オノマトペ
それは、ある美術の授業でのこと。
絵の具の匂いが残る美術室では、好きな机に座った生徒たちが、それぞれ無言で画用紙に向かっていた。
その中で、白紙の画用紙を前にした二人だけが、やる気なく椅子にもたれかかる。
「だるい」
「それな」
シャーペンをくるりと指で回す。
画用紙を眺めては、また天井を見上げる二人。
「二人とも、何も描いてないじゃないですか。」
美術の先生が、呆れたように二人の机を覗き込む。
「だりぃもん」
一人は机に突っ伏したまま答える。
「描く気起きねー」
もう一人も画用紙から目を離したまま続けた。
先生は小さくため息をついた。
「何でもいいんです。好きな風景でも、物でも構いません。そこから聞こえてきそうな音を、オノマトペで表現してください。
オノマトペに正解はありません。見たまま、感じたままを描いてください。」
そう言い残し、先生は次の机へ向かっていく。
二人は顔を見合わせると、ほとんど同時にため息をついた。
「なんで美術にしたんだろ」
「歌のテスト嫌だからだろ」
「あー……そうだった」
「楽器もめんどくせぇし」
「でも音楽の奴ら、なんか楽しそうだよな」
「今思えば、あっちの方がマシだったわ」
どんよりとした空気が流れる。
二人とも机に突っ伏したまま、しばらく口を開かなかった。
「……なあ」
不意に、一人が顔を上げる。
「音なら、実物見ればよくね?」
――
「天才」
「だろ?」
廊下を歩きながら、二人は声を上げて笑う。
「あの先生もさ、俺が『校内見てもいいっすか』って聞いたら」
「『やる気出るなら、いいですよ。』」
「すごっ!そっくり!」
「まじウケる」
盛り上がる二人。
ふと、一人の足が止まる。
「ところで俺ら、どこ向かってんだ?」
もう一人が振り返る。
「一応、音楽室覗きに行こうって話だったけど」
「……俺、場所知らん」
「……俺も」
少しの沈黙のあと、二人は同時に「ははっ!」と吹き出した。
「おっかし。俺ら何してんだ?」
「あの教室抜け出すのに必死すぎな」
ゲラゲラと笑う二人。
一人の笑い声が、ふっと止まった。
「どした?」
一人は廊下の奥へ視線を向ける。
「……なんか聞こえね?」
もう一人も耳を澄ます。
「……ほんとだ」
聞こえてきた音を頼りに、二人はゆっくりと廊下を歩き始める。
一歩進むたび、その音は少しずつ大きくなっていく。
やがて一つの教室の前で、二人は同時に足を止めた。
そっと扉の小さな窓から中を覗く。
そこには、確かに”何か”があった。
同じものを、二人は見ていた。
二人は目を離せないまま、その姿を脳裏へ焼き付ける。
顔を見合わせ、小さく頷く。
何も言わず美術室へ戻ると、それぞれ白紙の画用紙へ鉛筆を走らせた。
「先生!」
二人は勢いよく画用紙を差し出した。
「見て見て!描けた!」
「お、早かったですね」
先生は微笑みながら画用紙を受け取る。
「どれどれ……」
その笑みが、止まった。
先生の視線が画用紙に釘付けになる。
「……どこで、これを見たんですか」
「校内!どこの教室か分かんなかったけど!」
「音も聞こえたんだよ!」
「もう見れるか分かんねぇし、とりあえず描こうって!」
興奮した様子で話す二人を、先生は黙って見つめる。
そしてもう一度、画用紙へ目を落とした。
「……そうですか」
二枚の画用紙を並べる。
「二人とも、音は違うんですね」
「え?」
二人は互いの画用紙を覗き込む。
「ほんとだ」
「全然違うな」
描かれている絵は同じ。
けれど、そこに書かれたオノマトペだけが違っていた。
先生はその文字を見つめる。
やがて表情をいつもの穏やかなものに戻すと、小さく笑った。
「オノマトペに正解はありません。それぞれが感じたままを表現できています。短い時間で、よく描けました。」
「だろ!」
「やっぱ実物見るのが一番だったな」
満足そうに笑う二人。
先生はそんな二人を見つめたまま、小さく呟く。
「本当に、よく描けています」
――
一年後。
「あれ。この参考作品、なんも書いてなくね?」
「ほんとだ。先生、これ絵だけですけどいいんですか?」
「ねぇ、この絵……なんか怖くない?」
先生は静かに微笑んだ。
「いいんですよ。オノマトペに正解はありませんから。」
三人はどこか納得しきれないまま、参考作品のページをめくる。
次の作品。
また、同じ絵だった。
さらにもう一枚。
やはり、同じ絵。
どの作品も、描かれているものはよく似ている。
けれど、どこにもオノマトペは書かれていなかった。
「……なんだこれ」
誰かが、小さく呟く。
最後のページまで、描かれている絵は全て同じものだった。
ファイルを閉じると、裏表紙には小さな文字が印字されていた。
『作者不明』




