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水江村の戦い(下)

 水江村の物見櫓の下。詰め所には、土から上がる湿気と、硝煙、そして男たちの汗の匂いが、よどむように停滞していた。

 さくは、微動だにしなかった。


 その時である。


 泥と血にまみれた一人の山窩さんかの斥候が、這うようにして転がり込んできた。

 男は、朽木玄斎くちきげんさいが伏兵に遭い、右足に深手を負い、包囲されていることを震える声で告げた。


「……そうか」


 朔は呟いた。唯一、心を許し、自らの秘密を打ち明けた師を失う。その情が、理性のせきを切った。

 朔は脇差を抜き、さやを払う。脇差の刃が、詰め所に入るかすかな光を吸い込み、鈍く光った。


「俺の知恵は、玄斎があってこそ生きる。奴を失うは、この村の終わりだ」

 朔の決意は、既に武人としての死の覚悟を超え、博徒ばくとのそれであった。

 彼が出陣しようとした、その一瞬であった。


 詰め所の戸口を、ひとりの男が塞いだ。塗師ぬりし宗治そうじである。

「今行けば、犬死にするだけでございます」


 宗治の声は、普段の柔和さを欠き、氷のように冷たく、落ち着いていた。その佇まいは、まるで、岩であった。

 刺すような視線が朔の目に宿る。宗治の目には、感情が一切宿っていない。


「道を空けろ、宗治」

 宗治は動かない。


「我が主、松永様は」

 宗治は静かに、そしてゆっくりと言葉を紡いだ。


「貴殿の知恵を、貴重な宝と見ておられる。その『宝』が、このような愚行によって失われるのを見過ごすわけにはまいりませぬ」


 朔の動きが、ぴたり、と止まる。宗治こそ、松永久秀が放った間者であったのだ。

 宗治の潜入、噴霧器の開発協力、そして権六玉の製造への立ち会い。

 すべてが、繋がった。


 しかし、朔の反応は恐怖ではなかった。宗治は少年を観察した。そこにいるは、哀れな子供ではない。自らの血を売って、盤上に座る覚悟を決めた男であった。宗治はかすかに頷いた。


 朔は、脇差の切っ先を、宗治の喉元へと突きつける。


「俺が松永殿に頭を下げたは、この村を守るためだ!」

 朔の声は、怒りに震えながらも、論理的であった。


「その村の中核である朽木たちを見殺しにして、何が臣従だ!彼らを救えぬのなら、俺が貴殿の主に従う意味もない!」

 朔は宗治を睨み据える。


「力を貸す気がないのなら、去れ!」


「朔殿」

 宗治は脇差の切っ先から目を離さず、静かに言った。


「致し方なし。私が主の宝を損じるわけにはございません」

 宗治は、鳥の鳴き声のような、鋭い口笛を吹いた。


 次の瞬間、村の物陰から、農夫と職人のなりをした五人の男たちが、静かに、音もなく姿を現した。

 宗治が率いる、潜伏していた忍びであった。


 ◇◇◇◇


 天からの矢、不運の炎

 沢西村を見下ろす、鬱蒼うっそうとした木々の上。

 ジノは、配下の山窩の戦士たちに、無言で合図を送った。


 沢西村の防御壁を猛攻する相沢玄蕃の雑兵は、恐怖に駆られる徴集兵を背中から追い立てる相沢の郎党によって、かろうじて統制が保たれていた。


 山窩の戦士たちの狙いは、その恐怖の源である郎党たちであった。

「放て」


 短い号令。矢が、唸り声もなく、木々の間を裂いた。


 一人目の郎党の、喉元に風穴が開いた。声もなく、口を二度三度と開閉させ、両手を広げ、地面に前のめりに倒れる。


 二人目は、胸板を射抜かれる。彼は、己が放ったはずの刀を握りしめたまま、その場に棒立ちになった。膝から力が抜け、ゆっくりと土に崩れ伏す。

 三本目の矢は、鎧の隙間、脇の下から深く食い込んだ。

 四本目は、頭の鉢金はちがねのすぐ下、首筋を射抜く。

 男たちは、悲鳴を上げる間もなく、崩れ落ちた。


 山窩さんかの放つ矢は、里の弓とは違う。それは、獲物の急所のみを狙い、即座に静寂をもたらした。


 徴集兵を駆り立てていた「圧」は、突如として消え失せた。彼らを縛るものが、もはや何もない。

 彼らの戦意は、一瞬にして、砂のように崩壊した。


 この混乱を、破られた村壁で鬼神の如く奮戦していた名主・源吾げんごが見逃すはずはなかった。彼の左腕には、丸太の直撃による深い傷を負っていた。


「権六玉は、まだあるか!」

 源吾は荒い息の中、叫んだ。村人が、「応!」と返し、最後の陶器の塊を、投石紐に結びつける。


「今だ!投げろ!」


 彼の号令一下、最後の「権六玉」が、相沢の本隊めがけて投石紐で放たれた。

 放物線を描いて飛翔する陶器の塊。

 しかし、戦場には、時に計算外の不運が訪れる。

 混乱の中で、一本の槍が、偶然にも投げ上げられた。その穂先が、空を飛ぶ権六玉に、触れた。


 キン、という微かな音。

 玉は、敵陣の遥か手前、源吾たちが守る壁の上空で炸裂した。


 轟音。閃光。


 火薬の燃える臭いが、血と硝煙を上書きする。次の瞬間、細かな鉄片と陶器の破片が嵐のように降り注ぐ。

 村壁を巡って戦っていた者たちを無差別に薙ぎ払った。


 源吾は、全身から血を噴き出し、最期の言葉を発する間もなく、目の光を失わせた。

 しかし、彼の身体は、鉄片に貫かれながらも、崩れ落ちた木壁の隙間に、頑として立ちふさがっていた。死してなお、その威厳が、村への侵入を許さなかった。


 予期せぬ爆発の閃光と轟音は、もはや統制を失っていた徴集兵たちに決定的な恐慌をもたらした。彼らは、目の前で起きた地獄のような光景に、戦意を完全に失う。


 農具を捨て、蜘蛛の子を散らすように、森へと逃げ出した。相沢の軍は、瓦解した。


 ◇◇◇◇


 沢西村へ続く道、その脇の森の中。血の臭いと、湿った土の臭いが濃い。

 玄斎は、右ふくら脛から血を流し、息も絶え絶えであった。甚兵衛じんべえが、その背後を、長槍を構えて守る。


「……もはや、これまでか」


 玄斎は、しゃがれた声で呟いた。戦場の無常を知る老武人には、潔い諦観ていかんが漂っていた。

 相沢の精鋭部隊十数名が、止めを刺そうと、輪を縮めてくる。


 その時、甲高い声が森に響いた。


「相沢玄蕃!」

 敵兵が振り返ると、そこには、水江村の残存兵を率いた朔が、脇差を抜き、立っていた。弥平たちが、その後ろに控えている。


「朔!来るな!」


 玄斎が、しゃがれ声で怒鳴った。しかし、朔は玄斎を一顧だにしない。


「貴様の相手はこの俺だ、相沢!」

 朔は、憎悪と狂気に満ちた相沢を睨みつける。


「この村から全てを奪った野盗が、今度は俺の師まで奪うか!」

 朔は、自らが最も弱いと知る肉体を盾にした。狂犬の注意を自分に向ける、捨て身の挑発であった。


 この一瞬の隙を、宗治は見逃さなかった。

 合図と共に、宗治と五人の忍びが、幽霊のように木々から現れた。


 彼らの戦いは、音を立てない。宗治は、玄斎を取り囲む敵兵の背後に回り込むと、暗器あんきを使い、静かに、敵の急所を突いた。


 相沢の最後の郎党衆が、音もなく崩れ落ちていく。

 甚兵衛が、その技に驚愕する。


 宗治は、玄斎への血路を開くと、甚兵衛に無言で頷いた。その目には、冷たい光があるのみ。

 甚兵衛は、即座に負傷した玄斎を担ぎ上げた。


「儂を、て置け!」

 玄斎が、しゃがれ声で怒鳴る。


「なりませぬ! わしを、玄斎様が拾うてくださった。その恩、忘るるわけにはまいりませぬ」


 甚兵衛は、玄斎の体を抱え、血の道を辿りながら、戦場からの離脱を開始した。


 ◇◇◇◇


 相沢玄蕃の狂気は、既に部下の壊滅も、玄斎の逃亡も忘れ去っていた。彼の憎悪は、ただ一点、朔にのみ集中する。


「朔ゥァァア!」


 相沢は、部下を置き去りにして、たった一人、朔へと突貫した。彼は最早、伊丹家の重臣ではない。一匹の壊れた獣であった。


 朔は、相沢の突進を認め、その場に踏みとどまる。脇差を抜き、玄斎から教わった念流の型を、懸命に構えた。


 相沢は、痩せた顔に憎悪を張り付かせ、叫んだ。

「おのれ、朔!あの徴税の際、お主が大人しくしておれば!権爺ごときが死ぬることも、文吾が恥を晒すこともなかった!お前の知恵は、我が主家しゅけの為に使うべき富であった!それを盗み、暴走させ、この相沢を、摂津のかなめたるこの相沢を、ここまで追い詰めたのは貴様だ!すべてお主のせいで、わしは三好の付け入る隙を与えたわ!朔!お前は厄災そのものよ!」


 相沢は、痩せた頬を痙攣させる。

「この地獄は、お前が作ったのだ!お前さえいなければ、野間のまに屈辱を受けることもなかった!お前さえいなければ、当方の命運は安泰であった!お前さえ!お前さえ!」


 朔は、血にまみれた相沢の姿を、ただ冷たく見据える。


「己の愚かな欲を、他者に転嫁するな。相沢。貴様がこの村を、ただの蔵の肥やしとしか見なんだ。その勘定違いが、自ら墓穴を掘ったのだ」


 相沢は、怒りに目を血走らせ、刀を振り上げた。

「言わせておけば!」


 ◇◇◇◇


 朔は、その姿を認め、その場に踏みとどまる。


 彼は、玄斎から教わった念流の型を構える。脇差は、護身のために玄斎が教え込んだ、斬るためではなく、仲間が助けに来るまで生き延びるための守りの剣の型である。小柄だが引き締まった手足が、脇差を必死に支える。


 憎悪に満ちた手練れの武人に対し、敵うはずもなかったが、朔はただ、耐えることに徹した。


 相沢の刃が袈裟懸けに頸部に振り下ろされる。朔は脇差を両手で握り締め、刃の腹で、相沢の斬撃を受け流すことに徹した。


 キィン。


 鋼が泣くような、甲高い音。脇差の刃は、相沢の太刀の重みに耐えきれず、中間からあっけなく折れた。朔の身体は、その衝撃で大きくよろめく。


 相沢は、朔の脇差が折れたことに、歓喜と驚愕がないまぜになった表情を浮かべた。次の、決定的な一撃を放とうと刃を返した、その一瞬であった。


 横から、土と汗にまみれた影が飛び出した。弥平である。

 彼の動きに、洗練された武術の技はない。


 ただ、数ヶ月にもわたる厳しい訓練で培われた、全身の力を込めて突き出す、長槍の単純で力強い一撃。

 槍の穂先は、相沢の胴当ての隙間を貫き、その脇の下を深々と抉った。


 相沢の動きが、ぴたりと止まる。

 彼の顔に浮かんだのは、驚愕、そして凡百の百姓に貫かれた屈辱という信じられない表情であった。


 彼は、口をパクパクと開いたが、声は出なかった。代わりに、ゴボりと生温かい血の塊を吐き出し、崩れるように大地に倒れ伏し、絶命した。

 弥平は、相沢の死体を見下ろし、やがて朔の方を向き、ただ無言で、しかし力強く頷いた。


 ◇◇◇◇


 戦場は、負傷者の呻き声と、遠くで逃げ惑う雑兵の足音を除けば、静寂に包まれていた。

 朔は、弥平に支えられ、相沢玄蕃の亡骸を見つめた。


 相沢が最後に吐いた言葉が、朔の脳裏でこだましていた。

『お前さえいなければ』


 この男は、朔が転生したことで、最も運命を狂わされた人間かもしれない。

 一介の徴税吏であったはずの人生を、見知らぬ未来の知識が呼び起こした富と権力への渇望が、狂気の果てに破滅させたのだ。


 朔は、自らの知恵が招いた、この男の無残な死の重みを噛み締めた。歴史を変えるとは、個人の人生を無慈悲に踏みにじることだ。その業を、十三歳の少年は、孤独に背負うしかなかった。


 勝利の昂揚こうようはない。ただ、深い空虚感があるだけ。

 山窩のモロの知らせにより、沢西村の名主・源吾が、最後の権六玉の不運な炸裂によって命を落としたことを知った。同盟の血塗られた代価であった。


 甚兵衛たちに担がれた玄斎は、足の負傷で歩けぬが、意識ははっきりとしていた。

 朔の視線は、戦場の向こうで、静かに暗器クナイの血をぬぐっている、塗師の宗治のそれと交錯する。


 その視線が交錯した一瞬、朔の背筋に、氷を流し込まれたような冷たい戦慄が走った。宗治の瞳は、松永の遠い手が、既に村の秘密、己の心臓まで握り込んでいることを告げていた。


 忍びの目に、賞賛の色はない。あるのは、冷徹な、値踏みの光のみであった。

次回、最終話。

※活動報告に、次回作の予告を投稿しました。思いつきなのでちゃんと形になるかというのはあるのですが、予告して自分の尻を叩きます!

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