水江村の戦い(上)
天文九年七月下旬。地平線が、朝の弱い光に照らされていく。
風は生暖かい。川の湿気を孕んでいた。
朔は物見櫓の最上段に立っていた。白い木肌の壁に、汗で濡れた掌を押し付けている。
隣には、朽木玄斎が立つ。
玄斎は、眼下を流れる土煙の塊から目を離さず、静かに呟いた。
「…三百、か」
朔の呼吸は浅い。彼はただ、眼下の敵の組成を計算していた。彼はこの軍勢の頭脳であり、玄斎こそがその剣であり盾なのだ。
眼下、伊丹領との境に広がる枯れた野に、土煙が湧いていた。およそ三百。相沢玄蕃の軍勢が、まるで飢えた蝗の群れのように、隊列も乱れたまま押し寄せてくる。
相沢は理性を失っていた。彼の軍は兵ではない。恐怖と憎悪に駆られた、虚ろな軍勢であった。
相沢は門から矢の届かぬ距離で、馬を止めた。供の者に緋の毛氈を敷かせ、その上に粗末な床几を据える。
「水江の小僧!」
相沢の声は、威圧的だが、僅かに上ずっていた。
「貴様ら暴徒の所業、伊丹家への反逆だ。相沢玄蕃が、今こそ裁きを与えてくれる!」
朔は門の上から相沢を冷ややかに見下ろした。その声は、相沢の怒声とは対照的に、平坦で感情がなかった。
「お上が、飢えた百姓を殺し、略奪で銭を稼ぐものか。相沢、貴様は野盗も同然だ!」
朔の声は、低く、静かだ。
「もはや野盗にくれてやる米一粒たりともない。皆、敵は烏合の衆。一歩たりとも村に入れるな!」
相沢は床几の上で、持っていた刀の柄を掴む手にぐっと力を入れた。屈辱が怒りを上回る。
「…無駄口を叩くな!奴らを叩き潰せ!」
相沢は叫び、床几を蹴り倒した。総攻撃の合図である。
玄斎は顎の無精髭をなでる癖を出した。その様子を一瞥し、鼻で笑う。
「儂には、飢えた犬どもにしか見えぬわ」
しゃがれた声が、朔の背中に向けられた。
「恐れるな、朔。奴らの士気は、背後の刀にしか宿らぬ」
朔は緊張で喉の奥が張り付くのを感じた。
「弥平。指揮は玄斎に任せる」
朔は背を向けず、簡潔に命じた。
「承知!」
弥平の分厚い身体が、威勢の良い返答と共に、城壁へと急ぐ。
◇◇◇◇
徴集兵たちは、相沢の郎党によって前線へと駆り立てられていた。武者押しの「鋭!応!鋭!応!鋭!応!」という絶叫が、恐怖を振り払うように虚しく繰り返される。
足がもつれて転ぶ者がいる。目をつぶりながら、槍のように農具を突き出す男もいた。彼らは門を破壊するための丸太を担がされた。堀を埋め、防御側の矢弾を消費させるための「肉壁」であった。
相沢は憎悪の中心である水江村への総攻撃を命じた。
「弓、火矢にて村を焦がせ!」
相沢側から、弓兵が低く射掛けた。火矢は村の屋根を狙う。だが、女子供が噴霧器を操り、むしろや土壁に向けて水を噴射する。火はつくが、すぐに鎮火した。
女子供たちは、投石紐で堀の縁の敵兵を狙う。その時、鋭い叫びが上がった。相沢側の弓兵が、正確に木壁の隙間を狙い、投石紐を扱う女を射抜いたのだ。
女は血を噴き、壁から崩れ落ちる。周囲の女子供たちは、恐怖で壁から顔を出せなくなった。投石は、効果を発揮しない。
やがて丸太を担いだ一団が堀に殺到し、門へと肉薄した。
その瞬間を、玄斎は逃さなかった。
「いまだ!」
玄斎の怒声が、風に乗って響いた。
門の真上。弥平の合図で、村の切り札である「権六玉」の最初の一発が、投石紐で投げ込まれた。
凄まじい轟音と、眼を焼く閃光。地鳴りのように土が震える。
陶器の容器が炸裂し、火薬と細かな鉄片が周囲を薙ぎ払った。丸太を担いでいた男の一人の、眼の前の顔面が、血と肉塊となって一瞬で消え去る。隣にいた男は、呻き声を上げる暇もなく、顔中に無数の鉄片が突き刺さり、そのまま崩れ落ちた。辺りには、肉の焼けるような匂いと、硝煙の酸っぱい匂いが立ち込めた。
人垣は崩れ、生き残った徴集兵たちは恐慌をきたして逃げ惑う。
しかし、後方では相沢の郎党衆が、逃げる者の背中を容赦なく斬り捨てていた。
「進め!進まぬ奴は、ここで死ね!」
武者押しの「鋭!応!」という絶叫が、恐怖が恐怖を上回り、百姓たちは再び門へと押し寄せる。彼らの士気は、いまだ背後の刀に支えられていた。
「もう一発!」
玄斎は間髪入れずに命じた。
二発目の権六玉が、再び恐怖の中心で炸裂した。
二度の爆発の惨状は、兵たちの戦意を完全に砕いた。もはや後備の兵の脅しは効かない。
玄斎の傍らにいた、相沢の側近であった元足軽が、顔を青ざめさせたまま進言した。
「相沢様。これ以上の深追いは、兵の全てを失います。一度、体勢を立て直すべきかと」
相沢は、煮え湯を飲まされた顔で、それを許した。水江村の攻略は不可能だと悟った。
遠くで、悔恨に満ちた撤退の鐘が鳴った。
◇◇◇◇
本陣の相沢玄蕃は、刀の柄を握る手にぐっと力を入れていた。指の骨が白く浮き上がり、憎悪に顔が引き攣る。
憎悪の対象である朔を前にして、何もできずに兵を消耗させた事実が、彼の自尊心を深く傷つけた。
「三好の若造がこれから押し寄せてくると言うに、あの百姓どもが、あのように…!」
彼は理性を失っていたが、郎党たちの冷徹な視線から、水江村への正面攻撃が全てを失う愚策であることを悟った。
相沢は唾を吐いた。彼の狂気は、すぐに次の非情な算段へと転じる。
「砦は、叩き潰すものではない。干し殺せば良い」
彼は非情ではあるが、現実的な決断を下した。
「標的を変える。沢西村へ向け、進路をとれ!こうなれば、沢西を火の海にして、奴らを巣穴からおびき出してくれよう」
目的は二つ。飢えた軍勢のための食料略奪。そして、水江村を精神的に孤立させるための見せしめである。
沢西村のささやかな物見櫓。名主・源吾は、遠くの戦闘の様子を凝視していた。
水江村の狼煙は上がらない。辛うじて退けたのか。そう安堵しかけたその時、土煙の塊が、水江村を迂回し、自らの村へと向きを変えるのを見た。
源吾の心は絶望に沈んだ。沢西村の防御は水江村に劣り、訓練も不十分であった。彼は腰に差した脇差に、静かに手を添える。飢饉から村を救ってくれた朔への恩義と、これから訪れる悲劇の予感が、彼の胸を焼いた。
その直後、ジノ配下の山窩の伝令が、水江村の門に駆け込んだ。
「狼が、標的を変えた!」
櫓の上で報告を聞いた朔は、即座に相沢の狙いを理解した。机上の分析が、恐るべき現実となった瞬間であった。
朔の築いた同盟圏は、防衛システムの均一化が完了する前に、最も弱い部分を突かれてしまった。水江村の安全は、沢西村の危険を増大させたのだ。
◇◇◇◇
沢西村への攻撃は、即座に、無慈悲に開始された。
源吾は、長年の苦労が刻まれた顔を上げた。彼は、父としての愛情と、村の長としての威厳を胸に、防衛の指揮を執った。
壁の裏では、彼の息子、彦太が立っていた。
「彦太」
源吾は、荒い息の中、息子の肩に手を置いた。
「おっかあと、妹のおふくを連れて、村の裏から逃げろ」
彦太は、おっとうの覚悟を悟り、顔を歪ませた。
「おっとうも、一緒に…!」
「ならん」
源吾は断定した。声は震えなかった。
「わしは名主だ。皆が逃げる時間を稼がねばならぬ。いいか、おふくはまだ四つだ。おっかあが怯えたら、お前が手を引け。必ず、二人を守れ。約束だ」
彦太は、ただ、目をつぶり、深く頷いた。涙はなかった。おっとうの言葉の重さが、少年を戦士に変えたのだ。
源吾は、壁の上へ駆け上がった。
徴集兵の第一波が殺到する。源吾の合図で、女子供が投石紐で応戦する。
陶器の榴弾が敵陣で炸裂し、鉄片と轟音が一時的な恐慌を引き起こした。
しかし、相沢の郎党は執拗であった。武者押しの「鋭!応!」という絶叫が、幾度となく木霊する。彼らは怯む者を斬り殺し、恐怖に駆られた徴集兵を、前方の敵ではなく背後の味方を恐れる死兵へと変える。
圧倒的な数の前に、沢西村の壁は軋み始め、男たちが引きずり下ろされ殺されていく。
源吾は持ち堪えられないことを悟り、二発目の権六玉の使用を命じた。
轟音と閃光。今度の権六玉は、壁に肉薄した敵兵の真上で炸裂した。爆風は敵を薙ぎ払う一方、壁の木材にも衝撃を与えた。
壁の分厚い木に、ビシリと嫌な音が走り、中央部に大きな亀裂が入るのが見えた。
この亀裂を相沢の兵は逃さない。丸太を担いだ集団が、亀裂目掛けて一斉に突撃する。
メキメキと、木がひしゃげる凄まじい音が響き渡る。壁が破られ、敵兵がなだれ込もうとする、その寸前であった。
これで残弾は、一発のみとなった。
壁が破られる寸前、源吾は朔が授けた最後の策を決行する。
「投げろ!銭だ!」
壁の上から、大きな袋が、飢えた徴集兵の群れの中へ投げ込まれた。
袋は破れた。中から飛散したのは、石ではない。無数の銅銭に豆板銀と小粒金が混じ、泥の上を転がった。
その効果は、雷よりも速やかであった。
飢え、報酬も与えられぬ徴集兵たちは、一瞬で戦を忘れ去る。彼らの瞳は、目の前の確かな銭の光に捉えられた。
「銭だ!」
「その金は俺のものだ!」「よこせ!」
武器を捨て、彼らは銭を奪い合う醜い乱闘を始めた。攻撃は、混沌の内に停止した。
この一瞬の隙。命運を分けた。
源吾は最後の指示を出した。あらかじめ仕掛けられていた火薬が村の裏手の壁で炸裂し、女子供のための逃げ道を作り出す。
同時に、村で最も高い物見櫓に火が放たれた。救援を求める黒煙の狼煙が、天を突いた。
源吾と残った男たちは、村人たちが逃げる時間を稼ぐため、決死の殿軍を務めた。
◇◇◇◇
水江村の櫓の上。朔は、遠い山脈を背に立ち上る、黒煙の狼煙を認めた。
彼の平静は、崩壊した。
計画が破綻した。同盟者が死んでいく。十三歳の少年としての彼の最初の衝動は、槍を掴み、自ら戦場へ赴くことであった。
「俺が行く!」
朔は叫び、櫓を駆け降りようとした。
しかし、その体は朽木玄斎と弥平によって、物理的に制止された。
玄斎の声は、怒声にも似た厳しさであった。
「大将が火事場に駆けつけるものではない!お主は頭だ。頭を斬られれば、胴は死ぬ。これは遊びではないのだぞ!」
弥平は、朔の両肩を、岩のような力で押さえつけた。
「朔、おめえは田のことは知っていても、太刀のことは知らねえ。ここはおらたちに任せろ」
二人の言葉は、朔の胸に、彼の若さと、戦闘経験の欠如という限界を突きつけた。彼は、顔を歪ませながら、戦場へ向かう衝動と、為政者としての冷徹な役割との間で引き裂かれた。
彼は、悔しさと怒りを、静かに呑み込んだ。
「分かった」
朔は呼吸を整え、冷たい、しかし確かな声で命じた。
「玄斎、指揮は任せる。甚兵衛を先頭に、精鋭三十名の手勢を選び、沢西村を救援せよ」
玄斎は、一言もなく頷いた。
甚兵衛を含む精鋭三十名の男衆が、静かに編成されていく。彼らは、村の手勢であった。
出立の直前、玄斎と朔は視線を交わした。言葉は不要。それは、恐るべき危険を承知の上での、絶対的な信頼の委譲であった。
◇◇◇◇
玄斎率いる手勢は、両村を繋ぐ森の中を急進する。
空気は、静まり返りすぎていた。夏の森には、鳥の鳴き声すら響かない。玄斎は顎の無精髭をなでる癖を出しつつ、異常な静寂を警戒した。相沢が、水江村の防衛力を見誤っただけの愚者ではないことは、既に証明されていた。
相沢は、水江村が必ず援軍を送ることを予測していた。相沢が雇った武者が、道沿いの深い森の中に潜んでいたのだ。
「かかれ!」
伏兵が一斉に襲いかかる。木々の間から矢が放たれ、相沢が雇った武者が手勢の側面へと突撃した。
規律の取れた水江村の陣形は、一瞬で崩壊し、戦いは敵味方が入り乱れる乱戦へと突入した。
手勢の切り札である「権六玉」は、味方を巻き込む危険が大きすぎるため、使用不能に陥った。村の技術的な優位は、この戦場の混沌の前に、一瞬で無力化されたのだ。
視点は、朽木玄斎に固定された。彼は五十五歳。念流の達人である。
「佐山、抜かるな!」
玄斎は名も知らぬ敵兵の叫びを鼻で笑い、その刀を半身で避け、抜き打ちに斬った。
左から躍りかかる郎党の左頸部の急所をはね斬りざま、絶叫をあげて倒れるのへ見向きもせず、囲いから抜け出る。
「やあっ!!」
距離を詰められた男が、慌てて玄斎の頭上から刀を打ち下した。
腰を落して、その刃風を頭上にながした玄斎が郎党の脚を斬りはらい、入れちがいに背後に抜け、別の一人は顎から喉元を斬り割られ、絶叫をあげた。
玄斎の剣は閃光であった。
迫りくる相沢の郎党を、五人ほど、瞬く間に斬り伏せる 。彼の周囲だけ、血風が舞い散り、鉄のすえた匂いが一段濃くなる。
だが、敵の数はあまりにも多い 。元足軽の甚兵衛が、無表情のまま、玄斎の背後に周り、死闘を続ける 。
玄斎が郎党の胴を切り払い、次の一撃に備えたその瞬間。
三方から同時に繰り出された槍が、玄斎に繰り出される。玄斎は、一本を刀で穂先を切り払い、一本を身を捩じって避けた。しかし、最後の一本が玄斎のふくら脛を深く突き刺した 。
玄斎は地に縫い付けられ、くぐもった声をあげる。甚兵衛が、雄叫びを上げて彼をかばう。
雲が日を隠し、薄暗い森が一層と闇を濃くしていた。玄斎の周囲に、相沢の兵たちの輪が縮まっていく。
逃げ場は、ない。




