空箱の実
通院して一か月と少し、左腕のギプスがようやく外れた。これから二か月ほどリハビリしてようやく、元通りの生活に戻れる……らしいんだけど。腕を治して目的を達したらこの世から消えるつもりでいる俺だから、リハビリに向き合う態度に表れているのかもしれない。もっと真面目に取り組んでくれないかと、担当の作業療法士に叱られてしまった。
学校が終わってから病院へ直行してるから、今日のリハビリが終わるともうすっかり夕方……今は一年で最も日の長い季節だから完全に日暮れではないけれど。
我ながら強行軍だとは思うが、今日は銀曜日で学生は明日休みになるからと、俺はティアーと約束して待ち合わせしていた。
「いらっしゃいませぇ、ゆたか兄ちゃーん」
連れて来たのは伯父の家のあるアパート。いとこの唐馬好に会わせるためだった。いとこ、といっても伯父さんの内縁の妻の連れ子なので、本当の血縁ってわけじゃない。
ティアーは人間の女らしい喋り方を練習中とのことだが、身近にいるのはヴァニッシュや俺や、彼女らの住む家……出張所とかいう名前の館の管理人のじいさん。つまり男だらけなので、一向に、高校生女子に相応しい話し方が身に着かない。いや、まったく覚えてないわけじゃないのはわかるが、ついつい普段の話し方の癖が出てしまう。
というわけで、とりあえず人間の女の子と話をさせて、ちょっとでも参考になったらいいかなと思った。とはいえ、最近の俺は色々とやらかしてきていたので紹介できそうな女子がこいつしかいなかった……昔だったら幼なじみの東二葉にも頼めたけど、もう俺の事情にあいつを巻き込みたくないからな……。
「この子が、話してくれたお友達? 名前はなんていうのかな」
正確な年齢は忘れたけど、小学生の低学年らしきこのみは思いっきり首を傾けて俺達を見上げている。黒い髪を腰まで伸ばしている割に、前髪は切りすぎてしかも直線でどこか歪な印象を与える。そういう趣味なのか、いつ会っても黒い服ばかり着ている。部屋着だからか、ともすれば下着ではってくらいの薄い黒色ワンピースを着ていて他人事ながらちょっと心配になる。この歳で、こんな感じで放課後、両親のいない家で留守番してるんだもんな。
「あたしの名前はね、『海月 涙』っていうんだ!」
「……おい。それって俺も初耳なんだけど」
いやに胸を張ってそんなことを言うものだから、苦言を呈す。確かに、事情を知らないこのみに「ティアーです」なんて名乗っても不審ではあるだろうけど。
ティアーはちょいちょい俺の右肩を指でつついて、このみから少し距離を空けるよう促して背を向けてから、こっそり耳打ちする。
「人間の学校に通うためには人間の名前が必要だろう? エメラードの仲間と相談して、考えた名前なんだ!」
鼻息も荒くドヤ顔でアピールしてくる。なんだかんだで言いそびれてたけど、この様子じゃ俺にももっと早く披露して、自慢したくてたまらなかったんだろうなぁ。それは結構だけど、
「せっかく考えた名前の割にセンスがなぁ。『涙』って、人間の名前に使うような言葉じゃないぞ?」
「『ティアー』を人間の言葉に当てはめると、『涙』になるそうでな。ティアーはティアーという名前が大好きだから、それ以外の名前なんてぜーったいに嫌なんだ!」
「そういう事情なら仕方ない……かなぁ」
もし、ティアーが無事に人間の島の高校生になれたとしたら、めちゃめちゃ悪目立ちしそうな名前だよな。今と違って気に喰わない絡まれ方をしたらとりあえず殴って黙らせる、ってわけにはいかないだろうし。学ばなきゃいけないのは「女らしい話し方」だけじゃなく、そういう魔物らしさを排除した人間としての振る舞いもなんだろうな。
このみからしたら、見知らぬ女友達を連れてきて協力まで頼んでおいて、目の前でこそこそ話をしているわけだから気分を害したんじゃないだろうか。そう思って後ろを振り返ったけど、にこにこと笑ってこっちを見ている。独特で変な奴なんだけど、心は広いというか、器はでかい感じはするな。
「なみだちゃん、だね! それで、ごくごくふっつーにお喋りしてあげればいいんだよね?」
「ああ。それで、聞いてて気になる言い回しがあったら注意して矯正してもらえると助かる」
「りょうかぁーい。せっかくだからお近づきのしるしに、あたしからもお願いしたいことがあるんだぁ」
「お願い? こいつにか?」
「そぉ、ゆたか兄ちゃんじゃなく、なみだちゃんにね」
「何だ?」
「ひとくちでいいから、血を口に入れたいの。あたしにはそれで色々わかっちゃうから、お喋りするなら参考になるでしょお?」
……お子様としてはあまりにも理解不能な「お願い」に、俺もティアーも脳が一瞬受け付けず、時が止まる。お子様じゃないとしたって意味不明だけど。
「豊の身内だっていうし、この子もダムピールかヴァンパイアか?」
「そんなわけないと思うけど……もしヴァンパイアなら、俺にはそうってわかるはずだろ?」
もし、このみがダムピールだとしたら俺にもティアーにもそれと特定は出来ないだろうけど。どっちにしろ、ダムピールだったら血を要求するのはおかしい。そんな性質はないはずだから。
「そういうにおいもしないからなぁ」
魔物達はお互いの魔力を「におい」として感じることが出来て、相手がどんな種族なのかはそれで大体わかってしまうらしい。わかる、ということは、誤魔化したり隠したりするのも難しいというのと同義だ。
考えても仕方ないと諦めたのか、ティアーは自分の右の人差し指に、同じく左手人差し指の爪を強く突き刺して、ひと粒ほどの血を滲み出させる。こういう、血が出るほどの自傷を躊躇いなく行えるのが少し魔物っぽさを感じさせる。
それを見たこのみは目を閉じて、「あーん」と言いながら口を開けて舌を少し突き出してみせる。ティアーは舌の上に、血を一滴垂らしてやる。
口を閉じて、味わうようにもごもごと動かす。
「ふぅーん。本当の名前は、ティアーちゃんっていうんだねぇ」
それはさっき、このみに聞かせないよう小声で話したとはいえ、目の前で口にした情報だから。血を舐めた結果わかったんだと断言は出来なかったけれど……。
とりあえず居間のちゃぶ台の周りで座って待つよう促されて、俺とティアーはそこで待っていた。このみは人数分のカップに紅茶のティーバッグを入れて、台所で沸かしたやかんのお湯を注ぐ。
「うえぇ~、熱そう~」
熱々の液体を口に入れるのは、ティアーは苦手らしい。これまでの付き合いでそれは知っているけど、人間社会で暮らすならこれくらいは出来ないと不自然だ。贅沢言うなとたしなめて飲ませることにする。普通の人間の猫舌だったら本人の苦手を強要しようなんて思わないが、こいつは「人間になりきりたい」と言うのだから、これくらいは慣れさせてもいいんじゃないかと思う。
ティアーとこのみが世間話に興じるのを右から左に聞き流しながら、俺はテレビを眺めて時が過ぎるのを待っていた。
「ただいまぁ。……おぉ? まだ帰ってなかったんだなぁ、豊」
十八時半くらいだったか、実伯父さんが帰ってきた。俺との約束があることをこのみが話していたんだろう。知り合いとしてティアーを紹介する手間もあるし、彼の帰宅までに引き上げるつもりだったんだけど。思ったより帰ってくるのが早くてタイミングを逃してしまった。
このみの小さな頭を撫でたその手で、今度は俺の頭を軽くぽんぽんと叩いた。
伯父さんは確か四十歳を過ぎていたと思うが、実際の年齢より遥かに若く見える。穏やかで、ある意味ちょっととぼけた感じの人でもある。
人間じゃない生き物を生まされた俺の母親……伯父さんの妹。落ち着いて育児が出来るような心境じゃなかった彼女の代わりに、伯父さんが赤ん坊の頃の俺の世話の大半を担ってくれたらしい。おまけに、母の為に俺がどういうものなのか調べて。その上で俺に対しても優しく接してくれた。
内縁関係の女性と一緒に暮らすことになってからは以前ほど頼りきりってわけにはいかなくなったけど、俺が生まれてから今までで、俺を優しい目で見守ってくれた数限られた人のひとりであることは間違いなかった。
「彼女は?」
「ティアーちゃんていうんだよぉ」
「ティ……え?」
人間としての名前を教えたというのに、このみは迷わずそっちの名前を告げる。当然、伯父さんも困惑する。
「豊のお友達かい?」
「そう……だけど……」
「ふぅーむ……まぁいいかぁ。初めまして。ティアーさん」
「はっ、じめ、ましてっ!」
ティアーにとっても予想外の反応だったのだろう、慌てたように肩を跳ねさせて挨拶を返す。ぺこりと頭も下げて。
伯父さんはこういう人だ。細かいことはあんまり気にしない。気にしなさすぎて俺でもどうなんだと思うことも多々ある……。
「もうこんな時間だし、明日は休みだし。ふたり共、良かったら夕飯ご一緒にどうだい?」
「今日はママも夜勤で帰ってこないんだぁ。良かったらお泊まりもしていってよぉ」
「さすがに泊まりはな……何の準備もしてないから」
夕食だけは厚意に甘えていただくことにした。伯父さんは調理師で飲食店で働いているから、出てくるものは普通に……いや、普通以上に美味しい。食べさせてくれるというなら味わいたいものだし。何より……。
「あぁ、恵かい? 今夜ね、豊と夕食を一緒にしたくてねぇ。お友達も一緒で……ありがとう。それじゃあ」
伯父さんが俺の家に電話して、伝えている。こんな風、母親は俺が帰るのなんか心待ちにしていないから、帰らないならそれにこしたことないんだと思う。
「しかし、夜遅くに中学生ふたりだけで夜道を帰すっていうのもなんだかなぁ。本当にいいのかい? 泊まるか送るかしないで」
「大丈夫。あたし、腕には自信があり、ますので」
「腕? 腕っぷし?」
「夜道でも、豊があぶなくないように、ちゃあんと守、れ、ます、ので」
「そうですか……それなら、豊をよろしくお願いします」
普通に考えたら、女の子の方が守るなんて言い分、不自然に思うべきなんだろうけど。伯父さんはにっこり笑って、ティアーに頭を下げた。
「へへ~……まかせて!」
会ったばかりの人間の男性に信頼を向けられたのがそんなに嬉しかったのか、ティアーはただただ誇らしげに笑みを返した。ともすればそれは、今日までに俺が見た彼女の表情の中では最も、「人間の少女らしい」ように思えた。