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答えは現象

学者は、指先に伝わる冷たいガラス瓶の感触を噛み締めるように握りしめたまま、新たな思考の糸を、暗闇を縫うようにして慎重に紡ぎ出しました。比喩や、人間の主観が混じった感情的な言葉を、徹底的に冷笑し否定するこの怪物が、唯一認めざるを得ない実体とは一体何なのか。それは単なる情緒ではなく、この世界の理、すなわち光学的な必然性に基づいた答えではないかと思い至ったのです。学者は、自らの論理を補強するように深く息を吸い込み、冷たい空気が肺を通り抜けるのを感じながら口を開きました。


「……もしや月の雫とは、形ある物質的なものではなく、光と闇の相互作用によって生じる、ある種の現象を指すのではありませんか?」


学者は、青白い月光が照らし出す砂の上に、くっきりと落ちた自分自身の黒い輪郭を細い指で指差しました。その輪郭は、学者が呼吸するたびに微かに揺れ、砂漠の沈黙の中で唯一の動かぬ証拠のようにそこに在りました。


「月の雫とは、光が遮られた場所にのみ、液体のように滴り落ちる影のことだ。光があるところには、宇宙の摂理として必ず対となる影が生じる。月光という銀色の光の液が、天からこの地上に降り注ぐとき、その奔流が物体に遮られて地面に落ちた黒い一滴……。それこそが、光学的な純粋さを保った月の副産物であり、すなわち雫であると定義できます。これならば、詩的な装飾もなく、ただそこに在るという事実だけで構成されています」


スフィンクスは黄金の瞳をさらに細め、まるで獲物の骨格を透かし見るような視線を向けながら、喉の奥を低く鳴らしました。


「ほう、続けよ。理屈をこね回す者の視点としては、面白い」


学者はその反応にわずかな希望を見出し、冷え切った体に勇気を奮い立たせると、堰を切ったように言葉を重ねていきます。


「影には質量もなく、手に取って売買するような物質的な価値もありません。しかし、天に月という光源が存在し続けている以上、その光を遮るものがあれば、影は絶対にそこに在るものです。消し去ることのできない、光の対照としての実在。それが私の導き出した答えです」


「絶対にそこに在るもの、か。そなたの言う理屈が事実であれば、それは重畳であるな」


スフィンクスが地を這うような低い声で呟いた、直後でした。それまで学者の風よけとなっていた巨大な翼が、暗雲が割れるような音を立ててばさりと広げられました。凄まじい風圧が学者を襲い、顔を覆う間もなく砂の礫が肌を打ちます。守護者の巨体が、重力をあざ笑うかのようにふわりと宙に浮き、力強い羽ばたきと共にぐんぐんと高度を上げていきました。


途端に、それまでスフィンクスの体躯によって遮られていた凍てつく夜風が、堰を切ったように容赦なく学者へ吹き込みました。学者は剥き出しの荒野に放り出されたような衝撃に襲われ、歯の根も合わないほど激しく身震いしました。


学者は、砂丘の上に落ちていたスフィンクスの巨大な影を、ただ呆然と眺めていました。スフィンクスが天高く舞い上がり、月へと近づいていくに従い、地上に落ちていた漆黒の輪郭は見る間にぼやけ、薄れていき……やがて月光の海に溶けるようにして、完全に消失してしまったのです。光を遮るものが遠ざかれば、影という「雫」は形を失う。その冷酷な現実を、学者はまざまざと見せつけられました。


数秒の後、再び頭上から空気を切り裂くような重い羽ばたきの音が聞こえ、月を覆う濃い闇が学者の上にゆっくりと降りてきました。


ドスン、と砂丘全体が震えるほどの重厚な音を立てて着地したスフィンクスは、その人面の頬を歪め、意地の悪い笑みを浮かべて学者を覗き込みました。黄金の瞳には、勝利を確信した残酷な輝きが宿っています。


「おやおや、どうしたことだ。絶対にそこに在るはずの影が、我が羽ばたき一つで消え去ってしまったぞ? 見上げよ、月はまだ、あんなに高く冷酷ににあるというのになあ。そなたの言う実在とは、その程度の脆弱なものだったのか」


スフィンクスは学者の鼻先までその巨大な顔を寄せ、怪物の内臓で熱せられた温かな、しかし死の予感を孕んだ残酷な息吹を吹きかけました。その獣特有の匂いが学者の鼻を突き、彼を現実に引き戻します。


「残念であったな、学者。物理現象とやらは、我が気まぐれな羽ばたき一つで無に帰した。理屈は現実の前に脆いものよ。……さあ、命が惜しくば、朝が来て我が腹が鳴る前に、別の答えを用意せよ」


肌を刺すような凍える夜の空気と、スフィンクスが放つ意地の悪い熱情が混ざり合う中、学者は言葉を失い、再び底の見えない絶望的な思考の海へと叩き落とされました。


学者は、白くなった唇を強く噛み締めながら、しばしの間沈黙を守っていました。比喩に逃げないこと。個人の感情を介在させないこと。そして、たとえスフィンクスがどれほど高く羽ばたこうとも、決して消すことのできない、質量を持った「実体」であること。彼は自らの記憶の奥底、学問の殿堂で学んだ万象の知識を必死に手繰り寄せました。


「……月隕石です」


絞り出すような、しかしかすかに震える学者の声に、スフィンクスがわずかに耳をそばだてました。


「月という天体に、かつて悠久の時の中で別の天体が衝突しました。その凄まじい衝撃によって宇宙へと弾き飛ばされた月の肉体の一部が、永い宇宙の旅を経て、引力に導かれこの砂漠に滴り落ちたのです。それは月そのものの欠片であり、真の実体でもある。それこそが、確かな質量を持ち、神々が去っても永劫に消えぬ月の雫です」


スフィンクスは一瞬、夜の風が止まったかのような沈黙を保った後、巨大な肩を揺らして、喉を鳴らしながら苦笑しました。


「おお、正解だ。学問を志す者が辿り着くべき、物理的かつ論理的な、これ以上の正解はあるまい。素晴らしいぞ、学者。そなたの脳には、確かに価値のある知恵が詰まっているようだ」


しかし、スフィンクスは賞賛の言葉とは裏腹に、鋭く研ぎ澄まされた爪で砂の上に転がるガラス瓶を、カツンと乾いた音を立てて叩きました。


「だが、忘れたか? 我はこれに持って来いと言うたのだ。確かに、この不毛な砂漠は、天より落ちた隕石を探し出すには誂え向きの場所よ。邪魔な植物も、遮る建物もない。だが……それが一つ見つかるまで、水も食糧もなく、そなたがこの過酷な砂漠で生きておればよいなあ」


学者は絶句しました。あまりにも正論であり、同時にあまりにも絶望的な指摘でした。キャラバンから逸れ、愛用のラクダもいない自分に、広大な砂の海からわずか数センチの黒い石を見つけ出すまで、命を繋ぎ止める術などあるはずがないのです。


「……ならば、答えは無です」


学者は、自らの無力さを悟ったように、震える両手を空っぽのまま、スフィンクスの前に差し出しました。その手のひらには、すくい上げるべき雫も、掴み取るべき奇跡もありませんでした。


「あなたの敷いた論理の檻において、現実に手に入る月の雫などこの世には存在しない。存在しないものを持って来いと言うのは、知恵比べではない。ただの悪意ある嘘だ。ならば、この何も持たない手、この空虚こそが、あなたの矛盾した問いに対する唯一の誠実な回答です。私を食らうがいい」


返ってきたのは、夜の闇を震わせ、砂丘を波立たせるような、深く長いため息でした。それは学者の予想していた激昂ではなく、どこか親が幼子を諭すような響きを持っていました。


「やれやれ……。知恵ある者というのは、どうしてこうも、目の前にある真実を見ようとせず、難しく考えたがるのか。真理は常に、そなたらが考えるよりもずっと無作法で、生々しいものだというのに」


スフィンクスは呆れたように大きな頭を振り、砂に半ば埋まって月光を浴びていた小さな小瓶を、器用に拾い上げました。そして、学者が驚愕して目を見開く中、その瓶を自らの獣のような口元に寄せ、何かを注ぎ込むような仕草を見せました。そして、その瓶を震える学者の手元へと、放り投げたのです。


「……受け取れ。知恵に溺れた愚か者め」


学者が慌てて両手で受け止めた瓶の中には、月光を複雑に反射して、たぷたぷと重々しく揺れる透明な液体が満たされていました。それは学者の手の熱を奪うほどに冷たく、しかし確かにそこに存在する「救い」の重みを持っていました。

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