奇跡の代償
じっとりとした空気が肌に纏わりつく。幾日も続いた長雨がようやく上がったものの、水江村の朝は、分厚い雲の底に沈んでいた。湿った土と、腐りかけた草の匂いが混じり合い、淀んだ空気を一層重くしている。
朔は、村の田を見渡せる畦道に一人、佇んでいた。目の前に広がる光景は、あまりにも異様だった。
幼馴染のおふみの家の田と、その隣の一枚だけが、目に痛いほどの青々とした緑を保っている。まだ若い稲の葉は、朝露を弾き、生命力に満ち溢れていた。しかし、その二枚を取り囲む他の田は、まるで病に罹ったかのように茶色く斑に染まっている。害虫「雲霞」に喰い荒らされた稲の残骸が、力なく水面に揺れていた。成功と失敗が、残酷なまでにくっきりと描かれた一枚の絵のようだ。
「……朔」
背後からかけられた声に、朔はゆっくりと振り返った。おふみの父親だった。
日に焼けた顔には、感謝と、それ以上に濃い畏れが浮かんでいる。
男は、周りを気にするように視線を泳がせると、懐から小さな握り飯を一つ取り出し、朔の手にそっと握らせた。この時期、白米の握り飯がどれほどの価値を持つか、朔には痛いほどわかっていた。
「……すまねえな。これくらいしか、礼ができんで」
「いや……」
朔が何かを言いかける前に、男は足早にその場を去っていった。まるで、厄介事から逃れるかのように。その背中は、感謝を捧げる者のそれではなく、禁忌に触れた者のそれだった。
遠くの田では、数人の村人たちがこちらを指差しながら、何かを囁き合っている。
風に乗って、断片的な言葉が耳に届いた。
「……妖術だ」
「気味が悪い……」
「おふみのとこだけ、なんで……」
その中に、吉蔵の姿があった。
彼の田は、村の中でも特に水はけが悪く、長雨と雲霞の被害を最も酷く受けた場所の一つだった。
絶望に染まった目で、吉蔵はただじっと、朔とおふみの家の青々とした田を睨みつけていた。その視線は、嫉妬を通り越し、もはや憎悪と呼ぶべき色を帯びていた。
朔は、握りしめた握り飯の温かさを感じながら、内心で冷徹に状況を分析していた。
前世の記憶が、JICA隊員としての思考を呼び覚ます。
「限定的な介入による実証実験は成功。効果は確認された。だが、コントロール群との差異が顕著すぎた。これがコミュニティに与える社会的インパクトは……予測不能、いや、最悪の部類だ」
村という共同体は、苦しみを分かち合うことで成り立っている。
同じように天を呪い、同じように飢えに苦しむ。その連帯感こそが、彼らの生存戦略だった。
だが、朔の行いはその不文律を破った。たった一つの「奇跡」は、村の平穏な水面に、決して消えることのない波紋を広げてしまったのだ。
◇◇◇◇
昼過ぎ、神崎川の渡し守を時折手伝っている男が、湊からの知らせを携えて村に戻ってきた。
権爺をはじめとする村の長老たちが、男を囲むようにして集まる。朔は、少し離れた場所で繕い物をする母の手伝いをしながら、その会話に耳を澄ませていた。
男の顔は青ざめ、声は恐怖に震えていた。
「……ひでえもんだった。沢西村のことだ」
沢西村。それは、水江村から見て川を少し下った、北東に位置する隣村だ。
「沢西が、どうしたと」権爺が低い声で促す。
「雲霞だよ。俺たちの村どころの騒ぎじゃねえ。まるで黒い雲か何かかと思ったぜ。南西からの風に乗って、奴らが一斉にやって来たんだと。まるで、何かに追われるみてえにな。あっという間に、田んぼは丸裸にされちまった。稲一本、残ってねえそうだ。あれじゃあ、冬を越すどころか、来年の種籾すら残らんだろう……」
男の言葉に、周りの村人たちが息をのむ。朔の心臓が、冷たい石になったかのように重くなった。
南西。朔が、おふみの家の田に薬を撒いた夜、風は確かに南西から北東に向かって吹いていた。彼が使った薬は、虫を殺すものではない。ただ、その強い匂いで「追い払う」だけのものだ。追い払われた雲霞の群れが、風に乗り、行き着く先。それは、沢西村の田畑だった。
良かれと思ってやったことが、隣村を地獄に突き落とした。
朔は、己の知識の不完全さを呪った。
前世の経験は、閉鎖された実験室での成功体験に過ぎなかったのだ。
この世界は、複雑に絡み合った生態系と、村同士の微妙な関係性で成り立っている。
一つの問題を解決しようとすれば、必ずどこかに歪みが生まれる。その単純な事実に、今更ながら気づかされた。
JICA隊員として叩き込まれたはずの、「地域全体の生態系と社会構造を考慮しない介入は、新たな災害を生む」という原則を、彼は己の焦りから踏み外してしまったのだ。
権爺が、ちらりと朔の方へ視線を向けた。
その目には、やはりな、という確信の色が浮かんでいた。
新しいこと、得体の知れないことは、必ず災いを呼ぶ。権爺の信条が、最悪の形で証明されてしまった。村人たちの間に広がっていた漠然とした畏れは、今や「朔の妖術が隣村に祟りをなした」という、具体的な恐怖へと姿を変え始めていた。
◇◇◇◇
夕暮れが、村全体を気怠い橙色に染めていた。
罪悪感に苛まれた朔は、誰にも顔を合わせたくて、一人、村はずれの川へと向かっていた。
その道すがら、彼は吉蔵の田の横を通りかかった。
水が抜けきらず、腐敗した稲の根が発する澱んだ匂いが鼻をつく。
その田の畦に、吉蔵が亡霊のように立っていた。手には鍬も鎌も持たず、ただ、死んだ自分の田を呆然と見つめている。朔の足音に気づくと、吉蔵はゆっくりと顔を上げた。その目に宿る光の無さに、朔は思わず足を止めた。
「……おお、朔殿か」
吉蔵の声は、不気味なほど穏やかだった。
しかし、その呼び方に、朔の背筋を冷たいものが走った。「殿」などという敬称は、百姓が子供に使う言葉ではない。それは、人間ではない何か、人知を超えた存在に対する呼び方だった。
「あんた様の、お力を見に来たのかい」
吉蔵は、乾いた唇で笑みのようなものを形作る。
「おかげさまで、うちの田は雲霞様も喰うのをためらったようだ。腐ったもんは、虫も好かんらしい」
その言葉には、棘があった。鋭く、粘りつくような悪意の棘が。
「おふみの家は、豊作だろうな。あんた様のご加護があったんだから。結構なこった。神様みてえな童がこの村にいてくれて、俺たちも鼻が高いってもんだ」
一歩、また一歩と、吉蔵が朔ににじり寄る。
その目は笑っていなかった。落ち窪んだ瞳の奥で、飢えた獣のような光が揺らめいている。
「なあ、朔殿。あんた様のその不思議な力で、この腐った田を、もう一度、青々とした稲穂で満たしてはくれねえか。さすれば、うちの赤子も、腹を空かせて泣かずに済むんだがなあ」
それは懇願ではなかった。
絶望から生まれた、純粋な憎悪の発露だった。
朔の行いが、自分たち家族の命を奪ったのだと、吉蔵は信じ込んでいた。論理も道理も通用しない。目の前にいるのは、ただ己の不幸の捌け口を求める、追い詰められた人間だった。
朔は何も答えられなかった。
言葉が無力であることを、彼はこの時、初めて肌で理解した。
謝罪も、弁明も、この男の憎悪の前では火に油を注ぐだけだろう。彼の全身が、危険を告げる警鐘を鳴らしていた。ここで下手に動けば、何をされるか分からない。
吉蔵は、黙り込む朔の顔を覗き込むと、ふ、と息を吐いた。
「……そうか。選ばれた人間は、俺みてえな泥にまみれた百姓なんぞには、力を貸してはくださらねえか」
それだけ言うと、吉蔵は踵を返し、力なく自分の家の方へと歩き去っていった。
しかし、朔には分かった。これは終わりではない。今日、この瞬間に植え付けられた憎悪の種は、いずれ必ず、もっと恐ろしい形で芽を吹くだろう。
◇◇◇◇
家に帰ると、囲炉裏の火だけがぱちぱちと音を立てていた。
母のタエは、戸口の近くに座り込み、暗闇の中でじっと朔を待っていた。
その姿は、まるで罪人の帰りを待つ看守のようだった。
「朔」
母の声は、いつもと違って硬く、感情が削ぎ落とされていた。
「……お前さん、何をしたんだい」
それは、問いかけではなかった。静かな詰問だった。
タエは立ち上がると、朔の腕を強く掴んだ。その指先が、小刻みに震えている。
「村の衆が、みんな噂しておるよ。お前が妖術を使って、おふみちゃんの田だけを助けたって。そのせいで、沢西村の田は全滅したんだって……。吉蔵さんにも、何か言われたんだろう」
朔は、母の顔を見ることができなかった。
母の恐怖が、掴まれた腕を通して、じかに伝わってくる。
この時代の人間にとって、「村の和を乱す」ことがどれほど恐ろしい罪か。共同体から排除されることは、死を意味する。母の恐怖は、息子の身を案じるがゆえの、当然の反応だった。
「わしは……わしは、お前が他の子と違うことは、ずっと前から分かっていたよ」
タエの声が、嗚咽に変わっていく。
「赤子の頃から滅多に泣かず、時々、大人のようなことを言う。他の子が泥んこになって遊んでいる時も、お前は一人でじっと水路の流れを見ていた……。わしは、ずっと怖かった。その賢すぎる頭が、いつかお前に災いを呼ぶんじゃないかって……!」
タエは、ついに朔の前に崩れ落ちた。
その両目から、堰を切ったように涙が溢れ出す。
「お願いだから……」
母の悲痛な声が、狭い土間に響く。
「お願いだから、もう何もしないでおくれ!わしはな、お前がいなくなっちまうのが、一番怖いんだよ……!」
それは、朔の心を最も深く抉る言葉だった。
村人からの非難や、吉蔵の憎悪よりも、鋭く、痛かった。
守りたいと願った、たった一人の肉親からの拒絶。善意が、最も愛する人を苦しめている。このどうしようもない矛盾が、朔の胸を締め付けた。
彼は、この世界で完全に一人になった。知識も、未来の記憶も、この孤独の前では何の慰めにもならなかった。
◇◇◇◇
母の泣き声だけが響く静寂を破ったのは、戸を叩く無遠慮な音だった。
はっとしたように顔を上げたタエが、震える手で戸を少しだけ開ける。
そこに立っていたのは、村の長老である権爺だった。手には、彼の権威の象徴である、黒光りする樫の杖が握られている。
権爺は、戸の隙間で怯えるタエには目もくれず、その鋭い視線をまっすぐに、土間に立ち尽くす朔に向けた。夕闇を背負って立つ長老の姿が、長い影となって家の奥まで伸び、朔の足元を飲み込んでいく。
「寄合で話がある」
権爺の声は、乾いた木が擦れ合うように嗄れていた。
だが、その一言には、村の掟そのものの重みがあった。
「ついて参れ」
それは、有無を言わさぬ命令だった。
個人的な感情や、家の事情が入り込む隙など微塵もない、惣村という共同体の、厳粛な召喚だった。
タエが、ひっ、と息を呑む音が聞こえた。母が最も恐れていた事態が、ついに現実のものとなったのだ。
朔は、泣き崩れる母と、不動の権爺の姿を交互に見た。小さな善意から始まったはずの全てが、今、自分でも制御できない大きなうねりとなって、彼を飲み込もうとしていた。
もはや、ただの十歳の童ではいられない。彼は、裁かれるべき被告人として、村の掟と対峙しなければならなかった。




