22話‐5 卒業の証
その夜目覚めたのは……俺を起こしてしまわないよう配慮して、精一杯抑え目に押し開けた小屋の戸……それでも殺しきれなかった音が耳に届いたからだった。
今夜は月明かりが強い。ベルが開けていたと思われる窓から差し込む四角い光に俺は包まれている。
外にはふたり分の気配、あるいは魔力を感じる。空を切り裂く天竜の能力のあらわれか、カンナさんの魔力の印象は抜き身の刃物めいていた。対してベルの魔力は、その身に一本、ぴんとまっすぐ芯のある、何者にも折られず染められない柱のようだった。魔力を読むことに慣れると、なるほど、魔力にも個々人によって性質があるのだとよくわかる。
「あなたも、相変わらずなのね。すずめちゃん」
同属嫌悪に近い憐れみをにじませた、落ち着いた声で語りかけるカンナさんに、ふん、とわかりやすく鼻を鳴らしてベルは突き放す。
「アンタにだけは言われる筋合いないわね。三百年も馬鹿のひとつ覚えみたいに同じこと繰り返して、その不毛に赤の他人を巻き添えにして。あげく、今回はアイツの口癖真似るとか、あてつけがましいことしてくれちゃって」
ああ、あれはやっぱりそうだったんだ。頭の中だけで静かに納得すると同時、彼の手記の一節を思い出す。
かつてカンナさんと愛し合ったあの人は、カンナさんと同じく、人間の世界に心を許していなかった。他者に心を開かず、しかし人間関係に迎合するため、うわべだけの言葉を繰ることばかり手練れていき……その中で最も多用したのが「ありがとう」という言葉だった。実際の心の内がどうであろうが、ありがとう、という感謝の言葉を差し出せば、そこで場の流れは打ち止めになってしまう。そんな風に使うのなら確かに便利な言葉ではあるのかもしれない。
「あなただって、五十年前、百年前、二百年前……いつ再会してもこの場所で、同じことをしているじゃない」
それは、彼のことを忘れられないからなんじゃないの? カンナさんは問いかける。彼とはおそらく、ベルの体をヴァンパイアに変えた、五百年前のソースのことを言っているのだろう。
ある情報源から、俺はベルとカンナさんが三百年前からの交友関係にあることは察していた。というか三百年前のベルは今ほどにはひねくれてもいない、 友人となったカンナさんに弱みを――いずみさんのことを話してしまえるような、ごくごく女性的な心細い性格だったなんてにわかには信じられない。とはいえ当時を知りもしない自分よりは、当時の手記を信じるしかないのもまた道理であって。
「忘れるわけないじゃない。だからってアタシとアンタとじゃ違う。アタシが今こうしているのはいずみのためでも何でもない。ただ、アタシがこの毎日を気に入って、そうしてるだけよ。約束の日が訪れて魔力魔物共々と、アタシ自身が消えて失せるまでそれは変わらないわ」
同じことの繰り返し。時にやりきれないような諍いに巻き込まれることだってあるのに、それでもベルはこの生活を捨てないという。ソースに選ばれ、宿命を負ったソースを見捨てないという。そんなベルの真意だけは、いくら考えたって俺には理解出来そうになかった。
「それより、今回こそはアンタの思い通りにはいかないわよ。あのおチビちゃんこそ、きっと成し遂げるわ。アンタのくだらない自己満足を粉砕するのをね」
「わたしも天竜も、生かしておいて百害あって一利なし。そう言って、現にそう思っているのに、どうしてすずめちゃんはそうなのかしら……」
どうしてわたしのことなんか、助けようとするの? カンナさんの呟きが寂しく響く。
「アタシはアンタが気に入らない。アンタの思い上がりを叩き伏せることの方が、世界がどうかなるよりもアタシにとっちゃ重要なのよ。ま、この三百年、 ソースの連中もヘタレ揃いでアタシの狙いもパァだったわけだけどね……第一、世界に害しかないなんて、アタシだって同じことよ。アンタだけがそう悲壮ぶってられる話じゃないわ」
ヴァンパイアの始祖であるベルは、ヴァンパイアを生み出した魔術式の母体である。彼女を殺せば、人間社会に被害の大きいヴァンパイアという種族は根絶やしになる。てっきり、彼女を思いやるライトがその事実をベルには伏せているものかと思っていたのだが、そうではなかったのか。
「個人が生きてることで社会が迷惑被ったところで、そのためにじゃあ死んであげましょう、なんて馬鹿馬鹿しいわ。人間が生まれてくるのは世界のため? 違うでしょ、自分のためじゃない。自分自身のためだけに生きることを誰が責められるっていうの? アタシに生きていられちゃたまらないっていうなら殺しに来ればいい、黙って殺されてやるわけでもなく、返り討ちにしてやるけどね。アタシだって、アンタが本気で空を裂いて世界を終わらせるつもりっていうなら迷わず殺す。アタシが生きるのに邪魔だから」
ぐすっ、とひとつ、鼻をすする音が聞こえた。
「……すずめちゃん、ごめんね」
「だーかーらぁ、言葉はちゃんと考えた上で使いなさいって。あんなおチビにまで諭されておいてこりないやつねー」
確かに、何がごめんなんだか流れの上でよくわからなかった。
さて、これ以上の盗み聞きに必要性も感じられないし、そろそろまた眠りにつくとしよう。恥知らずな真似をしたとわかっちゃいるが、彼女達の密談で、これから起こるであろう戦いに備えて大いなる実りを得た。
完成したばかりの杖を撫で、刻まれた魔術式のひとつひとつを丹念に確認してくれる。杖を握り、式をたどる手は小さな子供のそれだ。
「ふむ。間違いなく、正確になされているようだな」
同じ意味の言葉を無意識に続けてしまうところに、彼――骨竜ボーンの几帳面さがうかがえる。
「助かったよ。細かいことさせて悪かったね」
依頼した仕事――俺が作った魔術道具に刻んだ式に、誤りがないか確認してもらうこと――その報酬は、ボーン本人たっての希望により、相当量のイチジクの実だった。立派な骨を剥き出しにした骨竜様にはカルシウムが欠かせない、なんて新手のギャグかと笑いそうだったが、どうやらそれが事実らしいのでやめておいた。
「しかし、式杖を用いるなど、あからさまに過ぎるのではないかね?」
「あからさまなくらいでちょうどいいんだよ。三百年も現実逃避してきた人の目を覚まさせるにはね」
言いながら、他人事ながら馬鹿らしくてため息が出そうだ。
「それじゃ、さっそくひと仕事行ってくるか」
「ほう、今日がその日だったか」
「ああ。彼女、昨夜帰ってこなかったからね」
武運を祈る、と一言。背中から突き出た骨の右腕をひらひらと振りながら、彼は俺を見送った。
すっかり馴染みのある強い魔力を目指して歩けば、彼女の居場所は明らかだった。
今日はいやに風が強い。熱帯のエメラードにしては珍しく、その風も少々肌に冷たく感じる。地面から巻き上げられる土埃、風に撫ぜ回される髪のうっとおしさ。戦いの場にはいささか喜ばしくないコンディションといえる。特にこれから向かう場所にとっては。
ふいに木々の群が途切れる、開けた場所。下生えの草が足首をくすぐる、草原めいて、さらにエメラードの西側が一望出来る。山道でもないのにこうした展望はエメラードでは稀少だ。
三年前、俺が初めてこの島へ足を踏み入れて、魔力を解放したのも初めての場所。何もかもが未知であり、おそろしかったあの日々から年月を重ねて、今の俺がある。
力の使い方。魔物とのやりとり。馴染んできたのは確かだが、決して慣れ、この世界に染まりきったわけではない。今でも不測の事態には動揺するし、せっかくのソースの魔力を活かすことさえ出来ないで、大切なものを手放してしまった。
……なんだか唐突に、感傷的な気分になっていた。これから起こることを考えたら、過去の後悔に気を取られているようなゆとりはないというのに。