諍い
長い、長い夜がはじまろうとしていた。
村のはずれでは、男たちが焚き火を囲み、眠い目をこすりながら闇を見つめている。だが、その警戒の輪から離れた家々では、ほとんどの者が浅い眠りの中にいた。
朔もまた、眠れずにいた。母タエの寝息が隣から聞こえる。その穏やかな呼吸だけが、この息詰まるような夜の中で唯一の救いだった。彼は目を閉じ、己に課した掟を呪文のように繰り返す。
「見られるな、知られるな、目立つな」。
この世界で生き抜くための、ただ一つの生存戦略。
だが、その掟は今、彼の喉元に突きつけられた刃のように、彼の行動を縛りつけていた。
その時だった。
朔の耳が、微かな音を拾った。
風の音ではない。獣の立てる音でもない。
それは、夜の静寂が奏でる自然の音律から、ほんのわずかに逸脱した不協和音だった。
朽木玄斎との鍛錬が始まってから、朔の五感は以前とは比べ物にならぬほど研ぎ澄まされていた。玄斎が教えるのは、剣の振り方だけではない。
気の流れ、風の匂い、闇の濃淡。五感の全てを使って世界を「読む」術だった。
(……違う)
朔は身じろぎもせず、耳を澄ます。聞こえるのは、複数の足音。それも、忍び歩きをしようとして、かえって不自然になった足運び。
時折、小石を蹴る乾いた音。そして、村の共有の蔵がある方角から、硬いものが石か土壁をそっと擦るような、微かな音。
沢西村の者たちだ。
血が急速に冷えていくのを感じた。
心臓が嫌な音を立てて脈打つ。見張りは気づいていない。このままでは、蔵が破られる。
種籾を奪われれば、水江村の明日はない。
知らせなければ。
だが、どうやって?大声を出せば、自分が最初に狙われる。
掟が脳裏で警鐘を乱打する。「目立つな」。下手に動けば、妖術使いの噂に新たな薪をくべるだけだ。母の悲痛な顔が浮かぶ。「お願いだから、もう何もしないでおくれ」。
あの涙を、もう二度と見たくはなかった。
(どうする……どうすればいい)
前世の記憶が、洪水のように思考をかき乱す。
国際協力機構(JICA)の隊員だった田中健司の記憶。
コミュニティ開発の専門家。住民の安全を守り、地域の危機を管理するのが仕事だった。
目の前で起きている危機から目を背けることは、彼の魂が許さなかった。
だが、今の自分は十歳の百姓、朔だ。無力で、村の和を乱す「毒」として断罪されたばかりの童だ。
葛藤が、彼の体を金縛りにあったように動けなくさせた。
だが、その時間は長くは続かなかった。
蔵の方角から、今度は明らかに木材が軋む音が聞こえたのだ。
閂をこじ開けようとしている。
もはや猶予はない。
朔は、音を立てぬよう慎重に寝床から抜け出した。
母を起こさぬよう、猫のような足取りで土間へ下りる。
戸の隙間から外を窺うと、月光に照らされた広場を、数人の人影が蔵へと向かっていくのが見えた。
村の入り口近くに建てられた、粗末な物見櫓。
そこに吊るされている半鐘。あれを鳴らせば、村中の者が起きる。
だが、それは同時に、自分が騒ぎの中心にいることを、村中に知らしめる行為でもあった。
(やれ。やるんだ)
心の内で、田中健司が命じた。
(ここで何もしなければ、お前は一生後悔する。守るべきものを定め、そのために非情な選択も厭わない。それがお前の掟ではなかったのか)
朔は唇を噛みしめ、闇に身を躍らせた。
湿った土が、裸足の裏にひやりと冷たい。
彼は息を殺し、家々の壁際に身を潜めながら、物見櫓へと疾走した。
櫓の下にたどり着き、梯子に手をかける。幸い、見張りはいない。
彼は手早く梯子を駆け上った。目の前に、鈍い光を放つ半鐘がぶら下がっている。
その横には、鐘を打つための木槌が縄で結わえられていた。
縄に手をかけた瞬間、再び母の泣き顔が脳裏をよぎった。
恐怖で指が震える。だが、彼はその恐怖を、奥歯を噛みしめて捻じ伏せた。
鐘を鳴らせば、平穏は終わる。だが、鳴らさなければ、明日が来ない。
朔は、ありったけの力を込めて、縄を引いた。
カーン!
甲高く、乾いた音が夜気を引き裂いた。一度。
カーン!カーン!
二度、三度。村の静寂を叩き壊すように、半鐘が狂ったように鳴り響いた。
それは、水江村の短い平和の終わりを告げる、弔いの鐘のようでもあった。
◇◇◇◇
半鐘の音は、眠れる村を叩き起こすには十分すぎた。
「敵襲だ!」「沢西の奴らだ!」
怒号と悲鳴が入り混じり、家々から松明を持った男たちが飛び出してくる。
その手にあるのは、鍬や鎌、あるいはただの棒きれ。
武装とは名ばかりの、生活の道具だった。弥平もその一人で、鍬を槍のように構え、血走った目で蔵の方角を睨みつけていた。
蔵の前では、すでに乱闘が始まっていた。
「どけえ!蔵の種籾をよこせ!」
「お前らの村から虫が来たんだ!お前らのせいで、うちらの田は全滅だ!」
十数人の沢西村の者たちが、こじ開けた蔵の戸口に殺到しようとし、それを弥平たち数人が必死に食い止めている。
「何を言うか!」
「盗人どもめ!」
水江村の者たちも応戦するが、多勢に無勢。飢えに駆られた者たちの勢いは凄まじい。
「もう娘も売った!これ以上、何を失えというんだ!」
自暴自棄の叫びが、夜の闇に響く。水江村の者たちはじりじりと後退させられていた。
それは、戦と呼ぶにはあまりに拙く、無様で、そして悲しい光景だった。
農具がぶつかり合う鈍い音、苦痛のうめき声、互いを罵り合う怒声。誰もが恐怖と焦燥に駆られ、ただがむしゃらに腕を振り回しているだけだった。
その混沌のただ中を、まるで川の流れに逆らわぬ枯れ葉のように、すっと進み出る人影が一つあった。朽木玄斎だった。
彼の眼は、雑兵には目もくれず、ただ一点、鍬を振り回し、村人たちを叱咤している男――沢西村の名主、源吾だけを見据えていた。
源吾が水江村の男に鍬を振り下ろそうとした、その瞬間。彼の視界の端に、玄斎の姿が滑り込んだ。
源吾が反応するより早く、玄斎は鞘に収まったままの刀の柄頭を、吸い込まれるように源吾の鳩尾へとめり込ませていた。
「ぐっ……!」
息もできずに崩れ落ちる源吾。
そのただならぬ気配に、双方の村人たちの動きが、一瞬、止まった。
玄斎は、倒れた源吾の胸に鞘の先を突きつけ、冷たく言い放った。その声は静かだったが、夜の広場の隅々にまで染み渡った。
「そこまでだ。これ以上事を構えれば、伊丹様の耳にも届こう。そうなれば、理非を問わず双方成敗――『喧嘩両成敗』となる。お前たち、己の村を潰したいか」
その一言は、飢えと興奮で血走っていた両者の目を、一瞬で覚まさせた。領主の裁き。
それは、飢えよりも恐ろしい、絶対的な死の宣告だった。
恐怖が憎しみを上回り、誰もが凍りついたように動けなくなる。
沢西村の者たちは、指導者を失い、戦意を完全に喪失していた。
誰かが「……戻るぞ」と呟くと、それを合図に、彼らは我先にと踵を返し、闇の中へと逃げ去っていった。
後に残されたのは、地に呻く双方の負傷者と、呆然と立ち尽くす水江村の者たち。
そして、まるで何もなかったかのように、懐から瓢箪を取り出して一口呷る玄斎の姿だけだった。
◇◇◇◇
騒ぎが去った後の静寂は、まるで嵐の目のようだった。
松明の炎が、地に転がる男たちの顔を不気味に照らし出している。水江村の者も、沢西村の者も、区別なく苦痛に顔を歪め、呻き声を上げていた。
弥平が肩を押さえてうずくまっている。
別の男は、足から血を流していた。沢西村の者たちは、仲間が逃げ去る中、動けぬまま置き去りにされていた。
村人たちは、ただ呆然と立ち尽くしていた。
勝利の歓声はどこにもない。あるのは、血の匂いと、恐怖の残滓、そして、これからどうすればいいのかという途方もない戸惑いだけだった。
朔は、物見櫓から下り、その光景を見ていた。彼の心の中では、二つの人格が激しくせめぎ合っていた。
(隠れろ。お前の仕事は終わった。これ以上、目立つな)
百姓の朔としての生存本能が、そう警告する。掟を破って鐘を鳴らしただけでも、十分すぎる逸脱だった。これ以上、何かをすれば、権爺にどんな咎めを受けるか分からない。
母を、また悲しませることになる。
だが、目の前の光景が、もう一人の人格を黙らせてはくれなかった。
(……外傷性出血。上腕骨の開放骨折の疑い。放置すれば、失血死か、傷口からの感染症で確実に死ぬ)
JICA隊員、田中健司としての冷静な分析が、彼の脳内で自動的に行われる。
それは、意思とは関係のない、身体に染み付いた反射だった。発展途上国の村で、何度も見てきた光景。怪我人を前にして、何もしないという選択肢は、彼の魂の設計図には存在しなかった。
母の涙が、脳裏をかすめる。
「お願いだから、もう何もしないでおくれ」
その言葉が、鉛のように彼の足を縫い付けようとする。
(すまない、母さん。でも、俺は……)
朔は、踵を返して自宅へと走った。
もはや、迷いはなかった。いや、迷うことをやめた。
目の前の命を救う。その一点だけが、彼の思考を支配していた。
彼は、家の土間に置いてあった、いつかのために準備していたもの――薬草をすり潰して練り上げたものを入れた小さな壺と、清潔な布切れを、手早く風呂敷に包んだ。
そして、それを背中に括りつけると、水で満たした手桶を手に、再び広場へと戻った。
彼の異様な姿に、村人たちの視線が集まる。だが、朔はそれに構わなかった。
彼の最初の目標は、肩を棍棒で殴られ、腕が不自然な方向に曲がっている男だった。水江村の男だ。
「動かすな」
朔は、男に付き添っていた妻に、子供とは思えぬ厳しい口調で命じた。
妻は、怯えたように頷く。
朔は、手桶の水を布切れに浸し、傷口の周りの泥や血を丁寧に拭い始めた。
この時代、傷口を水で洗うという行為自体が、常識外れだった。
傷は乾かすもの、というのが常識だ。村人たちが、息をのむ気配がした。
だが、朔の動きに一切の淀みはない。それは、手練れの医者のそれだった。
傷口を清めると、壺から練り薬を指で掬い取り、手際よく傷に塗り込んでいく。
それは、彼が虫除けにも使った蓬をすり潰し、ごま油で練り上げた、止血と化膿止めの軟膏だった。
最後に、残りの布を裂いて、きつく、しかし血流を止めぬ絶妙な力加減で腕を縛り上げた。
「骨が折れている。動かせば、肉を突き破る。何か、添え木になるものを」
朔が呟くと、近くにいた弥平が、はっと我に返って、そこに落ちていた手頃な太さの枝を拾って差し出した。
朔はそれを受け取ると、男の腕に沿わせ、再び布切れで固定していく。完璧な応急処置だった。
その間、朔の頭の中は、奇妙なほど静かだった。
恐怖も、迷いも消え失せ、ただ、前世で叩き込まれた救急医療の手順だけが、彼の身体を動かしていた。これは、もはや百姓の朔の行動ではなかった。
これは、開発途上国の僻地で、限られた物資を駆使して人々の命を救ってきた、田中健司の魂の叫びだった。
◇◇◇◇
朔は、一人目の手当てを終えると、すぐさま次の負傷者へと向かった。足から血を流している男だ。幸い、傷は深くない。同じように傷口を清め、薬を塗り、布を巻く。
彼の、常軌を逸した、しかし恐ろしく手際の良い一連の行動を、村人たちは声もなく見つめていた。それは、畏怖だった。自分たちの知る世界の理から、あまりにもかけ離れた光景。十歳の童が、まるで熟練の医者のように、次々と人の傷を癒していく。
それは、奇跡であると同時に、得体の知れない妖術のようにも見えた。
その輪の中心に、一体の石像のように、権爺が立っていた。
彼の顔は、松明の炎に照らされて、能面のように無表情だった。
だが、その目の奥では、激しい感情が渦巻いていた。驚き、困惑、そして何よりも強い、警戒心。
(……なんじゃ、あれは)
権爺の人生哲学は、「変わらぬことこそが、最上の善である」というものだった。
先祖代々受け継がれてきたやり方こそが、村を守る唯一の道。
新しいこと、異質なものは、必ずや災いを招く。
それが、彼の六十五年の人生で得た、揺るぎない確信だった。
そして今、目の前にいるこの童は、その全ての体現者だった。虫を払う奇妙な術を使い、村の和を乱し、そして今また、見たこともないやり方で人の傷を手当てしている。
それは、権爺の理解を、そして許容を、完全に超えていた。
朔は、三人目の手当てを終え、権爺の足元で呻いている男に目をやった。
権爺の遠縁にあたる男だ。頭を打たれ、額から血を流している。
朔は、権爺の前に進み出た。そして、手桶を地面に置くと、権爺の目をまっすぐに見上げた。
権爺は、杖を握る手に力を込めた。今こそ、この不吉な童の行いを止めさせねばならない。村の秩序を守る長老として、断固たる態度を示さねばならぬ。彼は、叱責の言葉を口にしようとした。
だが、それよりも早く、朔の口が開いた。
「手当てを。……よろしいか」
それは、許可を乞う言葉ではなかった。有無を言わせぬ、静かな響きを持った、問いかけの形をした通告だった。
その一言が、権爺の思考を完全に停止させた。
もし、ここで「ならん」と言えばどうなる?
自分の身内の男が、手当てを受けられずに苦しみ続けることになる。村人たちは、自分をどう見るだろうか。私情で村の者を死なせようとする、冷酷な長老だと見るのではないか。
指導者としての威信は、地に堕ちるだろう。
では、「うむ」と頷けばどうなる?それは、この童の異質な行いを、村の長老たる自分が公に認めることになる。
それは、自分が守ってきた古き良き村の秩序が、この十歳の童の前に屈したことを意味する。
どちらを選んでも、権爺の権威は失墜する。この童は、たった一言で、彼を政治的な詰みの状態に追い込んだのだ。
権爺は、何も言えなかった。ただ、カッと目を見開き、わなわなと唇を震わせるだけだった。その硬直を、朔は肯定と受け取った。
彼は、権爺の視線から目を逸らすと、黙って男の額の傷の手当てを始めた。
それは、静かだが、決定的な権威の移譲の瞬間だった。古い知恵が、新しい知識の前に、沈黙を強いられたのだ。
◇◇◇◇
水江村の負傷者の手当てが、一通り終わった。朔の額には、玉のような汗が光っている。
彼は、汚れた布を桶の水で洗いながら、荒い息を整えた。
広場には、奇妙な静けさが戻っていた。村人たちは、朔の働きに感謝すべきなのか、それとも、やはり彼を畏れるべきなのか、判断がつかずにいるようだった。ただ、先ほどまでの敵意や非難の色は、戸惑いと驚嘆の色に変わっていた。
母のタエが、人垣の後ろから、心配そうな、しかしどこか誇らしげな、複雑な表情で息子を見つめている。彼女の心の中で、息子への恐怖と愛情が、激しい綱引きを演じていた。
これで、終わりだ。誰もがそう思った。
朔は、一拍、間を置いた。そして、ゆっくりと立ち上がると、広場の隅に置き去りにされたまま、呻いている男の方へと、まっすぐに歩き出した。
気を失っている名主の源吾を通り過ぎ、ひときわ苦しげに呻いている男の前で膝をついた。
その瞬間、広場の空気は再び凍りついた。
「朔!」「何を考えておる!」
「そいつは敵だぞ!」
村人たちから、一斉に非難の声が上がった。弥平ですら、「朔、よせ。そいつらは、おれたちの種籾を盗みに来たんだぞ」と、戸惑いの声を上げた。
敵に情けをかける。それは、この時代の生存競争の中では、ありえない行為だった。
裏切りであり、愚行であり、正気の沙汰ではなかった。
だが、朔は足を止めなかった。彼は、男の隣に膝をつくと、まるで水江村の者たちを手当てしたのと全く同じように、淡々と傷口を清め始めた。
「やめろ!」「その水も薬も、おれたちのもんだ!」「敵のために使うな!」
罵声が、嵐のように朔に降り注ぐ。
だが、彼は顔色一つ変えず、黙々と作業を続けた。男の足は、鍬の柄で強打されたのか、大きく腫れ上がり、皮膚が裂けて血が滲んでいた。
このままでは歩くこともままなるまい。
ついに、一人の男が我慢しきれず、朔の肩を掴もうと走り寄った。その時だった。
「待て」
静かだが、芯の通った声が響いた。朔の声だった。
彼は、手当ての手を止めずに、顔だけを上げて村人たちを見据えた。
その目は、十歳の童のものではなかった。全てを見通すような、冷徹な光を宿していた。
「玄斎殿は、おれたちを『喧嘩両成敗』から救ってくれた。だが、こいつらがこの傷で死んだらどうなる?沢西村の者たちは、必ず『水江村の者たちに嬲り殺された』と上に訴え出るだろう。そうなれば、玄斎殿の配慮も水の泡だ。おれたちは、結局、お上から裁かれることになる」
朔は、一度言葉を切った。村人たちは、彼の言葉の持つ恐ろしい現実味に、息をのむ。
「だが、もし、こいつが生きて村に帰ったら、どうだ?『水江の者たちは、置き去りにされたわしを手当てしてくれた』と証言するだろう。そうなれば、万が一お上の沙汰があっても、おれたちの言い分が立つ。こいつは、おれたちの無実を証明する、何よりの証人になるんだ」
彼は、手当てを終えた男の足に、最後の布を巻き付けながら、静かに結論を述べた。
「これは、慈悲じゃない。勘定だ。おれたちは今、こいつの命を助けて、村の明日を買っている」
広場は、水を打ったように静まり返っていた。
誰も、何も言えなかった。
朔の言葉は、彼らの貧しく、過酷な人生の中で培われた、単純な善悪の価値観を根底から覆すものだった。だが、その冷徹なまでの合理性は、不思議な説得力を持っていた。恐怖と憎しみの連鎖を断ち切るための、全く新しい戦い方。
それは、彼らが想像したこともない、未来のための布石だった。
権爺は、樫の杖を握りしめたまま、呆然と朔を見つめていた。
何か言わねばならぬ。この童の好きにはさせられぬ。そう思うのに、言葉が出なかった。
朔の理路整然とした言葉と、それを聞き入る村人たちの視線が、彼の口を縫い付けてしまったかのようであった。
そして、人垣の後ろで、母タエは、両手で口を覆っていた。
その目からは、大粒の涙がとめどなく溢れ落ちていた。それは、もはや恐怖だけの涙ではなかった。自分の腹を痛めて産んだ息子が、自分の全く知らない、遥か遠い世界の住人になってしまったという、途方もない寂しさと、そして、その小さな背中が、この村の誰よりも大きく見えることへの、震えるような誇りが入り混じった、熱い涙だった。
◇◇◇◇
その光景を、物陰から忌々しげに見つめる目があった。
吉蔵である。
彼の田は、長雨と雲霞でほとんど実りを失った。寄合で朔を告発したが、結局、村の誰もが朔の「妖術」の恩恵にあずかった形となり、吉蔵の孤立と憎悪は深まるばかりであった。
(化け物め……。敵を手当てしおって。やはり人の心を持っておらん)
朔の冷徹なまでの合理性が、吉蔵には人の心を持たぬ化け物の論理にしか聞こえなかった。
(そうだ。役人様に知らせるのだ。この村には、妖術で人を惑わし、敵と内通する化け物がいる、と)
それが、村を救う唯一の道だと、彼は信じていた。いや、信じたかった。
吉蔵は、誰にも気づかれぬよう、そっとその場を離れた。
夜陰に紛れ、彼は村を抜け出した。
向かうは、伊丹の城。
彼の密告が、村に新たな災厄を呼び込むことを、まだ誰も知らなかった。




