月の雫を持ってこい
視界のすべてを奪った砂嵐が去った後、後に残されたのは静寂と、凍てつくような砂漠の夜でした。数時間前まで世界を覆い尽くしていた激しい風の唸りは嘘のように消え去り、代わりに耳の奥が痛くなるほどの無音が辺りを支配しています。夜空は研ぎ澄まされた黒水晶のように澄み渡り、そこから降り注ぐ月光は、暖かさを持たない冷厳な光となって砂の波を青白く照らしていました。
学者は力なく砂丘に腰を下ろしました。膝の力が抜け、崩れ落ちるようにしてついた手は、氷のように冷え切った砂の感触にわずかに震えます。使い古したローブの裾は無残に裂け、その隙間から入り込んだ細かな砂が肌を苛んでいましたが、彼にはそれを払う気力さえ残っていませんでした。愛用のラクダも、知識を詰め込んだキャラバンの仲間たちも、今は砂の海の向こう側です。彼は暗闇の先を凝視しましたが、そこにはただ永遠に続くような起伏があるだけで、かつて共に笑い、議論を交わした者たちの気配は微塵も感じられません。
夜露を凌ぐ術もなく、じわじわと体温を奪っていく夜気に、学者は静かな死を予感しました。肺に吸い込む空気は刃のように鋭く、吐き出す息は白く濁ってすぐに闇へ溶けていきます。彼は自身の指先が感覚を失っていくのを自覚しながら、これが孤独な終焉であると確信し、ゆっくりと瞼を閉じました。
その時でした。
頭上の月を遮るほどの巨大な影が、音もなく空から舞い降りました。突然の異変に、学者が驚愕して目を見開くと、そこには月を背にした巨大な輪郭が浮かび上がっていました。凄まじい風圧と共に砂が舞い、視界が一度遮られます。砂が再び落ち着いた時、目の前に現れたのは、人面獣身の巨体――スフィンクスでした。その皮膚は古の石像のように滑らかでありながら、脈打つ生命の力強さを秘めています。人間の顔をしたその怪物は、月光を反射する黄金の瞳で、ちっぽけな存在に過ぎない学者をじっと射すくめていました。
「こんなところに迷い人とは、珍しい。この様子では朝まで保ちそうもないなあ。そなたが死したら、その痩せた体、我が喰らってやろう」
それは恐ろしい宣告でした。怪物の声は砂漠の地鳴りのように低く、鼓膜を震わせます。しかし、絶望の淵にいた学者は、ふと奇妙な感覚に気づきました。スフィンクスがその巨体で風上に居座ったおかげで、先ほどまで彼を苛んでいた吹き付ける寒風が、ぴたりと止んでいるのです。さらに、巨大な獣が発する力強い体温が、凍えきった学者の肌を柔らかく包み込んでいました。まるで焚き火の傍にいるかのような、生命の熱です。学者はその巨大な前足が作るわずかな空間に、思いがけない安息を見出していました。
スフィンクスは鋭い爪を砂に食い込ませ、学者を見下ろしました。その爪が砂を掻くたびに、乾いた音が夜の静寂に響きます。怪物は長い尻尾をゆっくりと揺らし、退屈を紛らわせるような仕草を見せました。
「手持ち無沙汰だ。迷い人よ、そなたが死すまで我が謎かけに挑むがよい。退屈を紛らわすことができれば、最期に苦しまぬよう一息に食うてやろう」
学者は震える唇で「よかろう」と答えました。死を目前にした恐怖よりも、知への探究心がわずかに勝ったのか、彼の声には奇妙な落ち着きがありました。
「では問う。朝は四本足、昼は二本足、夜は三本足……この者の名は?」
それはあまりにも有名な問いでした。この砂漠に住まう守護者が出す謎として、あまりに古典的で、あまりに容易なものです。学者は一息つくと、白濁した息を吐き出しながら、静かに答えました。
「それは、人間です。赤子の時は這い、成して直立し、老いて杖を突きます」
その回答を聞いたスフィンクスは、満足げに喉を鳴らしました。喉の奥でクククと低く笑ったその振動が、座り込んでいる砂を伝い、学者の体へ心地よい熱として伝わります。それは冷え切った内臓を温めるような、不思議な律動でした。
「フン、このような問い、きょうび子供ですら知っておろう。我が退屈を凌ぐには、少々物足りぬ答えよ。……だが、本番はここからじゃ。知恵を誇る人間よ、真の謎を味わうがよい」
スフィンクスが大きな翼をばさりと動かしました。その羽ばたきは重厚な風を呼び起こし、周囲の風景を一変させます。すると、二人の足元の砂が生き物のようにうねり、流砂となって渦を巻きました。砂粒同士が擦れ合う音が囁き声のように響き、砂の底から押し上げられるようにして現れたのは、古びた、しかし美しい数本のガラスボトルでした。月光を透かし、青白く、あるいは深緑に輝くその器は、まるで星の破片から作られたかのように神秘的な光を放っています。
「その器に、月の雫を持って来い」
スフィンクスの双眸が、月よりも鋭く光ります。その瞳に宿る知性は、単なる捕食者のそれではなく、世界の理を知り尽くした者の深淵を湛えていました。
「砂漠の真ん中、店もなければ水もない。比喩も、詩的な感傷も、実体のない影もいらぬ。我が納得する『実在』を持ってくるのだ。できねば、朝を待たずしてその喉笛を食い破るのみ」
学者は、足元に転がった空のボトルを拾い上げました。指先に触れる冷たく乾いたガラスの感触は、今さっき砂の底から現れたばかりだというのに、どこか懐かしい重みを持っています。彼はボトルを掲げ、天上に座す無慈悲なまでに美しい満月を仰ぎ見ました。白銀の光がボトルの中で複雑に屈折し、虚無を照らし出します。
学者の、命を賭した長い長い知恵比べが幕を開けました。彼が握りしめるのは一輪のガラス瓶と、己の知識のみです。それが、夜明けまで己の意識を繋ぎ止めるための、人面獣の奇妙な施しであるとも知らずに。スフィンクスの静かな呼吸が学者の背中を温め続け、夜はまだ、その闇を深めていくのでした。




