切なる願い
日が、とっぷりと暮れるのが早くなった。
西の山々の端に、夕焼けの残りが茜色の帯となって、かろうじて空にのこっている。
が、それもやがて闇に吸いこまれるように消えてゆくのであろう。
水江村の入り口にある見張り台で、若い男が二人、身を寄せあうようにして火にあたっていた。
十月ともなれば、夜風は容赦なく肌を刺す。
「冷えるな」
「ああ……」
口から洩れる息が、白い。
そのときである。
一方の男が、はっと顔を上げた。
闇のむこう、沢へと下る道のあたりから、かすかな物音が聞こえた気がした。
気のせいか、とおもう。
しかし、物音は一つではなかった。
枯葉を踏む、いくつもの足音。
それは、獣のものではない。人のものだ。
「おい、誰か来るぞ」
男の声が、緊張にはずんだ。
もう一人も、槍を握りしめて立ちあがる。
松明の明かりに照らされた二人の顔は、こわばっていた。
足音は、やがて村の入り口でぴたりと止まった。
闇の中に、十数人の黒い影がうごめいている。
「……何者だ」
見張りの男が、声をしぼりだした。
返事はない。
影たちは、ただそこに立ちつくし、こちらの様子をうかがっているようだった。
松明の炎が、風にあおられて、ぱちぱちと不気味な音を立てる。
男の一人が、ごくりと唾をのんだ。
「権爺さまを、お呼びしてこい」
「わ、わかった」
相方が駆けだす。その足音が、やけに大きく村の中に響いた。
◇◇◇◇
ほどなくして、権爺が男たちを数人引きつれてやってきた。
その誰もが、手には鋤や鍬、竹槍を握っている。
権爺は、闇の向こうに立つ影たちを、じっと見すえた。
その目は、年のせいか細められてはいるが、闇に慣れた猟師のように鋭い。
「……どこの者だ。夜分に、何の用だ」
権爺の声は、しわがれていたが、不思議なほどによく通った。
すると、闇の中から一人の男が、ゆっくりと前に進みでた。
年のころは、五十をいくつかうわまわったあたりか。
陽に焼け、深く刻まれた皺。ひどく痩せてはいるが、その風体には村の長としての貫禄がにじんでいる。
権爺は、その顔に見覚えがあった。
(沢西村の名主、源吾か)
沢西村は、山の向こう、川の上流にある村だ。
男……源吾は、権爺の前までくると、何もいわずに、どさりと膝をついた。
そして、乾いた土に、額がつくほどに深々と頭をさげたのである。
源吾のうしろにいた者たちも、同じように次々と地に膝をついた。
権爺のうしろにいた水江村の男たちが、ざわめく。
彼らは、武器を持っていなかった。
鋤も鍬も、槍も刀も、その手にはない。
ただ、ぼろぼろの着物をみにまとい、うつろな目でこちらを見ている。
その目は、飢えと、やり場のない怒りで、黒く落ち窪んでいた。
「……何のまねだ。沢西の」
権爺が、吐きすてるようにいった。
源吾は、顔をあげぬまま、かすれた声でこたえた。
「水江村の、お歴々がたに、お願いがあってきた」
「お願い、だと?」
「いかにも」
源吾は、そこでようやく顔を上げた。
松明の明かりが、その頬を照らしだす。皮と骨ばかりだ。
「わしらの村は、終わった」
「……」
「虫だ。おびただしい数の虫が、田を食いあらした。稲は、すべて枯れた。一本の穂も、のこっとらん」
源吾の言葉に、水江村の男たちは息をのむ。
噂には、聞いていた。
沢西村が、ウンカの大発生で壊滅的な被害をうけたことを。
「食うものがない。蓄えもない。芋を掘り、草の根を食うて、なんとか今日までしのいできた。じゃが、それももう限界じゃ」
「……」
「このままでは、冬を越せん。村の者どもは、みな餓え死にするだろう」
源吾は、言葉を切った。
そして、もう一度、権爺の足もとに頭をさげた。
「頼む。どうか、来年のための種籾だけでも、お貸しくだされ」
その声は、悲痛であった。
「施しを乞うておるのではない。お貸しくだされば、来年の秋には、かならず倍にしてお返し申す。この源吾、命にかけて」
うしろの村人たちも、いっせいに頭をさげた。
ただ、ひたすらに、土下座している。
水江村の男たちのあいだに、動揺がひろがった。
あまりに、哀れな姿であったからだ。
しかし、権爺は動かない。
その顔は、まるで能面のように、何の感情も浮かべていなかった。
◇◇◇◇
権爺は、しばらく黙っていた。
やがて、冷えびえとした声で、口をひらいた。
「……断る」
その一言は、夜のしじまに、石を投げこんだように響いた。
源吾が、はっと顔をあげる。
その目には、信じられぬという色が浮かんでいた。
「な……ぜ、でござるか」
「なぜ、だと?」
権爺は、ふ、と鼻で笑った。
「きかせてくれる。わしらの村とて、余裕があるわけではない。今年の作柄が、ことのほかよかったわけでもないのだ。てめえらの村にくれてやるような種籾は、一粒たりとも、ない」
「そこを、なんとか……! このとおりだ!」
源吾が、ふたたび額を土にこすりつける。
権爺は、その姿を、冷ややかに見おろしていた。
「それに、源吾」
「は……」
「おめえは、大事なことを忘れちゃいねえか」
「……と、もうしますと」
「虫だ」
権爺の言葉に、源吾の肩が、ぴくりと動いた。
「お前たちの村を食いあらした虫は、どこからきた?」
「……」
「わしらの村からだ。そうだろ?」
権爺は、知っていた。
自分たちが、虫除けの秘術をつかい、ウンカの群れを川上へ、すなわち沢西村の方角へと追いやったことを。
源吾もまた、それを知っているはずであった。
「お前たちの術が、虫をわしらの村へ追いやったのだ」
源吾の声の調子が、かすかに変わった。
もはや、それは単なる懇願ではなかった。
「このままでは、わしらは来年の春を迎えることすらできぬ。これは、償いではないのか」
その言葉には、筋が通っていた。
施しを乞うているのではない。当然の償いを求めているのだ、と源吾はいっているのだ。
水江村の若い衆が、ごくりと喉を鳴らす。
しかし。
権爺の表情は、変わらなかった。
「償い、だと?」
権爺は、ゆっくりと首をふった。
「わしらが、なぜ、てめえらに償いをせにゃならん」
「……!」
「思い出せ、源吾。去年の春のことを」
権爺の目が、鋭く光った。
「日照りがつづき、わしらの田が干上がったとき、てめえらは何をした」
「……」
「わしらが、どうか川の水を少しでもわけてくれと頭をさげたとき、てめえらは、せせら笑ってそれを断った。違うか」
源吾は、こたえられない。
それは、事実であった。
水利権は、昔から川上にある沢西村が握っていた。
彼らは、その力をつかい、ことあるごとに水江村へ圧力をかけてきたのだ。
「水が欲しいときには、わしらの言い分をなにひとつ聞かず、自分たちが困ったときだけ、頭をさげるのか」
権爺の声に、長年の不信と、抑えに抑えてきた怒りがこもっていた。
「そんな都合のいい話が、通るとおもうてか」
「……」
「帰れ。お前たちにくれてやる籾はない。わしらの知ったことではないわ」
権爺は、言い放った。
それは、共同体の指導者としての、苦渋にみちた決断であった。
ここで情けをかければ、いずれ自分たちの村が食われる。
非情に徹するしか、生きのこる道はない。
源吾は、もはや何もいわなかった。
ただ、握りしめた拳が、かすかに震えている。
彼は、ゆっくりと立ちあがった。
その顔からは、すべての表情が抜け落ちていた。
「……そうか」
ぽつり、と洩らした。
「そうであろうな」
源吾は、一度だけ、水江村の全体を記憶に刻みこむように、じろりと見渡した。
その目に、ぎらり、と獣のような光が宿るのを、権爺は見のがさなかった。
源吾は、くるりと背をむけると、闇の中へ歩きだした。
うしろの者たちも、だまって立ちあがり、そのあとに続く。
来たときとおなじように、音もなく。
一行の姿が、闇に溶けて見えなくなるまで、水江村の者たちは、誰一人、動くことができなかった。
◇◇◇◇
その夜。
水江村では、男たちが眠れぬまま、夜を明かした。
権爺が命じたわけではない。
誰からともなく、男たちは百姓道具を手に、村の入り口に集まってきた。
大きな焚き火がおこされ、その赤い炎が、男たちの不安げな顔を照らしだしている。
もう、あのうつろな目をした者たちが、ただの哀れな飢民ではないことを、誰もが悟っていた。
沢西村の脅威は、もはや噂ではなかった。
具体的で、名前と顔を持ち、そして、すぐそこに存在していた。
夜風に、竹藪がざわめく音がする。
それが、まるで追い詰められた獣の呻き声のように、男たちの耳には聞こえた。
(対立は、決まった)
権爺は、家の土間でひとり、冷たくなった囲炉裏の灰を見つめながら、そうおもった。
長い、長い夜がはじまろうとしていた。




