摂州水江村始末
伊丹城は、あっけなく開いた。
摂州水江村での戦いから、わずか十日後のことである。
水江村の百姓一揆……。表向きはそう報じられた戦いで、普請奉行・相沢玄蕃が、その徴募兵ごと壊滅したという報せが城に届いた時、伊丹家はすでに死に体であった。
かねてより、三好長慶に通じ、その祐筆・松永久秀の調略に与していた譜代の家臣たちの多くが、一斉に寝返ったのである。
松永が仕掛けた、主家・細川晴元への偽書の計。相沢の暴走は、図らずもその「伊丹家の不軌」を裏書きする「口実」となり、完璧に成就した。
三好勢が伊丹城から押し寄せると、城は内から門を開いた。当主・伊丹親興は、白の素襖に着替え、一族の位牌の前で腹を十文字に掻き切った。子は、残さなかった。
◇◇◇◇
水江村もまた、「始末」に追われていた。戦場跡には、相沢の郎党や、狂気に駆られて集められた雑兵たちの死骸が、七月の陽射しを受け、腐臭を放ち始めている。
「弥平、甚兵衛。片付けろ」
十三歳になった朔は、無感動な声で命じた。
「死骸は大八車に積み、隠し村へ運べ」
「隠し村…でござるか。墓でも」
怪訝な顔をする甚兵衛に、朔はかぶりを振った。
「いや、硝石丘に捨てろ」
硝石丘。それは、隠し村の一角に、朔の指示で作らせた巨大な堆肥の山である。火薬の原料となる硝酸カリウムを生み出すための、糞尿と枯草、土を混ぜた「装置」であった。
朔は、無表情のまま、その光景を見つめている。 前世で読んだ漫画の記憶が、不意に蘇る 。
異世界に転生した信長が、同じことをやっていた。
敵兵の死体を硝石丘に放り込み、火薬の原料として「再利用」するのだと、冷たく笑っていた。あの時の自分は、それを「合理的だ」と感心して読んでいた。
「朔様。これで、最後の一体です」
弥平の声に、朔は我に返る。
「…ああ。土をかけろ。念入りにな」
「へい」
弥平は、何も問わない。ただ、土をこねるように、黙々と働く 。
◇◇◇◇
「死」の始末が行われる一方で、朔が築いた「生」の砦である隠し村では、別の時間が流れていた。
細工師の五郎太が、噴霧器の真鍮の弁を、ヤスリで磨き上げている。その背中にお里が声をかけた。
「五郎太さん」
お里は、沢西村から人買いに売られ、朔が銭で買い戻した娘の一人である。
「……腹に、子が、おります」
俯きがちに告げるお里の頬は、やつれてはいない。五郎太が作る木彫りの櫛が、その髪に挿さっている。
「もし、あんたの迷惑になるなら、私は一人で産む。ここは、私らを拾ってくれた朔様の村や。私は、ここで働く」
五郎太は、ヤスリの手を止めた。
「馬鹿を言え」
その朴訥な職人は、お里の肩を掴んだ。
「おまはんは、わしの女房や。腹の子は、わしの子や……なぜ、わしが女房と子どもを捨てねばならん」
五郎太の節くれだった指が、お里の薄い腹に、そっと触れた。
◇◇◇◇
沢西村では、相沢軍の攻撃で半壊した村壁の補修が急ピッチで進んでいた。
その陣頭指揮を執るのは、亡き名主・源吾の遺児、彦太であった。
十一歳。朔が水江村を背負った時と同じ歳だが、父の死を経て、その顔には子供の甘えはなかった。
背には、四つになる妹のおふくを負っている。
「そこの人夫、丸太の組み方が甘い。それでは圧が分散せん。やり直せ」
「土嚢は三段積みにしろ。理由は、朔殿の教えだ。土は、水より重い。だが、水は、土の隙間を突く。理で、水に勝て」
その口調は、合理的で、無駄がなく、彼が憧れてやまない朔のそれに、そっくりであった。
◇◇◇◇
水江村の朔の家。薬師の又八が、朽木玄斎の右足の怪我に、すりおろした薬草を塗り込んでいる。相沢の伏兵に遭った際の深手であった。
「うぐ……」
「玄斎様、動かんといてくだされ。骨には達しておりませなんだが、スジが……」
「……酒は」
玄斎は、顔をしかめたまま、脇に置いた諸白の杯を手繰り寄せようとする。
つまみは、緑豆の塩ゆでである。
「馬鹿を言いますな。怪我に触りますぞ!」
「酒は百薬の長と申すわ」
又八が叱るが、大酒飲みの牢人は、柳に腕押しである。
そこへ、昼餉の椀を盆に載せたタエが入ってきた。
彼女は、二人のやり取りを一瞥すると、こともなげに玄斎の杯と徳利を取り上げた。
「ああ、タエ殿、それは……」
「玄斎様」
タエの声は、穏やかだが、有無を言わさせぬ響きがあった。
「松永久秀様への出仕の日取りは、もう決まっております。
その足で、うちの朔の供が務まりますか。務まらねば、わしらが困る。酒は、わしが預かります」
かつて、息子の異質さを恐れ、「もう何もしないでおくれ」と泣いた母は、そこにはいなかった。息子の計画の「全容」を理解し、その実行を支える、最も現実的で強靭な「兵站」の管理者が、そこにいるだけだった。
玄斎は、返す言葉もなく、差し出された麦粥の椀を、渋々《しぶしぶ》受け取った。
◇◇◇◇
天文九年、八月上旬。朔は、越水城への出立の支度を整えていた。
そこへ、武骨な声がかかる。
「朔殿」
甚兵衛だった。
京への三度目の寄進の護衛を終え、いま帰ったところらしい。
脚絆には、乾いた道中の泥がこびりついている。
「甚兵衛か。ご苦労だった。任務は」
「はっ」
甚兵衛は、いつものように背筋を伸ばし、短く答える。
「ご下知のまま、米十俵、里芋十俵。京の臨済宗の寺へ、違いなく」
「僧侶一同より、朔殿へ丁重なる謝意の言葉を預かっております」
朔はうなずいた。
これで、慶順の一件は終わった。甚兵衛が、しかし、その場を動かない。無駄口は一切叩かぬ男だ。
「何だ」
「某、もう一つ。朔殿にお伝えすべき儀がございます」
甚兵衛は、云うべきか迷うように、一度、固く口を結んだ。
やがて、任務報告の続きのように、淡々と語り始めた。
「京の裏路地でのことにございます」
飢饉で地獄と化した都であったという。
米を運ぶ最中、ある流民の母が、俵にすがって手を合わせた。朔が送った米で、命を救われた者であった。
「母御は、この米がなければ親子ともども命がなかった、と。涙を流し……」
甚兵衛は、事実だけを述べている。
「そのそばに、童女がおりました」
「……その童女が、これを」
甚兵衛は懐を探り、小さな、汚れた布包みを取り出した。
「感謝の証として。『さく様』という方に、お渡しくだされ、と」
朔は、それを受け取った。布越しに、硬く、小さな感触が伝わる。包みを開くと、中から現れたのは、一つの石であった。
河原で拾ったのであろう、緑色の川石。ただ、小さな手で、ひたすらに磨き上げられたものらしかった。表面は滑らかに光を返している。銭にはならぬ。
「……それがしには、分かりませぬ」
甚兵衛が、低い声でいった。
「米の返礼が、石ころ。童の戯れかとも存じましたが……あの母娘の目は、真に迫っておりました。故に、お預かりした次第」
「そうか」
朔は短く答え、その緑色の石を、懐の最も深い場所へ、そっと仕舞った。
「甚兵衛。ご苦労」
甚兵衛は、黙って一礼し、今度こそ去っていった。
◇◇◇◇
弥平の家には、村の主だった者たちが集まっていた。
「弥平。お前さんを、水江村の名主代行とする」
朔は、弥平をじっと見つめ、権爺から受け継いだ、黒光りのする黒い樫の杖を手渡す。
「俺は、松永様への出仕と引き換えに、水江村と沢西村、この二つの村の知行を安堵された。これより、この二つの村は『水江荘』となる。年貢は松永様に納めるが、相沢のような理不尽な収奪は、もうない」
「……承知、つかまつりやした」
朴訥な弥平は、深々と頭を垂れ、杖を受け取った。
その隅に、おふみがいた。十一歳になり、童女らしさが抜け、少女の繊細さを宿している。
彼女は、かつてのように「いやだ」と泣き喚かない。文句も言わない。
ただ、家を出ようとする朔の、継ぎ当てだらけの小袖の端を、ぎゅっと掴んだ。目にいっぱいの涙を溜めて、首を、小さく横に振る。
その無言の別れが、朔の胸を最も強く打った。
◇◇◇◇
天文九年(1540年)、八月中旬。出立の日。蒼天には入道雲が威容を示していた。
水江村の門前には、水江村の衆と、彦太に率いられた沢西村の衆が、二重三重の人垣を作っていた。盛大な見送り。しかし、誰も騒がない。朔が守った田畑で穫れた、米の握り飯を、誰もが黙って差し出す。朔は、一つ一つ、それを受け取った。
それが六つを数えたとき、朔はたまらず笑い出す。
「俺の手は二本しか無い。皆の気持ちは嬉しいが、あとは皆で食べてくれ」
供は、二人きりである。右足を引きずりながらも、背筋を伸ばす朽木玄斎。そして、塗師の道具を背負い、松永の「目」として、感情の読めぬ目で佇む宗治。朔の「過去」と、朔の「未来」が、彼を挟んで歩き出した。
◇◇◇◇
越水城への道は、朔が守った「泡」の外の世界であった。
天文の飢饉の爪痕が、生々しく広がっている。
生きだおれる流民。蝗害で食い尽くされ、茶色く枯れた田。川の決壊で泥濘と化した、廃村。地獄であった。
その道中、彼らはある村を通り過ぎる。
三宅村。かつて相沢に連れられ、朔が「技術指導」に訪れた村の一つであった。
「……止まれ」
朔が、声を上げた。
三宅村は、地獄の中の、別世界であった。田は青々とは言えぬまでも、作物が、確かに実っている。朔が教えた暗渠排水の技術が機能し、泥濘がない。
水江村と同じく、そこだけが「生きて」いた。
朔は、玄斎に断り、その田の土を手に取った。手で掬える水は、少ない。だが、助かった命が、確かに、あった。
(……救えた。かつて、田中健司として目指した、救済の理が)
朔の頬に一筋の涙が流れた。
◇◇◇◇
越水城は、三好長慶の権勢と、松永久秀の美意識が反映された、合理的で、冷たい石垣に囲まれていた。門番が、異様な一行を、訝しげに制止する。十三歳の少主。片足を引きずる、総白髪の牢人。不気味なほど物静かな、職人風の男。
朔は、背筋を伸ばし、門番の目を真っ直ぐに見返した。懐には、母がくれた、氏神の御守りがある。緑色の石もある。その声は、震えていなかった。
「水江村、水江朔。松永久秀殿に召し出され、参上した」
ギィ、と音を立てて城門が開く。
朔の少年の時代は終わりを告げた。
(了)
お読みいただきありがとうございました。
朔の物語をこの後も書きたいなとも思ったのですが、水江村の戦いで示したように、朔は軍事的知識も経験もセンスもなく、野心もないため、下剋上的な話は合わないなと思い、断念しました。
そこで、下剋上といえばということで脳裏に掠めたのは、あの戦国の梟雄。
彼を主人公として、次回作を書いていければと思います。
次回作、『茶器好きの下剋上~名物を手に入れるためには手段を選んでいられません~』
ご期待ください。
※次回作予告、活動報告に書きました
※次回作につなげるためのエピソードを1~2話挟む予定です。




