20話‐1 天上のしずく
「おひさしぶりね」
こんなところで彼女に会うなんて思ってなかったので、反応が遅れる。
「エリス、どうしてここに?」
「ムシュフシュが言ったでしょう。十日の間、あなた達の後を追ったらアーチの命はないと」
ひぃふぅみぃ……指折り数えてみると、確かに十日が経過している。俺がムシュフシュに連れ去られ、エメラードを出たあの日から。
「十日経ったから追ってきたって、そんな安直な」
「あら、察しがつかないかしら。ムシュフシュがあえて十日と言ったのは、こちらに誘いをかけているのではないかと。本気であなたをどうかする気があるのなら、十日という期限は短すぎるわ。現に、『何かが起こるとしたらこれから』なのでしょう?」
ねぇ、と囁き、エリスは春日居先生を見やる。彼は曖昧な笑顔で頷く。俺達が寝ている間に例の話は済ませたようだ――ブルー・フェニックスの警告した、アクアマリンが火の海になるかもしれないという予言……。
「ユイノとシュゼットもこちらへ向かっているわ。アーチ、ここを退避するのなら急いだ方がいい。彼らがここへ着く頃には、おそらく手遅れだろうから」
「エリスも、これから何が起こるのかわかるのか?」
「そこのカタリナに口止めをされていなければ、教えてあげられるのだけど」
よほどのことがなければいつだって冷静でいる彼女には珍しく、エリスはうさんくさいものを見るような目で、春日居先生を責める。
「私は、梓や子供達が思ってくれているような、立派な人間ではないのだよ。無限の魔力を持つというソースに、期待せずにはいられないのさ。ふたりのフェニックスを、長き呪縛から救ってもらえないかと。彼らには色々と世話になったからね……それを、高泉君のような少年に望むのは酷だとわかっていてもなお」
春日居先生は心底から申し訳なさそうにそう言いながら、からからと乾いた笑みを浮かべるのだった。そう言われると、俺も返す言葉がない。
保護者として、頼れる大人の役割を春日居先生に押しつけていたのは、俺も同じだったから。
「それはそうと、エリスはどうやってアクアマリンへ? 船も出ていないのにさ」
「エルフ界はこちらの世界と違って、空間というものがないからね。一旦エルフ界へ戻りアクアマリンへの裂け目を作って、そこから出入りするのよ」
それでアクアマリンとエメラードの距離を無視出来るというなら、エルフ界とやらは随分と便利なものなんだな。どっかの人気マンガの不思議道具じゃあるまいし。
厄介になっているせめてものお礼ということで、家事の不得意な家人達の代わりに俺はそうした作業を引き受けている。
彼らの到来を知ったのは、朝食後、洗濯した衣類をベランダに干していた時だった。相変わらず雲に覆われ晴れ間もなければ風さえ吹かない、一言で表せば 「しけた」空の下――まだまだ遠い海上に、小さな赤い火の玉が浮かんでいる。その火の色彩が、人間の島でシュゼットが見せた不死鳥の姿を思い出させた。
「あずさー、カリンー、来たぞー」
屋内へ通じる戸を開けて呼びかけると、梓は目を輝かせて駆け上がってくる。それに続くカリンはどこか冴えない表情だ。
「おぉ~、すっげえ、あれがフェニックスかぁ!」
今は遙か彼方の火の玉に過ぎないと思うのだが、梓のこのはしゃぎようは何なんだろう。
「梓達は、ツヴァイクがフェニックスになったのは見たことないんだな」
「人間の姿だって、ブルー・フェニックスの火力に敵う相手なんてそうそういないもの」
「世界一強い炎なんだろ? 間近で見たらきれいなんだろうなぁ」
シュゼットがフェニックスになる瞬間を真下で見せつけられた俺としては、あれを二度と見たいとは思えないのだが。
「シュゼットはともかく、豊はどうやってここへ来るつもりなんだろう。まさかシュゼットと一緒ってことはないよなぁ……」
「豊って?」
「俺の友達だよ。式竜ユイノの……」
言いかけて、おとといの夜の会話を思い出し、口を閉じる。梓の魂に宿る支竜アースは、式竜ユイノの「封滅の式」に封印された。決して解けないその呪縛は、現在の梓に大きな不安要素を与えることになった。
「ユイノって、あの有名な?」
「あ、ああ。そうだよ」
訝るような目で、カリンが問いを投げてくる。梓の事情を知っているがゆえの反応なのだろう。
「ユイノかぁ……楽しみだなぁ、どんな奴なのか!」
意外なことに、梓の反応は本当に単純に、ユイノを待ち望んでいるようだった。そしてまたしてもカリンの反応は梓と正反対で――感情を殺したような、うつろな眼差しで、遠いフェニックスへ視線を向ける。
はっきり言って、アクアマリンは人間の島フェナサイト、もうひとつの魔物の島エメラードと比べたら、あまりにも小振りだった。やや高みにあるこの家から眺めても、港まで、中心にある盟主の塔まで、背後に控える孤島ユークレースまで。あらゆる場所が「ご近所さんレベル」の距離感しかない。
元よりこの島は、大地には潤いもなく、資源にも恵まれず、植物や野生生物さえ皆無だ。唯一の特産品といえば、特殊な地面から採掘する、建築に流用出来る粘土だけか。
レッド・フェニックスが不死鳥としての姿で来訪したことに、アクアマリンの住宅地ではざわめきが起こり始めていた。いくら消火を試みても決して燃え尽きることのない、鳥の形をした巨大な業火。こんなちっぽけな島は覆い尽くさんばかりの迫力なのだが、住民である魔物達のざわめきには物怖じした気配はない。
「みんな、いつかはこんな日が来るって、察していたんじゃないの? ふたりのフェニックスはこの島で生まれたんだもの。いつかはここへ帰ってくるかもしれないって」
そのことを指摘すると、カリンは心ここにあらずというように呟いた。
「カリン、フェニックスが何をしようとしているかわかるのか?」
「さぁね。ただ、あたしが知ってるのは、こういう事態にアクアマリンがどう行動するかの指針だよ。アクアマリンに住む者は同盟の一員としてそういう通達を受けるから――ソースと同じでね、フェニックスは戦時下に人間に与する可能性があるとして、いつかは闘って滅ぼすべき存在に挙げられているんだよ」
「アクアマリンの連中って、大概勝手なことを言うよなぁ……別に望んでソースやフェニックスに生まれたわけでもないのにさ」
「でも、それが彼らの――アクアマリンに暮らす魔物の使命なんだもの。生まれた意味。要は人間を作り出した源泉竜ソース=アイラが、人間の知能を高く設定しすぎたのよね。人間は、人間を監視するために作られた魔物をさらに超えるフェニックスなんか生み出しちゃって。アクアマリン…… かつてのエルトロンに暮らした人間の科学者達のように、野放しにしていたらまた大きな犠牲が出る。ある程度、人間を押さえつけておくための、最小の犠牲はいとわない。たとえそれが罪だとしても、この海域の秩序を保つことが、アクアマリンの使命なんだよ」
「楓?」
ぼそぼそと、誰に伝えるでもない一方的なつぶやきは彼女らしくない。昔なじみでありパートナーである梓はその異常に、案じるような眼差しをカリンへ向ける。その呼びかけに我を取り戻したのか、はっと息を呑むと彼女は慌てるように取り繕った。
「もちろん、敦君のことは別だよっ。あなたがソースだからってだけで、アクアマリンの好きになんかさせないんだから!」