティアーは悔しそうに歯噛みして、喉の奥から唸り声を絞り出す。無意識にやってしまっているんだろう、犬が威嚇する時に出すようなあの音だ。
「……ひとつ、教えてくれないか」
「なんだよ」
「おまえが生まれたのが……いつ、なのか」
「……どうだかな。んー……ざっくり、十四年前くらいか?」
ヴァンパイアとして生きると決めたらもう、社会の定義する月日の感覚なんてどうでもよくなって、忘れてしまった。一切の感情の乱れも見せず、そんなとぼけたことを言う。
「……たかが、それっぽっち、なんて」
こいつはどうやら、俺と父親を同じくする「弟」で。生まれた時期は俺とたった一年未満しか違わない。俺にとってはただ憎い相手で、仇でしかないあいつを「父さん」と慕っていて。俺がダムピールとしてあいつを害する前に始末するためここに現れて、あいつの為に戦おうとしていて。
「あいつと出会ってたのが、おまえの母親の方が先だったら……俺達は、こんな思いをしなくて済んだんじゃないか……」
こいつの母親と出会ったのは、俺の母親が襲われた直後で。それで生まれた息子のこいつがこんな風に育つっていうことは、両親共に関わって生活してきたってことで。
「他人の人生散々ぶっ壊しておいて、てめえだけ……家族作って、まともに生きてたなんて……そんなの許されると思ってんのかよ……」
こんなの、嘘だって……冗談だって、言ってくれよ……。
「くっだらねえ」
この時、ヴァンパイアは初めて、ほんの微か……見過ごしてしまいそうにわずか、眉を動かして感情を見せた。蔑みとも憐みともとれる表情。
「ダムピールなんかでいたって守りたいものを守れない。だったらオレはヴァンパイアでいい。元から人間なんか好きじゃねぇし、自分や同胞が誰を害したって知ったこっちゃねえ」
小さく溜息をつきつつ、ヴァンパイアは森から出て、姿を見せる。俺の言動、態度から、脅威はないと判断したのかもしれない。
月明かりを受けて分かったのは、髪の色が鮮やかな緑……その辺のありふれた葉っぱよりも鮮やかな、エメラルド・グリーン。
首に巻いていたスカートに左手の人差し指をかけて、少しだけ下に引く。首には赤黒い、一本の線のような痣が見える。意図的に、見せつけているんだろう。
「誰かに殺されたんじゃなく、自分で選んで死んだのか……? おまえみたいな、子供が?」
「ヴァンパイアになると決めたなら、精通するまでに死んでおく方が面倒が少ないからな。躊躇ってる暇はない」
愕然とする俺に、ティアーが声を潜めて囁き、教えてくれる。ヴァンパイアが見境なく人間の女を襲う、発情期。精通前にヴァンパイアになればそれは一生訪れない。あくまで子孫を残すために起こる生理現象だから、それが不可能な個体には必要ない……。
「見たところ、てめぇはもう手遅れのようだな。オレにゃあどうでもいいっちゃいいんだが、同じ父から血を分けて生まれたよしみだ。死にてぇってんなら手を貸してやろうか?」
こいつも元はダムピールだったんだし、ヴァンパイアの仲間の繋がりもあるんだろうから、言わなくたって俺の心境もお見通しってか。よりにもよってこんな奴が、この世で最も、俺の「理解者」たりえる……。
ヴァンパイアは腰の右側にホルスターを、左側に予備の弾薬を収めていたらしい。手袋を着けた左手で弾をひとつ取り出して、親指と中指で挟んで俺達へ見せる。月光を受けて銀色の光を跳ね返す。
「ヴァンパイアもダムピールも、このシルバー・ブレットで心臓を撃ち抜けばイチコロだ。ヴァンパイアにならずに一瞬で死ねる。オレも素手じゃあとても触れねぇが、念のため一発は常に所持してる。安物じゃねぇんだがオマケして、てめぇのはした有り金と交換で撃ってやってもいいぜ」
「黙って聞いていれば、好き勝手言って……豊がどう思ってようが、そんなことあたしがさせるもんか!」
正直……魅惑的な誘いだった。ずっとずっと求めてきた「救いの手」が、すぐ目の前に佇んでいるんだから。
それを、ティアーは拒絶した。体の奥底から声を張り出すように、吠えるように食って掛かる。
「はぁ? 当人以外の了解なんざ必要ねぇだろ。ワー・ウルフっつうのは知能は人並みって聞いてたが、実際は犬並みの馬鹿ってことか?」
「ふざけるな、犬は馬鹿じゃないっ……いや、今はその無礼、聞き流してやる。ともかく!」
不本意でも、いちいち訂正している暇は今はない。相手は未だ、銃口をこちらへ向けているのだから。
「豊が死にたがっているのは、自分がヴァンパイアになるのが嫌だからだろう? そうならずに生きていられるのなら、今すぐ死ぬ必要なんかない。だったらあたしは、豊を守る。少しでも死なせずに済む可能性があるのなら、絶対に諦めない!」
「ティアー、なんで……。そんな、何の得もないことを」
俺とおまえはまだ知り合って、まだほんの数か月で。俺みたいな考えの人間は嫌いだって、初めて会った時にも言ってたじゃないか。
「あの人も……何の得もないのに、損しかないのに。それでも、あたしを助けてくれたんだ。出会ってほんのわずかなあたしのことを、我が身を捧げてまで……。だからこの命は全て、あの人のために使うって決めたんだ。あの人と同じ、人間を守るために。目の前で殺されようとしているのに、その方が楽だからと見送るなんて……そんなことに使ってたまるか!」
感情の高まるあまり破れかぶれにでもなったのか、ティアーは無鉄砲に前へ飛び出した。相手は徐々にこちらへ近づいていたから、そんなに距離はなかった。ワー・ウルフの跳躍は一瞬で向こうの眼前へ辿り着き、相手へ体当たりする。
勢いのままふたりそろって後ろへ倒れたが、ヴァンパイアはやられっぱなしではなく冷静に判断し、銃口をティアーの額へ向ける。
「ティアー! 止まれっ!」
もう手遅れかもしれないと思った。祈るような気持ちでただ、叫んだ。
ティアーは鋭利な指先をヴァンパイアの心臓へ向けたところで動きを止めて、ヴァンパイアもまた、引き金にかけた指先をそれ以上動かさなかった。膠着状態だが、どうにか、間に合った……。
「もう……いいんだ。俺はもう、あいつを追わない。今は、殺してもらうのも諦める。ヴァニッシュにも……おまえにも」
彼らの元まで歩みを進める。地面の上に仰向けになって、俺を見上げる幼い目は訝しげだった。
俺はティアーの傍らでしゃがんで、指先が刺さらないよう気を付けながら、彼女の手を引っ張った。俺の意図がわからず首を傾げながらも、渋々といった体で立ち上がる。俺もその動きに合わせる。
「いくら父親が憎くたって、その子供のおまえには何の罪もない……俺が楽になりたいってためだけに、おまえを人殺しにするわけにはいかないんだよ……」
こいつのためってわけじゃなく、俺自身のためにも。知ってしまった以上はそうするしかなくなった。
何の罪もないのに、俺の母親は襲われて、その後の人生を台無しにされた。何の罪もない「弟」に自分を殺させたら、俺はあいつ……父親と同じになっちまう。それだけは絶対に嫌だったから。
「今夜、おまえに会えたからわかったんだ。本人がいいって言ってくれてたって、ヴァニッシュにだってそんなことさせちゃ駄目なんだって……助かった」
なんとなくの意地でしかないが、「ありがとう」とは言いたくなくて。だって、どっちに転ぼうがこいつはあくまで、俺を殺すためにここへ来たんだから。辛うじて、選んだのはそんな言葉だった。
「ふん……ぐちぐちと小難しい野郎だ。言っておくが、次にどっかで遭遇したとして、いくら泣いて頼んでも二度とこいつは譲らねぇからな」
左手に持ったままだった銀色の銃弾を、元の場所に備え直す。
ヴァンパイアという種族のこいつが、その銃弾を手に入れるのにどんな過程があるのだか知らないが、かなりの貴重品なのだろうと想像できる。切り札にも近いんだろうそれを、どういう気まぐれか俺に使ってやってもいいって申し出を蹴ったんだ。ちょっとだけ不満そうに、口先を曲げていた。
「俺、豊っていうんだ。長矢豊」
別に今すぐ忘れられたっていいんだが、一応、伝えておくことにした。
「……岬 結人」
魔物名はまだ調べてない、と、ぼそっと付け足す。魔物名ってなんだっけ、と考えている間にはもう、俺達に背を向ける。ずっと正面から向き合ってたから気が付かなかったけど、髪の毛は長く、後ろでひとまとめにして縛っていた。歩き出すと獣の尻尾みたいに髪の毛を揺らしながら、森の中へ消えていった。
「……は、はは……」
あいつの存在が完全にかき消えて、ダムピールのこの体が反応していた全身の不快感がなくなって。同時に俺も気が抜けて、その場に脱力して土に膝を着けていた。頬が、冷たい。情けないことに、滝のようにとどまることなく、だらだらとが流れ落ちて止められなかった。
「俺にはもう……なんにもない。生きる意味も。死ぬ理由も……」
諦めるしかないって現実を受け入れても、それに伴う絶望感をごまかすことは、出来なかった。
たとえ、辿り着く先が「死」でしかないとしても、俺にとっては目指すべき目標だったんだ。何を希望に生きればいいのかわからない中での、たったひとつの。それを失って、これから何を目的に生きればいいのか、もはや何もわからなかった。
「あいつ……結人にさえ、守りたい誰かがいるのに……俺には、誰も……っ」
「本当に……なんにも、ないの? 誰もいないの?」
ぼんやりと、夢の中でまどろむような力のない呟き。いつでも力強い、いっそうるさすぎると思う時すらあるティアーには似合わないそれに、思わず顔を上げる。ティアーは虚ろな眼差しで俺を見下ろしていた。
「本当にそうなら……あたしが生きる意味を、あなたに分けてあげる。守りたい人も。……だから……」
ティアーも膝を着いて、俺の目線の高さに合わせて改めて、見つめてくる。俺の目元に手を伸ばしてごしごしと拭ってくるが、さっき、地面に手をついて砂がまといついたそれでやるからたぶん、逆効果だ。目に直接、砂粒が入ってくるわけじゃないけど、少しだけ目が痛みを訴えてくる。
「お願い……あたしと一緒に、あの人を……『敦』を守って……っ」
もはやお互い、遠慮するような関係でもない。強引に俺の手を取って、自分の指先を組んで挟む。指の力が強すぎて痛いくらいに、必死で。何かに縋りつくように。
その夜、それからどうしたのか覚えていない。気が付けば朝で、目が覚めて。仕事を終えて帰ってきていたと思われるヴァニッシュと目が合って「……おはよう」と一言投げられて。
いつもは寝袋に入って寝るはずが、そこへ潜り込む余力すらなかったのか、小屋の隅っこで着の身着のまま倒れていたらしい。すぐ側には、狼の姿になったティアーもまだ眠っていた。俺はその体を腹に抱えるようにして眠っていたみたいだった。お互いの体が触れ合っていたと思わしきその辺りだけほのかに温かくなっている。日頃は夜明けと共に目を覚ますはずのティアーはまだ眠ったままだ
「……帰ったら、満月の夜なのにティアーは寝ていて、豊もそんな顔だった。何かあったのか」
心配するような、それでいて触れてはいけない何かを感じてもいるのだろうか。遠慮がちに、ヴァニッシュは俺の顔を指さした。触ってみると、くっついたまま固まったような砂粒でざらざらしている。水で拭ったわけでもなし、涙の痕が乾いて残ってしまったのかもしれない。
俺は、昨夜の出来事をヴァニッシュに話した。
「そういうわけだから……俺ももう、ヴァニッシュに殺してもらいたいって思うのは、いったん止めることにしたんだ……」
「……そうか」
数か月にも渡って付き合わせて、色々手間をかけさせたっていうのに、全て徒労になった。どれだけ責められたって言い返す余地は一切ないんだけど。
「……良かった」
ヴァニッシュは珍しく、ただただ嬉しそうに微笑んで、俺の頭を撫でた。