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本当の答え

学者は、スフィンクスから放り投げられた瓶を、壊れ物を扱うような手つきで、両手で包み込むようにして持ちました。ひび割れた手のひらに伝わるガラスの感触は、先ほどまでの乾いた砂とは対照的に、驚くほど滑らかで冷徹な温度を宿しています。かつては異国の商人が持ち込み、王侯貴族の食卓で芳醇な赤ワインが満たされていたであろうその大瓶は、今や月光そのものを液体にして閉じ込めたような、透き通った澄明な液体でなみなみと満たされています。学者がわずかに手を揺らすと、中の液体は月の光を細かく砕いたような銀色の火花を散らし、静かにたぷたぷと音を立てました。


「これこそが月の雫だ」


スフィンクスは、自らの知恵の正当性を誇示するように尊大に、しかしどこか面倒な役目を終えた後のような投げやりな調子で言いました。怪物の黄金の瞳には、夜明けを前にした特有の寂寥感と、目の前の矮小な知性体に対する微かな執着が混ざり合っています。


「だが、注意せよ。その雫はあまりに純粋であるがゆえに、ひとたび外界の汚れた空気に触れたり、無慈悲な朝の光を迎えたりすれば、たちまちのうちにただの水に変わる。さあ、どうする? 命を賭して手に入れたそれが本物か、今ここで確かめてみるがよい。疑いながら死ぬか、確信を得て消えるか、選ぶのはそなただ」


開封すれば、その瞬間に月の雫としての定義が失われ、ただのありふれた水へと成り下がる。それは、観測者が箱を開けるまでその生死が確定しないシュレディンガーの猫のように、学者の知性を試す残酷な二者択一でした。学者は、西の地平線へと急激に傾き始めた銀色の月と、手の中にある瓶を交互に見つめました。彼の脳裏には、これまで積み上げてきた膨大な学問の記録と、目の前の非現実的な現象との間で激しい火花が散っています。やがて、彼は決意を固めたように顎を引き、瓶を天高く掲げました。瓶の輪郭を、夜空に残る月の円環とぴたりと重ね合わせます。


「……あなたは、開ければ水になると言いました。私の主観が介入した瞬間に、神秘は去ると。ならば、私は開けずにその本質を問えばよい。科学の目をもって、この透明な沈黙に答えを出しましょう」


学者は震える指先で瓶を固定し、片目を細めて、精巧なレンズとなった瓶越しに月を凝視しました。瓶の中に満ちた液体が、背景にある月をどのように歪めるか、その一点に全神経を集中させます。


「もしこれがただの水であれば、光は水の屈折率に従って光学的な歪みを生じさせるはずです。月は引き伸ばされ、歪な楕円となるでしょう。だが、もしこれが純粋な月の雫、すなわち月光そのものが形を成したものならば、月光はこの液体と完全に溶け合い、干渉することなく、歪み一つなく私の瞳に届くはずです。現象が現象を透過する……それが、私の確かめ方です。私の知識が、あなたの嘘を暴くか、あるいは奇跡を証明するでしょう」


光の屈折率という、この宇宙を支配する抗いようのない物理法則。それに基づいた完璧な、かつ冷徹な論理を学者はぶつけました。彼の顔には、死の恐怖を克服した、真理の探究者特有の狂気じみた喜びが浮かんでいます。しかし、次の瞬間でした。


「ふふふ……、あーははは!」


スフィンクスは、巨大な前足で砂丘を力強く叩きながら、腹の底から地響きのような声を上げて愉快そうに笑い出しました。巻き上がった砂が、夜明け前の紺青の空に舞い上がります。


「屈折率は水とほぼ同じよな。そのような性質の液体ゆえ。……なぜ月の雫が月光と完全に溶け合うと思ったのだ? 理屈を並べるわりには、お主は月の雫の何を知っていると言うのか。全く持って、どこまでも救いようのないロマンチストよなあ、学者!」


学者は、瓶を掲げた姿勢のまま、呆然と立ち尽くしました。渾身の物理的考察も、長年かけて磨き上げた知性も、スフィンクスの「そういう性質のものだ」という、論理を前提から破壊するような一言であっけなく一蹴されてしまったのです。学者の頬を、夜明けの風が冷たく撫でていきました。


「あなたはこれを月の雫だと言った。ならば、間違いなくそうなのでしょう。私には、それを否定する術も、肯定する術も、最初から持たされてはいなかったのですね」


「……ようやく気付いたか。そう、これは月の雫である。最初にそう言ったろうに。信じぬのはお主の勝手だが、この状況でなお疑い続けるのは、残されたわずかな命と知恵の浪費というものよ。真実とは時に、証明を必要とし得ぬほど無作法に現れるものだ」


スフィンクスは、巨大な四肢で砂を蹴って立ち上がり、夜空を覆い隠すほどの羽を大きく広げました。東の地平線からは、夜の帳を強引に引き裂くようにして、金色の光がわずかに、しかし確実に白み始めています。


「さて、そろそろ夜明けだ。光が世界を塗り潰せば、その水に変じる液体はもはや神秘としての価値が無い。……だが、命を繋ぐものとしての価値は残るであろう。くれてやろう」


スフィンクスは一度だけ、瓶を抱えたまま立ち尽くす学者の姿を、慈しむような、あるいは救いがたい愚か者を馬鹿にするような、複雑な光を湛えた黄金の瞳で見つめました。その視線には、厳しい冬を越させる親鳥のような温かさが一瞬だけ宿ったように見えました。


「それだけあれば、この砂の海を越え、再び書物の山へ帰ることも叶うであろう。……達者でな、ロマンチスト。次に会う時まで、その無駄な知恵を少しは磨いておくことだ」


猛烈な羽ばたきが真空を作るかのような轟音を立て、スフィンクスの巨体は、急速に白んでいく夜明けの空へと吸い込まれるように消えていきました。後に残されたのは、太陽の気配を感じて急速に赤みを帯びていく砂漠の圧倒的な静寂と、学者の手の中に残った、ずっしりと重く、体温でわずかに温められた一瓶の液体だけでした。


学者は、地平線から顔を出した太陽の第一線が、手の中の神秘を「ただの水」へと変じさせてしまう前に、大切に、宝物でも扱うようにして瓶を抱え直しました。彼の指先にはまだ、先ほどまで瓶を持っていた怪物の、あの力強い体温の余熱が残っているような気がしました。


「……食えない奴です。最後の最後まで、私の知性をあざ笑っていくとは」


独りごちた学者の乾いた唇には、この数年で一度も浮かべたことのないような、穏やかでわずかな笑みが浮かんでいました。彼は夜空の隅で今まさに消えようとしている北極星を道標に、重い足取りながらも確かな一歩を踏み出します。手の中にあるのが、神話に語られる月の雫であろうと、あるいは怪物が同情で差し出したただの水であろうと、それがこの絶望的な夜を越え、生へと踏み出した自分への、何よりの贈り物であることに変わりはないのだから。学者はボトルをしっかりと脇に抱え、陽光に照らされ始めた黄金の砂丘を、一人歩き始めました。

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