蓬のちぎり
稲の育ちは、明らかに悪かった。
八月に入ってなお降りつづく長雨が、田の土から精気を奪っていく。例年に比べ、稲の背丈は低く、その色もどこか薄い。
追い打ちをかけるように、雲霞が湧いた。
米搗き虫とも呼ばれる小さな害虫が、今年は季節を違えて、稲の株元に黒い煤のように群がっている。
このままでは、秋の収穫がおぼつかない。年貢を納めれば、冬を越すための食い扶持が残るかどうか。村の者たちの顔には、諦めに似た色が浮かんでいた。
三日前の晩には、権爺の音頭で「虫送り」の儀式も行われたが、雲霞の勢いは衰える気配もない。
朔は、己に課した掟を、唇の裏で繰り返した。
(見られるな、知られるな、目立つな)
この世で生き抜くための、ただ三つの戒めだ 。
知識はある。
母のタエに見咎められながらも、村はずれで密かに薬液を調合し、その効果を確かめてもいた 。
だが、実行はできぬ。
十歳の童が、古老たちの祈祷でも祓えぬ虫害を退ければ、何が起こるか。
待っているのは、畏怖と、嫉妬。そして、妖術使いの烙印だ 。
だが、その掟も、目の前の光景の前では、もはや意味をなさなかった。
隣の田の畦に、小さな影がうずくまっている。
おふみだ。
九つになる、弥平の隣家の娘 。
おかっぱ頭をがっくりと垂れ、その小さな肩が、かすかに震えている。
彼女の家の田も、同じように雲霞に喰い荒らされていた。
朔は、固く拳を握った。
握りしめた拳の爪が、掌に食いこむ。
(己の知恵は、己が定めた者以外のために使うな)
これもまた、掟の一つであった 。
すべてを救うことはできぬ。その試みは、己を破滅させるだけだ。
だが……。
朔は、ゆっくりとおふみの方へ歩み寄った。
近づく足音に、おふみが顔を上げる。黒目がちの大きな瞳が、涙で濡れていた。
「朔……」
か細い声だった。
「稲が、みんな、病気になっちゃった……」
朔は、何もいわなかった。
ただ、おふみの家の田と、その北東にある田に、じっと目を凝らした。
そして、静かに口を開いた。
「おふみ」
「……うん」
「手伝ってほしいことが、ある」
おふみは、不思議そうな顔で朔を見つめた。
朔は、子供に言い聞せるように、言葉を選んだ。
「虫さんが嫌いな匂いのする、お薬を作ったんだ」
「お薬?」
「うん。これを稲にまけば、虫さんは逃げていく」
理屈など、分かるまい。
おふみは、ただ朔の目をじっと見つめている。その瞳には、疑いの色はない。
朔は、おふみの目を見て、念を押した。
「でも、これは、二人だけの秘密だ」
「……秘密?」
「うん。誰にも、見られちゃいけない。誰にも、話しちゃいけない。おれたち二人だけの、約束だ」
ちぎり、という言葉が、朔の頭をよぎった。
おふみは、朔の真剣な顔を見て、ごくりと唾をのんだ。
そして、こくりと、小さく頷いた。
「うん。誰にも言わない」
幼い約束だった。
だが、それはこの戦国の世で、朔が初めて結んだ、人間との絆であった。
◇◇◇◇
月はない。
闇が、すべてを呑みこんでいた。
草むらからは、昼間にも増して虫の声がやかましく聞こえる。蛙の鳴き声も混じっていた。
その闇の中を、二つの小さな影が動いている。
薬が入った桶は、重い。
十歳の朔と、九つのおふみ。小さな二人の手に余る。
中には、朔が昼のうちに煮詰めておいた、蓬の薬液がなみなみと満ちされていた。独特の、青臭い匂いが鼻をつく。
田の畦はぬかるみ、裸足の足がずぶずぶとめりこんだ。
一歩進むごとに、足が泥に吸い取られるようだ。
おふみは、必死に歯を食いしばっている。重さに耐えかねて、か細い呻きが漏れた。
「……っ」
「もう少しだ」
朔が、低い声で励ます。
ようやく、目的の田に着いた。
おふみの家の田だ。
二人は、ぜいぜいと息を切らしながら、畦に桶を降ろした。
「これで、撒く」
朔は、懐から柄杓を二つ取り出し、一つをおふみに渡した。
桶から薬液をすくい、稲の株元めがけて、そっと撒く。
ちゃぷん、と小さな音がして、強い蓬の匂いが闇に広がった。
おふみも、朔の真似をして薬液を撒き始めた。
なぜこんなことをするのか、彼女には分かっていない。ただ、朔を信じているだけだ 。
闇の中での、秘密の作業。
見つかってはならないという恐怖と、朔と二人だけの秘密を共有する、不思議な高揚感が入り混じっていた。
二人は、まずおふみの家の田に、まんべんなく薬液を撒いた。
桶の中身が半分ほどになったところで、朔は言った。
「今度は、あっちの田だ」
おふみの家の田の、北東にある田だった。
雲霞は、風に乗って移動する。夜の間、北の丘から吹きおろしてくる風の通り道だ。そちらから先に虫を追い払っておかねば、またすぐに戻ってきてしまう。朔の、計算であった。
再び、二人で桶を運ぶ。
一度目よりは軽くなっているが、それでも子供の力には余る重さだ。
二つ目の田に、薬液を撒き始めた、その時だった。
木々の闇が、ふっと揺れた。
そこに、いつの間にか、人影が立っていた。
ひょろりと背の高い、老人の影。
「……!」
朔は、息をのんだ。
心臓が、大きく跳ねる。
朽木玄斎であった。
村はずれの漁師小屋に住み着いた、素性の知れぬ牢人 。
この男だけは、朔のことを、ただの童として見ていなかった 。
玄斎は、何もいわなかった。
酒の匂いが、かすかに風に乗って届く。
その鋭い目が、闇の中でじっと、朔たちの手元を見ている。
何を撒いているのか。
なぜ、夜陰に紛れてこんなことをしているのか。
すべてを、見透かされているようだった。
長い、沈黙。
やがて、玄斎はふいと踵を返した。
そして、現れた時と同じように、音もなく闇の中へ消えていった。
嵐のような動悸が、朔の胸に残った。
◇◇◇◇
百姓の吉蔵は、眠れずにいた。
自分の田の惨状が目に焼き付いて、布団に入っても、雲霞の羽音が耳から離れないのだ。
吉蔵の田は、村の中でも特に水はけが悪かった。
長雨の被害を、最も大きく受けたのが彼の田であった。もはや、秋の収穫など望むべくもない。
どうやって、年貢を納めればいいのか。
どうやって、妻子と冬を越せばいいのか。
考えれば考えるほど、腹の底から冷たいものがせり上がってくる。
神も仏もあるものか。
吉蔵は、やり場のない怒りと絶望に身を任せ、ふらふらと家を出た。
せめて、己の田の無残な姿を目に焼き付けて、この絶望の縁に立とうとおもったのかもしれない。
その時、彼は見た。
闇の中、遠くの田で、二つの小さな人影が動いているのを。
朔とおふみであった。
何をしているのか。
吉蔵は、畦の陰に身を潜め、目を凝らした。
二人は、何かを桶からすくい、田に向かって繰り返し撒いている。
月明かりもない闇夜の、奇妙な光景。
それは、吉蔵の目には、子供の悪戯にも、百姓仕事にも見えなかった。
まるで、何かの儀式のようであった。
怪しげな、呪いをかける儀式だ。
そうだ、と吉蔵の心に、一つの考えが稲妻のように閃いた。
なぜ、俺の田だけが、これほどまでにひどい被害を受けたのか。
なぜ、俺だけが、神仏に見放されたのか。
そうではなかったのだ。
奴らだ。
奴らの、あの怪しげな術のせいだ。
あの童は、昔からどこか気味が悪かった。奴が妖術を使い、俺の田に呪いをかけ、稲を枯らしたのだ。
そうでなければ、辻褄が合わぬ。
絶望は、具体的な憎悪の対象を見つけた時、最もおそろしい力を持つ。
吉蔵の嫉妬と不運への嘆きは、朔という明確な悪意に向けられ、どす黒い炎となって燃え上がった。
「……妖術使いめ」
吉蔵は、歯ぎしりしながら呟いた。
その目は、もはや正気の色を失っていた。
◇◇◇◇
夜が明けた。
鉛色の雲が、空を低く覆っている。
村人たちが、重い体を起こし、諦めにも似た気持ちで、それぞれの田へと向かった。
昨日よりも、さらに稲は弱っているだろう。
雲霞の数は、さらに増えているに違いない。
誰もが、そうおもっていた。
最初に、誰かが声を上げた。
「……あれは、なんだ」
その声は、ひどくかすれていた。
人々は、声の主が指さす方角を見た。
そして、息をのんだ。
村の田という田が、雲霞に精気を吸われ、勢いのないうす茶色に沈み始めている。
だが。
その光景の中に、二区画だけ、明らかに周囲とは違う色合いを保っている田があった。
おふみの家の田と、その北東にある田。
他の田に比べ、そこだけは雲霞の数が少なく、稲の葉もまだ青々しさを残している。被害を完全に免れたわけではない。だが、その差は、誰の目にも明らかであった。
ありえない光景だった。
自然の理に、反している。
村人たちは、その不自然なまだら模様を前に、立ち尽くした。
誰一人、口をきく者はいなかった。
広がるのは、感謝でも、安堵でもない。
人知の及ぶぬ奇跡を目の当たりにした者の、根源的な畏れに満ちた、深い、深い沈黙であった。




