秋霖
秋霖が、降りつづいていた。
空は鉛を溶かしたような色で、大地に低く垂れこめている。
冷たい雨が、水江村のすべてを濡らしていた。茅葺の屋根を、泥道を、そして、田で働く百姓たちの背を。
弥平は、腰をかがめ、黙々と鎌を振るう。
ざくり、と湿った稲藁を断つ音が、雨音にまじって鈍く響く。
例年ならば、収穫のこの時期には村に活気が満ちる。乾いた土の匂いと、からりと晴れた空の下、男たちの威勢のいい声と、女たちの笑い声が飛び交うものだ。
しかし、ことしの秋は違った。
聞こえるのは、雨音と、衣擦れの音、そして、時折交わされる低い声だけである。
刈り取った稲穂は、ずしりと重い。
だが、弥平はその重さに、安堵よりもむしろ、後ろめたさのようなものを感じていた。
今年の稲は、長雨と雲霞のせいで、出来が悪い。穂は心なしか細く、実入りも浅い。
それでも、こうして刈り入れるものがある。
(八割、といったところか……)
村の誰もが、胸のうちで同じ算盤を弾いていた。
例年の八割。
年貢を納め、冬を倹約して過ごせば、飢えることはあるまい。
それもこれも、十歳の童、朔の奇妙な知恵のおかげであった。あの童がこしらえた薬が、稲を喰い荒らす雲霞の群れを追い払ったのだ。
「聞いたか」
隣で作業をしていた男が、声を潜めて弥平にいう。
「沢西の村のことだ」
「……ああ」
弥平は、短く応じた。
沢西村は、水江村の風下に位置する隣村である。
朔の薬は、虫を殺すものではなかった。ただ、追い払うだけのものだ。
水江村から追われた雲霞の群れが、どこへ向かったか。
考えずとも、わかることだった。
「収穫は、半分もなかったそうだ」
「年貢を納めれば、種籾すら残らぬと……」
「すでに、村を捨てて逃げ出す者も出ているらしい」
百姓たちの間に、重い沈黙が落ちる。
自分たちが生き延びた。
そのことと、隣村の惨状とが、一本の糸で繋がっている。
その事実が、刈り取る稲穂の一本一本に、罪の重さをまとわりつかせているかのようだった。
誰も、朔の名を口には出さなかった。
感謝と、畏れと、そしてこのやり切れぬ罪悪感とが綯い交ぜになり、村の空気を息苦しいものにしていた。
◇◇◇◇
年貢の取り立ては、滞りなく終わった。
伊丹城から来た役人たちは、水江村の帳面と米俵の数を見比べ、意外そうな顔をしたが、文句もいわずに引き上げていった。
その日の夕刻。
吉蔵は、がらんとした土間の隅で、膝を抱えていた。
彼の家の食糧蔵は、空っぽであった。
凶作の被害を最も受けた彼の田からとれたわずかな米は、そのすべてが年貢として持ち去られた。
残ったのは、冷たい土間の湿気と、腹の底から這い上がってくるような絶望感だけだ。
戸が、きしりと音を立てて開いた。
弥平が、小さな米俵を抱えて立っている。
「……吉蔵」
「……」
吉蔵は顔を上げなかった。
「村からの、決まりだ」
弥平はそういって、俵を土間に置いた。
中身は米ではない。粟だ。
惣村の掟として、食い扶持を失った者を見殺しにはせぬ。だが、それはあくまで餓死をさせぬための、最低限の「互助」にすぎなかった。
弥平の目に、同情の色は薄い。
あるのは、掟を果たす者の、義務的な光だけである。
「これで、しばらくは食いつなげ」
それだけいうと、弥平は背を向け、雨の中へと去っていった。
吉蔵は、しばらくの間、土間に置かれた粟俵を憎々しげに睨みつけていた。
施し。
この粟は、施しだ。
お前は、己の力では冬も越せぬ、哀れな男だ。
俵が、そう告げているようだった。
やがて、吉蔵はのろのろと立ち上がると、その粟を少しだけ掴み、欠けた土鍋で粥を炊いた。
水気の多い、味のない粟粥。
それを、ただ腹を満たすためだけに、かきこむ。
粥は、少しも体を温めなかった。
むしろ、腹の底で冷たく固まり、惨めさを増させるだけだった。
そのときだ。
雨音の向こうから、かすかな声が聞こえてきた。
笑い声だ。
幼い娘の声。おふみの家のほうからだった。
あの家の田は、朔が最初に薬を撒いたせいで、村の中でもとりわけ出来が良かったという。
きっと、今夜はささやかな祝いでもしているのだろう。
粟ではない、白米の飯を食い、笑い合っているのかもしれない。
ぴしり、と。
吉蔵の中で、何かが音を立てて砕けた。
手にしていた土の椀を、握りつぶさんばかりに力がこもる。
指の関節が白くなった。
(あの童さえ、いなければ……)
そうだ。
あの童さえいなければ。
今年の作柄は、神仏の思し召し。村の誰もが等しく、凶作に喘いでいたはずだ。
皆が等しく苦しいのであれば、耐えられた。
だが、あの童が、余計なことをした。
あの童の妖術が、神仏の定めを歪めたのだ。
おふみの家を豊かにし、わしの田を呪い、そして、隣村を地獄へ突き落とした。
すべて、あの童のせいだ。
施しの粟粥をすする己の惨めさ。
壁の向こうから聞こえる、不当な豊かさを享受する者の笑い声。
その二つが、吉蔵の心の中で、憎悪という名の黒い炎となって燃え上がった。
これは、逆恨みなどではない。
失われたものを取り戻すための、戦いだ。
歪められた世の理を、元に戻すための、正義の行いだ。
あの妖術使いを、公儀の手に引き渡す。
それこそが、人として正しい道なのだ。
吉蔵は、そう信じ込もうとしていた。
信じ込まなければ、己の惨めさに押しつぶされてしまいそうだった。




