22話‐6 卒業の証
かくして、カンナさんはやはりそこにいた。天竜として自身の封じられていた穴のふちに腰を下ろし、足をぶらぶらと所在なく揺らしながら遠く海を眺めている。エメラードの西は船着き場もある玄関口であり、その遥か先にはもうひとつの魔物の島、アクアマリン。彼女らにとって思い出と因縁深いであろう、その場所の方角。
強すぎる風がうっとおしいのは、短髪である俺よりも、セミロングでしかも額の左側に布を生やした彼女の方だろうか。風に遊ばれる髪を布を、手のひらで調整しようとするしぐさと表情は実にうっとおしげである。正気を取り戻してからというもの、おおよそ油断を見せようとしなかったカンナさんらしくはない表情 でもある。
いかにも億劫だ、という感じに立ち上がり、ワンピースについた埃を払う。その間、無気力だが殺意を込めて、瞳は俺へ向けられた。
「久しぶりね、アーチ」
「……久しぶり?」
「ああ、相変わらず、自分のことを覚えられないのね」
くすりともせず、もちろん友好などかけらほどもにおわせない無表情。わかっていたこととはいえ実際、気分が落ちてしまうな。こういう態度を取られるっていうのは。
「覚えてないけど、一応、知ってはいるよ。どうやっても思い出せそうにないから自分で調べたんだ。俺は、『小竜アーチ』なんだってね」
神話時代、ソースには「リリアンスの四竜」と呼ばれる四体の竜族が仕えていた。式竜ユイノ、その一部から生み出された支竜アース。巨竜ライムと、対照的な特性を持つ小竜アーチ。
アーチは、竜族で最も魔力が微少な、最弱の竜とされていた。しかしながら、竜族が本来持たないものを持つ唯一の竜でもあった。それは、人間と同等の知能だ。竜族というのは世界を維持するためという使命を全うさせることが最優先の存在で、「自分自身の願望を抱くこと」に思考の制限がかかる。知能が高すぎるとそんな自分の生まれに疑問を抱くかもしれないから、そちらにも一線を越えられない限界値があるらしい。
「忌まわしいリリアンスの連中の中でもあんたは殊更、うっとおしい存在だったわ」
「そりゃどーも、光栄だね」
竜族として戦う力を持たないアーチ。才知によってリリアンスを率い、勝利へ導くことは誇りだった。その能力があればこそ、アーチは仲間達と肩を並べて戦うことが出来たのだから。
同じ竜族であり、それもリリアンスの四竜と並び称される間柄でありながら、俺は豊がユイノの記憶を取り戻したようには、アーチの記憶を見ることが出来なかった。
当面の目標であるマージャとゴブリン族の件に役立つかもしれないと、前世の記憶を思い出そうと試みてもみた。この世界で最大に近い魔力を持つソースであり、その魔力の流れを確かに身の内に感じ、それを掴もうと全身全霊で意識を集中させた。しかし、果たせなかった。
前世の記憶は、魂に宿る魔力の容量に左右される。そう……「俺自身に本来宿っていた魔力が、小竜アーチのごくごくわずかな容量しかなかったなら」、前世の記憶に触れられないのも自然なことである。あの努力の数々もまったくの無駄だったと思うと切なくはあるが、それもまた真相に辿り着くまでに欠かせない過程であったと思えばなんて事はない。
とりあえず、天竜カンナとの戦いを終わらせたあかつきには、ついに全てを明らかにしてやろうと俺は決めた。彼女にだってもう、逃げ隠れさせるつもりはない。
自分の事情とは一旦の区切りをつけ、俺はカンナさんに問いかけた。
「お察しのようだけど、俺、ほんとに小竜アーチの記憶なんか持ってないんだよね。よかったら参考までに教えてもらいたいんだけど」
「何よ」
小馬鹿にするような、どっかの所長さんによく似た目でせせら笑ってみせるカンナさん。種明かしを知っていると滑稽極まりないのだが、今はこちらも知らない振りを通すことにする。
「あなたのご主人様。天空竜エアー=ロイドは空を飛ぶしか能のない、それこそ小竜アーチとお揃いの無力な神竜様だったわけだろう? その天空竜の羽……ごく一部でしかないあなたが、どうしてまた世界を滅ぼしかねないような特殊な能力を持てるんだ?」
空を切り裂いて世界を終わらせる、なんて真似が出来るのなら、天竜に任せる前に自分でそうすればよかったのに。
「出来なかったのよ。天空竜さまには。わたしという力を得るためには自らの羽を落とさなければならなかったからね。空を飛ぶしか能がないとは言うけれど、 それは確かに、神竜族のごきょうだいが持ちえない、『自由を司る』天空竜さまだけの力だった。本末転倒とわかっていても、自由を手放すなんて出来るはずがない」
自らの存在そのものを弄ばれて、自由も何もあったものではないと思うんだけど。
「それでも最後には、そのたったひとつの誇りさえ切り捨てるしかなかった。そうして残されたわたしは、天空竜さまの無念の化身。わたしはおかわいそうな天空竜さまのためにも、わたしの使命を果たさなければならないわ」
その時、彼女は笑った。つい今しがたまでみせた殺気が嘘のように、慈愛に満ちた眼差しで、遥か遠い過去を振り返るように。
「使命とは、過ぎ去った時代の忘れ形見。使命を守るのは、今は亡き、先立った同胞との絆を守ることだもの」
……ああ、そうか。目の前に立つ女性の何もかもが偽りであることを知りながら、その言葉だけは心にしんと染み入るようだった。魔物達の生活に入り込んでからというもの、ずっとずっと気にかかっていたことだったから。
「そうだとしたら、本当に、天空竜さまとやらは『おかわいそう』なのかもしれないな……」
結局のところ、いまわのきわに残した忘れ形見である天竜は、天空竜との絆ではなく自身の願望を優先したのだから。
ひとまず、語らいの時は終わりにする。こればかりはお互いに一致した気持ちだったのだろう、静かに、戦いの空気にこの場は満たされた。
カンナさんは左腕を上げ、どちらかというとやつれた感じに細い指先を、額から生えたまるい木札に持っていく。天空竜の紋章をそっとなぞり、また指先を離す。その手を追うように、木札から黒いもやめいたものが湧いて出る。
彼女が拳を握ると、黒いもやは帯状に引き締まった。先端は鋭利な角度を作り、ああ、刃なんだなと一見して理解出来る。
そんな行動を黙認している俺自身、三文芝居につきあってやっているようなものだ。そういうわけで、得物を取り出した彼女はさっそく、俺に向けて駆け出した。
動きは、遅くはない。ただしそれは「すばしっこい」というような、せいぜいが人間並みのスピードではあった。近接までに俺は魔力の出し惜しみをせず、防御壁を展開させる。
相手の攻撃を跳ね返す、反射型の防御はおそらく通じないだろう。相手の攻撃を受け流す拡散型、でさえ厳しいところではあるが、俺はなるたけ頑強になるよう魔術式を構成した。続けざま、右手に持った杖を地面に押しつけたまま後退する。
カンナさんが黒い刃を振るうと、その軌道に黒い線が走った。俺の出した、エメラルドの輝きを放つ透明な壁にもそれは達する。壁に阻まれ、一瞬の足止めにはなっただろうが、黒い線は魔術壁を貫いた。
ちょうど俺の目前、黒い線が終点すると、ぱっくりと黒い口を開けた。
この裂け目の黒いのは、異次元だという。世界そのものの影のようなもので、世界中のどこにでも在って、どこにも無い。天竜の能力のように、次元を切り裂くことさえできればこんな風に、どこにだって出現する。その中は生き物の過ごせるようには出来ていない――時の流れも、事象の変化も起こりえない、無の空間。光の進入も、うっかり入り込んだ者の脱出も許さない、真の闇。
そういった傷に対して、世界の修復力というのは捨てたものではない。そんなことを考えている間にも、ぱっくりと開いた異次元の口はじわじわと閉じていき、何事もなかったような空間に戻った。
ほう、と、感嘆と焦燥のこもった息をつく。
ソースの売りとしては、無限大の魔力で展開する防御壁がたいていの攻撃を無効化出来ることだ。しかし相手の能力との相性によっては、こんな風にそれが全く通用しない。なるほど、確かに天竜との相性が良いとは言えないな。
考えている間に、カンナさんからの第二撃が繰り出されるが、それは続けざまにというタイミングではなかった。俺が思考を巡らせ状況を整理する隙をたっぷりと設けて。彼女が俺を本気でどうこうする気がないことをまた確信させてくれるが、それとは別に、俺の油断でうっかり異次元に触れることがあれば、もちろん 俺は命を落とすだろうな。
次々と放たれる次元の裂け目を、芸のないワンパターン、後ろに飛び退いて避ける。脳裏に描いた目標地点に達したことを自覚すると、今度は横に避ける。地味な動きも重なれば相応の運動量であり、前髪から汗が散った。熱帯のエメラードではすぐに気にならなくなるのだが、今日この場所に吹き込んでくる妙に冷たい風に汗の流れが冷やされて、かえって気持ちが悪かった。
どれくらい、そんな攻防を繰り返したかといえば。この草原に着いた時には太陽は高く、青く染めていた空に、すっかり赤みがかっている。そんな時刻になっていた。
「これくらいで息が上がるなんて、だらしない」
勝ち誇る、ようなこともなく淡々と呟き、冷めた目で見下ろした。だらしない、は、否定しない。この三年間の鍛錬はあっても、こうして持久戦になれば、俺の体力は魔物達に遠く及ばなかった。
対してカンナさんは、一見ごく普通の人間の女性に見えても、その体は天竜を宿すために生まれた体だ。いくら心身共に腐っても――かなり語弊のある言い様ではあるが――竜族の力は伊達ではない。
確かに、これしきのことで、俺はすっかり満身創痍だ。まさか息を切らして、なんて程ではないけど小刻みに荒く息をつき、おそらくみじめに力つきたような目でカンナさんを見上げているのだろう。
まだ役目を終えていない式杖を支えに、どうにか両手両膝を地面につけることなく持ちこたえるしかない自分。カンナさんは俺の額に、次元の裂け目を凝縮した刃を突きつける。自らの額から生えた、天空竜の紋章を刻んだ円いオブジェからは今も黒い霧が断続的に発生し、その流れは俺を取り囲んでいた。身動きの取れない膠着状態は、得体の知れないこの霧を警戒する意味も大きい。
「言い残すことがあるなら聞いてあげましょうか?」
「ひとつ、教えてくれないか……これまでのソースがあなたと戦い、あなたを敗るか敗れるかした時には、一体どんな顔をしていたのか」
このまま終わる気などさらさらないが、純粋な好奇心から、俺はそう口にしていた。
彼女は遠くを眺めるような目をした。当然、体裁とはいえ俺から目を離すわけもない。俺の向こう側に、過去のソース達の記憶を見ているように。
「嘆いていたわ。自らの定めを。どうしてソースなんかに選ばれて、こんなところで、姿だけとはいえ女の形をしたわたしのようなものを手にかけなければならないのか。あなた達ソースは、誰も、心根が優しいのよ。だからソースみたいな貧乏くじを引かされる。宿命に嘆き、苦しみながら、わたしをはじめ戦いを重ね手を汚していく。まっとうに人間の世界で生まれたなら味わうはずもなかった苦渋に、自分の存在意義を問いかけている。どうして自分だけが、こんな力を持って生まれてしまったのだろう。何のために生きているのだろう、って」
まるで、自分自身に問いかけるように。まるで、ここではないどこか遠くの誰かに投げかけるように。少なくともその語り口は、どうにも俺へ向けられているとは思えなかった。
「こんな宿命を背負って、自信と誇りに満ちて笑っていられる、なんて。どこかの誰かさんみたいに、頭のねじのどこかしらでも外れてないとありえないわ」
どこかの誰かさん、ね。それは愛した女性を甦らせるために、笑いながら魔物の胃袋に納まったあのソースのことか。それとも……。
「だとしたら俺は、その誰かさんと同じに、どっかおかしくなってるのかもね」
こうして無駄話をしている間にも、わずかずつ蓄積されていく体力の余裕。そうした余力を全て目線に集めるようにして、俺は彼女を見上げる。
「そうね。あなた、わたしの知ってるあの人によく似ているわ」
呆れるような声。しかしそこに隠しきれない想いを含めて、彼女は小さく笑った。
なぜ、彼女のような人を殺さなければならないのか。歴代のソースが嘆き悲しんだ表情の意味を、果たしてカンナさんは理解しているのだろうか。
おそらくは自分と近しい、悲しい笑みを浮かべる人を救えない自分の、持っている力に対してあまりにもふがいないその有様を嘆いたのだろう。