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蒼銀の賢者と春を待つ人々 サブタイトル:〜世界は救えない。それでも、次の春は残せる〜  作者: お昼寝大好き
春を待つ人々

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1/1

1-1. 資料室の変人

全90話の予定です。毎日20時更新です。

よろしければお付き合いください。

誰よりも多くを知っていて、誰よりも動こうとしない。


農業ギルドの資料室にこもるその変わり者が、かつて世界に名を轟かせた伝説の賢者だと、王女アウローラはまだ知らない。そして――世界が、静かに季節を狂わせはじめていることも、まだ、誰も気づいていない。


王都から馬車で二日。


なめらかな石畳の道が、いつのまにかでこぼこの土の道に変わって、湿った緑の匂いが車の中まで流れこんできた。その匂いをかいだとき、アウローラは「ああ、王都を出たんだな」と実感した。


たどり着いたのは、蔦に半分のみこまれた、古い煉瓦の建物だった。農業ギルドの地方支部。王国じゅうの食を支えている組織の出先とは、とても思えないくらい、くたびれて見えた。入口の上には、すっかり色のあせた木の額がかかっている。そこに彫られた古い標語を、アウローラはなんとなく目で追った。


――良き春の訪れを。


農業ギルドの、古い合言葉だという。意味はよく知らない。けれど、その素朴な一行が、なぜか胸に小さくひっかかった。


案内役の支部長は、「王女殿下の視察」という言葉にすっかり舞い上がっていた。汗をふきながら、同じ説明を三回くりかえす。アウローラは微笑んでうなずきながら、内心では別のことを考えていた。


――この地方では、子供たちが病気で倒れている。


風土病と人は呼ぶ。毎年、決まった季節に、決まった土地で、子供を奪っていく。薬草さえ行きわたっていれば、重くならずにすむ病だ。なのに、その薬草が足りない。どうして足りないのか、誰もはっきり答えられない。それを、自分の目で確かめに来たのだ。書類の上の「患者数」という数字ではなく、その向こう側を。


この土地は、アウローラにとって、まるきり知らない場所ではなかった。


幼いころ、まだ「王女」という重い名に慣れる前に、高い熱を出して、生死のさかいをさまよったことがある。そのとき自分を助けてくれたのが、ここからそう遠くない地方の、無愛想な町医者だった。かつて自分を生かしてくれた土地が、いまは子供たちを死なせている。その不公平が、どうしてもアウローラを王宮の机に座らせてくれなかった。


ひと通り案内されて回ったあと、彼女は廊下のいちばん奥で足を止めた。


ひとつだけ、妙に静かな扉がある。まるで、そこだけ時間が止まっているみたいに。


「あちらは?」

「……資料室です」


支部長が、なぜか口ごもった。


「係の者はおりますが……あまり、人前に出る男ではなくて」


その歯切れの悪さが、かえってアウローラの足を、その扉へ向かわせた。


扉の奥は、紙の谷だった。天井まで届く棚。通路にまで積み上がった、紐でくくった記録の束。窓は紙にふさがれて、ほとんど光が入らない。いちばん奥の机で、小さなランプの灯りを頼りに、ひとりの男がペンを走らせていた。蒼みがかった銀の髪が、灯りを鈍くはね返している。歳は読めない。若くはないが、老けてもいない。


「視察でしたら、表の帳簿で足りますよ」


男は、こちらを見もせずに言った。


「ヴェルン! こちらは王女殿下だぞ!」


支部長が真っ青になる。


「存じています」


ヴェルンと呼ばれた男は、ペンを止めもしない。


「ですが、ここに殿下がご覧になる価値のあるものは、何もありません。古い数字が積んであるだけです」


王女として扱われない。それは、生まれて初めての経験だった。


腹は立たなかった。むしろ、不思議と背筋がのびた。この男には、「王女」という肩書きへの興味が、最初からごっそり抜け落ちているらしい。久しぶりだった。誰かに、ただの一人の人間として見られるのは。


「その古い数字を見に来たの」


アウローラは棚のあいだに一歩、踏みこんだ。


「南東部で、子供たちが病気にかかっている。薬草が足りないせいだと聞いた。でも、どうして足りないのか、誰も説明できないの」


ヴェルンが、はじめてペンを置いた。


「説明はできます。――ただ、説明したところで、薬草は生えませんよ」


「それでも、聞かせて」


男は、ちょっと目を細めた。それから、棚のほうへ顎をしゃくる。束のひとつにも手を触れないまま。


「左から三列目、上から二段目。十二年前の作付け記録です。あの地方で薬草を育てていた農家は、当時、四十一戸。――去年は、九戸」


アウローラは思わず棚を振り返った。どれがその束なのか、まるで見当もつかない。なのにヴェルンは、確かめもせずに続けた。


「同じ棚の、もう一段下。風土病の発生記録。例年なら、春の終わりに始まって、夏のはじめにおさまります。――ですが今年は、ひと月早い。芽が出るのも、虫がわくのも、水路の水が減るのも。ぜんぶ、少しずつ早いんです」


まるで、昨日自分で書いたものを読み上げるみたいに、すらすらと数字が出てくる。確かめるすべはない。けれど、確かめる気にもなれなかった。この男の言い方には、記憶をさぐる人特有のためらいが、まるでなかったからだ。まるで頭の中に、この紙の谷がもう一つ、そっくり収まっているみたいに。


この人は、知っている。たぶん、ここにいる誰よりも。なのに――。


「あなたは、知っているのね」


アウローラは言った。


「これだけ知っていて、どうして、こんなところに座っているの?」


ヴェルンは、すぐには答えなかった。ランプの芯が、ちりっ、と小さくはぜる。


「知っていることと、変えられることは別です」


やがて、彼は言った。


「私は記録係だ。数字を正しく並べて、保つ。それだけが仕事です」

「数字の向こうに、子供がいても?」


その問いに、男はほんの一瞬だけ、視線を落とした。机の隅にある、一冊の帳面の上に。ほかの束とはちがう、黒い革で丁寧に装丁された帳面だった。表紙のすみに、小さく名前が箔押ししてある――「ハイン」。それが誰の名なのか、アウローラには分からなかった。ただ、ヴェルンがすぐに目をそらしたことだけは、見逃さなかった。肩書きにも、王女にも、子供の死にも眉ひとつ動かさなかった男が、たった今、たしかに、何かから目をそらした。


そのとき、扉が乱暴に開いた。


息を切らした若い職員が、転がりこんでくる。支部長の耳に何かを早口でささやくと、支部長の顔から、みるみる血の気が引いていった。


「南東の……三つの村で」


声が震えている。


「子供の発症が、急に増えていると。ひと晩のうちに、何人も――」


アウローラは、もう走り出していた。考えるより先に体が動いた。


「すぐに馬を。薬草の在庫をぜんぶ当たって。いちばん近い町医者に話を――」

「殿下」


背中で、低い声がした。


振り返ると、ヴェルンはまだ座ったままだった。立ちもしない。あわてもしない。ただ、あの黒い革の帳面に、そっと手をのせて。


「それは、もう――遅いかもしれません」


その目は、アウローラを見ていなかった。紙にふさがれた窓の、その向こうの暮れかけた暗がりを。いや、もっとずっと遠い、何年も前の何かを見ているようだった。さっきまでの冷たい無関心は消えて、かわりに、底の知れない静かなおびえのようなものが、ちらりとよぎって、消えた。


窓の外で、いつのまにか、春の雨が降りはじめていた。


細い、けれど絶え間ない雨だった。ヴェルンはその音を、目を閉じて聞いていた。まるで、その雨音の中に、誰にも聞こえない別の音が混じってでもいるみたいに。それが何なのか、アウローラにはまだ分からなかった。


――まだ、分からなかった。


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