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軍艦モノ

IF:歴史動く。護衛駆逐艦“松”型

作者: 仲村千夏

 春の終わりを告げる海風が、霞ヶ関の海軍省庁舎を撫でていた。

 白い制服に金線のきらめく軍帽が並び、正午の陽を受けて輝く。

 会議室の中、海軍の高級将校たちは整然と着席していた。

 机上には新造艦の計画書、艦隊演習の報告、技術部からの新型砲塔案――。

 いずれも“強い艦隊”を語る紙片ばかりであった。


 海軍大臣・山城大将は、静かにそれらを見渡した。

 五十を過ぎた厳めしい顔に、いつになく険しい皺が寄る。

 机上の書類を一枚、指先で叩いた。

「……これが、諸君の考える“戦争を継続する力”か」


 参謀たちは目を見合わせた。

 誰かが言う。「はっ。強力なる艦隊戦力こそ、帝国海軍の命脈にございます」

 続けて別の者が、「将兵の錬度と精神力もまた、勝敗を左右いたします」と声を上げた。

 その後に続くのは、謀略・情報・航空技術――。

 いずれも聞き慣れた言葉ばかり。

 だが、“補給”も“資源”も、誰一人として口にしなかった。


 山城は長い沈黙ののち、立ち上がった。

 拳が机を打つ音が、部屋に響いた。

「――諸君。貴様らは、未だ戦の根を見ておらぬ!」


 重々しい声が空気を裂いた。

「いかに艦が強くとも、弾なき砲はただの鉄塊。油なき機関は動かぬ屍だ。

 海を制するとは、物を運ぶ力を制すること――それを忘れたか!」


 誰も返す言葉がなかった。

 山城は椅子を離れ、窓辺に立った。

 東京湾の遠く、軍艦の煙が水平線の霞に溶けていく。

 その光景を見つめながら、低く呟いた。

「このままでは、我が艦隊は海に沈む前に、腹を空かせて死ぬ。

 今こそ、海上輸送線を守る艦を造る。戦を支える根を整えるのだ」


 その言葉は、沈黙していた参謀たちの胸に重く落ちた。

 その日を境に、海軍の歴史は静かに軌道を変え始める。

 ――それが、後に「補給の改革」と呼ばれる大命となることを、

 まだ誰も知らなかった。


 命令は、その週のうちに発せられた。

 名は「戦時輸送護衛および航路整備要綱」。

 海軍省の通達文としては異例の速さだった。

 山城大臣の署名は力強く、その筆跡は、命令というよりも宣言に近かった。


 だが、軍令部は動揺した。

「護衛艦の建造を最優先に?」

「艦隊戦の準備が遅れる!」

 参謀たちは口々に反発した。

 従来の主力艦建造計画――大和、翔鶴、そして新型駆逐艦群。

 そのいずれも、国家の威信を背負っていた。

 それを削ってまで“商船の護衛”に資源を割けというのか。


 海軍省技術部では、若い設計官たちがざわめいていた。

 その中に、ひとりの中佐がいた。

 技術中佐・高瀬義彦。三十代半ば、機関科出身。

 彼は資料を机に広げ、鉛筆を走らせていた。


「単軸、二缶、出力一万九千馬力……速力は二十七ノットでよかろう」

「艦隊には追いつけんぞ」

 同僚が呆れ顔で言った。

 高瀬は笑った。「構わん。追いつかなくていい。これは、戦場に行く艦じゃない。帰ってくるための艦だ」


 彼の机の上には、簡素な駆逐艦の線図。

 艦首には一基の高角砲、後甲板に爆雷軌条。

 中央に短い煙突、そして一軸のスクリュー。

 その姿は、従来の華美な艦とは正反対だった。


 上官がやってきて図面を覗き込む。

「ずいぶん地味な艦だな」

「はい。地味で、安く、数を揃えられる艦です」

 高瀬の声には一片の迷いもなかった。


 山城大臣はその報告を受けると、ただ一言こう言った。

「この艦に“まつ”と名を与えよ。

  松は風雪に耐え、根を張る木だ。

  海を支える艦に、その名がふさわしい」


 それが後に、“護衛駆逐艦”という新たな概念の出発点となる。

 そして、海軍内部で長く燻っていた論争――

「艦隊か、補給か」――が、ついに火を噴こうとしていた。


 翌年、昭和十五年の春。

 横須賀工廠の一隅に、異様な光景があった。

 艦隊派の参謀たちが眉をひそめる中、ひときわ小さな艦が静かに建造台に据えられていた。

 船体長わずか百メートル。細身で、艦首はやや丸みを帯びている。

 飾り気は一切なく、だがその艦は用途を示す確かな実用性を漂わせていた。


「これが“駆逐艦”だと?」

 軍令部次長・鶴見中将の声が冷たく響く。

「敵艦隊と交戦すれば、一撃で沈むぞ」


 高瀬義彦中佐は一歩も退かず、図面を広げた。

「そのための艦ではありません。これは輸送船を守るための艦です。

  戦場で一隻沈むより、船団を十隻生かす方が価値がある」


「戦とは、敵を倒すものだ!」という怒声に、高瀬は静かに返した。

「いいえ。今や、負けぬことも戦です」


 会議室の空気が張りつめた。

 技術士官の誰かが小声で「……補給の艦隊」と呟いた。

 その言葉が、部屋の隅に落ち、誰の胸にも火のように残った。


「松」はやがて形を現した。艦上は実戦的な配置に徹していた。

 主砲は89式12.7センチの連装砲を後部に配し、艦首に単装の12.7センチ砲を一基備える構成で、対空兼用の実用性を重視していた。

 対空火器として25mm機銃を多数搭載(初期配備は三連装・単装の組合せで計数が揃えられた)。

 魚雷兵装は艦中央部に回転式の四連装61cm発射管を一基置き、対潜用として爆雷を十分に積載した――まさに「護衛」を主眼に置いた装備であった。


 簡素な構造は工員たちにも好評で、作業時間は従来の半分で済んだ。装備は余剰部品を転用して組み上げられ、現場の職工たちは奇妙な愛着をこめてその艦を「根っこ」と呼んだ。


 進水式の日。まだ薄曇りの朝の港に、山城大臣の姿があった。

「――この艦が沈まぬ限り、我らの輸送線も沈まぬ」

 その言葉を聞いた工員たちは、黙って帽を脱いだ。

 白い船体が海へ滑り出る。波紋は小さいが、確かな力で広がっていった。


 だが、艦隊派の抵抗は続いた。予算の削減、優先順位の見直し要求、資材配分の後退――。

 まるで、海そのものが新しい流れを拒んでいるようだった。

 それでも高瀬は諦めなかった。

「松は一本で立つ木ではない。林にしてこそ風を防ぐ」

 彼はその言葉を胸に、次の十隻の設計に取りかかった。


 そして昭和十六年。真珠湾攻撃の報が届くころ、海の底ではすでに別の戦いが始まっていた。

 ――輸送線を守るための、もう一つの戦争である。


 昭和二十年初頭、太平洋の冬はまだ冷たく、南方航路を往く船団を松型駆逐艦群が護衛していた。

 戦況は依然として厳しい。アメリカ艦隊の圧倒的な航空戦力と潜水艦が、南方資源線を脅かす。

 しかし、護衛駆逐艦群が編隊を組む航路では、史実よりもはるかに多くの船舶が無事に港に到着していた。


 旗艦「松」は、かつて高瀬中佐が胸に刻んだ言葉通り、根のように海上輸送線を支え続けた。

 艦隊派からは「華やかさも速度もない」と嘲笑された小型駆逐艦たちも、今や船団の命綱となっていた。

 昼夜を問わず雷撃警戒、対潜哨戒、機銃掃射。

 爆雷が水柱を上げるたび、乗員たちは身を固くしながらも、任務を全うした。


 輸送線を守ることで、国内にはまだ燃料と物資が届き、戦局の崩壊は幾分か遅れた。

 補給の遅延による混乱も最小限に抑えられ、戦争指導部は史実よりも秩序ある意思決定を下すことができた。


 だが、それでも勝利は手に入らない。圧倒的な連合国の物量と兵力には抗えない。

 日本はやがて、都市と港湾を失い、航空基地は次々に攻撃される。

 しかし、敗戦の時期は1年から1年半遅れ、混乱も少なく、輸送船団や艦隊は可能な限り整然と撤退した。


「松」は最後の航海で、沈むことなく停泊港に戻った。

 高瀬中佐はもう艦上にはいなかったが、その意志は艦と乗員に生きていた。

 海上で育まれた秩序と守る力は、最後まで松型護衛駆逐艦群の名にふさわしい仕事を果たした。


 かつて海軍大臣が怒りに任せて発した命令は、

 戦局そのものは変えられなかったとしても、海の上に秩序と命を守る林を生み出していた。

 そしてその林は、歴史の海に小さな光を灯すこととなった。

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