19話‐7 拡散の式
まぁ、春日居先生のことだから、こうなることを見越して先に食事を片付けようとしたんだろうな。テーブルにつく三人の会話を、その輪から離れてひとり、使用した食器などを溜めた水で流しながら俺は聞き耳を立てる。
「あたしだけ人間の島へ帰れなんて、どうしてそんなことが言えるの? 梓っていつもそうよ、あたしの気持ちなんかちっとも考えてない!」
感情のままに、カリンは立ち上がりざまテーブルに両手を叩きつける。彼らの留守中にツヴァイクが春日居先生へ伝えたことを、梓とカリンに報告したのだ。
彼女と意思を戦わせるため、梓もすぐに立ち上がる。
「楓にどう思われたってオレは平気だ。アクアマリンに危険があるっていうなら、楓はお父さんとお母さんを連れて、人間の島へ帰るべきだ」
「いやよ。あたしは何が起こったって、梓や春日居先生と一緒がいいの。梓だってそれくらいわかってるでしょう? あなた達がここに残るのなら、あたしだって」
「それはダメだ、って、言ってるだろ」
カリンの口調からは、自分の思いを受け入れて欲しいと、すがるような表情が目に浮かぶようだった。対する梓は、あくまで毅然として彼女を拒絶する。
言葉が続かず、カリンは何も言わず、力加減なくドアを開け放し飛び出して行った。
カリンをアクアマリンに残せないというなら、せめて梓や春日居先生も一時的に人間の島へ避難すればいいのだろうと思うが、彼らはそうはしないらしい。だからカリンの思いとは平行線、お互いに妥協点など見いだせるはずもない。
梓は、ふぅとため息をついて、歩きだした。その姿を追うと、東側の壁をつたう階段を上がり、日中は洗濯物を干しているベランダへと出ていく。
「春日居先生は、どうしてアクアマリンを出ないんですか」
梓にも訊いてみたいが、とりあえずはこの場に残っている春日居先生へ疑問を投げる。
「危険だからとみんな揃って逃げ出せば、誰がこの島を守るんだい? 梓は、アクアマリン同盟に生まれ育った戦士だ。当然のように、この島に残るだろう。私はあの子の父親なのだから、そんな息子を放ってどこへ逃げられる?」
だったら、カリンにとってもこの島は第二の故郷で、梓と共にアクアマリンのために戦いたいんじゃないのだろうか。そう思う反面、カリンには安全な場所へ いてもらいたいという気持ちは痛いほどによくわかる。俺だって――他の誰よりも好きな女の子がいたら、こういう状況で一緒に戦いたいなんて思わない。自分に万が一のことがあったって、彼女には生きていてもらいたいと……そう思うに決まってるじゃないか。それが男のエゴだとしても。
春日居先生の言うとおりなら、説得など何の意味もない。というより効果がない。だから俺は、ただ自分の疑問を解消したくて階段を上る。自分の中で留まっている、もやのかかった何かを納得させるためにベランダへ向かった。
一見小綺麗にしているように見えても、この家が建てられて三百年近くになる。ベランダへの扉は耳障りな音を立て、きしむように開かれた。
今日も今日とて、アクアマリンの夜空は曇天だ。これだけ毎日曇っていて雨がそんなに降るわけじゃない、というのもかえって不思議に思えたりする。
春日居先生の家は、アクアマリンではやや高台の位置にある。ベランダに出ればアクアマリンが一望出来るが、正直くすんだ白い壁、粗末な小屋が一面に建ち並ぶ景観は寂鬱としている。
俺にとってはその程度の印象でしかないものの、梓にとってここは立派な故郷だ。星ひとつない闇の中にあるアクアマリンを、ベランダの手すりに肘をつきぼんやりと眺めている。
「オレ、間違ったことしてるわけじゃないのに……なんでこんな、悲しい気持ちになるんだろう」
梓には自覚がないのだろうか。それともわかっていて気が付かないふりをしているのか。カリンのことを何より思って、彼女を守りたいがために、今は自分からもアクアマリンからも遠ざけなければならない……けれど、それは自分の本心を偽った感情だから、悲しいんだ。頭でわかっていても、本心では彼女と離れたいわけがない。梓は彼女のことが、たったひとりの異性として好きなんだから。
「梓はさ、こんなにもカリンのことを大事に思ってるのに、どうしてそういう本音を彼女に伝えないんだ?」
どうして、なんて、本当は聞くまでもない。ちょっと前の俺がティアーに思いを伝えられなかったのと理由は大差ないと思う。
梓は顔を上げて、しばし空を眺める。こちらには背を向けているので、どんな表情をしているのかは図れない。その状態はおそらく、俺に真実を打ち明けてよいものか逡巡していたんだ――
くるり、心を固めたらしい梓がこちらを振り返る。
「だってオレ、楓のこと、楓と同じ『人間の』男として幸せにするなんて、出来やしないから」
普段、人なつこい笑みの似合う顔は、今は心細げに眉やら口やらをへの字に歪めていた。
「それだけじゃない、オレは……いつまで『男』のままでいられるのか、いつまで『オレ自身の』ままでいられるのか、……いつまでこうして生きていられるのか、それさえわからないんだ」
「どういう……こと、なんだ」
訊ねておいて何だが、これだけ聞いても理解が追いつかない。心当たりといえば、梓は人間の父とハーフ・キャットの母から生まれた、ということ。今のところは人間の特性が強いとも聞かされた。それが何か、問題を起こしているのか?
俺の理解が足りないのが悲しいのか、それとも別の要因か。梓は寂しそうに眉をしかめ、自身の、さらしを巻いてぺたんこの胸を見やり、手を当てる。その流れでさらしの結び目を解きにかかる。全てを解かず胸だけさらけ出すようにしたところで手を止めた。
思わず、息を呑んだ。梓の胸は、一目で明らかに、男の形をしていなかった。乳房、というほどふくよかなものではないが、乳輪からすぐ下に脂肪がついていて、形としてはやや三角めいた曲線を描いている。
「ハーフ・キャットってのはさ、元から女の遺伝子の方が強くって、男はほとんど生まれないんだ。魔物と人間を親にして生まれるとさ――オレの場合、生まれた時は完全に、人間の男だった。でも年月が経つにつれて、体に、お母さんの遺伝子が大きくなっていってるみたいで……ほんと、たま~に、なんだけど……オレの中にいるお母さんが、オレの体を動かしてるんじゃないか、って。頭がぼんやりして、そんな風に感じることがある」
つたなく、自信なさげに語る梓に、それは錯覚だよと言ってやりたかった。しかし、俺は梓の感覚や不安を体感してやることはできないのだし、錯覚とする根拠があるわけでもない。
「カリンはそのこと、知って……るんだよな、もちろん」
元通りに胸へさらしを巻き付けながら、梓は頷く。カリンは、梓が闘技場で戦うために体を整えるパートナーなのだから、知らないわけがない。
「だったら、彼女はおまえがそういう体だってこと、とっくに受け入れてるんだろう?」
「そうなのかもしれない。でも、それだけじゃないんだ。オレ、……」
うなだれて、梓は呼吸さえ詰めるように苦しげに、胸を押さえた。かと思ったら、ふいに安らかにひと息つくと……胸に当てた手のひらの内に、小さな光が浮かび上がる。
「それは?」
「この小さな光が、オレの持ってる魔力の全てだよ」
手のひらの上を漂う光を、梓はこちらの目の高さにかざす。それは梓の髪色にごく近い、暮れかかりの空の下に輝く麦穂の黄金色をした、儚い光。それにまといつくのはまがまがしい、血流を思わせる、無数の赤い線。
「魔物になると……いや、魔物って、そういうことが出来るのか?」
「出来ないよ。オレ、じゃなくて、支竜アースはさ。式竜ユイノの能力で魂だけ封印されたんだ。魔力って魂に宿るだろ? だからこうしてオレに生まれ変わっても、魔力は封印にがんじがらめになってて、こんな風に固定されてるんだって」
ユイノの能力って知ってるか?と問われたので、ああ、とだけ答えておく。知ってるも何も、ユイノは俺にとってはごく身近な存在だから。ここでそれを梓に説明するのははばかられた。この魂の拘束が、梓に何を背負わせているのか、俺はまだ聞いていないから。
「これってけっこう画期的な発見だったらしくてさ。オレが初めて魔力を出した時、アクアマリンじゃちょっとした騒ぎになったんだよ。『魔力が実在する』って、目に見える形で証明されたんだから」
あれは俺が魔物の世界に入り込んで、最初の朝だったか。魂というものの存在はすでに、目に見える形で明らかになっている。いずれその証明とやらにお目にかかれたりするのかなとは思っていたけど、こんな形になるなんて……。
「だけどオレは、このちっぽけな光がこわいんだ。オレは自分が人間なのか魔物なのか、はっきりとはわからない。これっぽっちの魔力を使い果たしただけで、 もしかしたら、オレは死ぬのかもしれない。そう思うと、今より小さかった頃、光がよりはっきり見える夜なんか、こわくてこわくて泣けてきて、眠れないってこともしょっちゅうだった」
……せっかく梓が打ち明けてくれているのに俺は、彼の話が先へ進むにつれて心に揺さぶりをかけられるように、動揺していった。
なんなんだろう、この感覚は。まるで、心の中で直視したくないと感じている何かをつつかれているような。それが嫌でたまらないというような、苦痛であり不安であるもの。
「こんな、自分のこれからがこわくてたまらないオレが、楓を守れると思うか? いくら楓が受け入れてくれたって、オレはいやだ。これ以上、オレのことで楓に悲しい思いをさせたくない。いっそ突き放して、オレのこと心おきなく忘れられるようにって、考えたこともあった。きっと辛いのはその時だけで、あいつにならすぐ、オレ以外のいい相手が見つかるだろうって……」
視界はかろうじて保っているが、思考はかき混ぜられるようにぐるぐると回っている。なんだこれは。これは……。
「でも、そんな意気地も勇気も、オレにはなかった。やっぱりオレには、楓に代わる誰かなんていないって、わかってるんだ。本当は――」
梓が言葉を切ったのか、それとも梓は話を続けていて、俺の意識がそれを聞くのを拒んでいるのか。どちらなのかはわからないが、俺の耳には何も入ってこない。
気を抜くと呼吸まで乱れそうで、大きく喘ごうとする喉を律するのに精一杯で。それを梓にも悟られまいとしていると酸素が不足してきて、頭の中がどんどん霞みがかっていく。
「なぁ敦。オレ、一体どうしたらいいんだろう」
どうしたらいいのかわからない、のは、俺も同じだった。
19話終了。20話に続きます。




