蝗の雲
天文九年(1540年)七月。摂津の空は、鉛を溶かしたように重く垂れこめていた。
伊丹城の大広間は、むせかえるような熱気が淀んでいる。風は死に、障子の向こうで蝉の声だけが狂ったように響いていた。
使者が突きつけた書状。それは、伊丹家が宿敵・細川氏綱と内応を約した密書であった。無論、偽書である。だが、そこには伊丹家の普請奉行、相沢玄蕃の筆跡が、あまりにも見事に写し取られていた。
「…親興殿。上様の御下命は、ただ三つ」
使者の声が、静寂を切り裂く。
「御嫡男に家督を譲り、即刻隠居されること。尼崎城、花隈城を明け渡すこと。そして、兵糧五千石を献上すること。いずれも、聞き入れられぬとあらば…」
言葉が、途切れる。なれど、その続きは誰の耳にも明らかであった。三好長慶を総大将とする、懲罰の軍が差し向けられる。
使者の言葉は、松永久秀が仕掛けた偽書――伊丹家が宿敵・細川氏綱と内応しているという密書――を、晴元が真に受けた結果であった。事実上の、最後通牒である。
重い沈黙が、蝉の声を一層際立たせる。
「……臣下とも、相談の上、ご返答いたしたく存ずる」
親興は、ようやくそれだけを絞り出した。
「今日は、下がられよ」
「よろしいでしょう。なれど、返答に時をかけるは、上様の御意に背くことと、お含みおきくだされ」
使者は冷たく言い放ち、音もなく立ち上がると、広間を去っていった。
足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなっても、誰も動かなかった。やがて、親興の視線が、末席に座る一人の男に突き刺さった。
「玄蕃……」
親興の声は、怒りよりも、すがるような響きを帯びていた。
「この期に及んで、申し開くことはあるか。そなたのせいで、伊丹家は……!」
「は……」
玄蕃は額を畳にこすりつけたまま、身じろぎもしない。弁明など、もはや意味をなさぬ。主君の目には、己が全ての元凶と映っている。譜代の家臣たちの視線には、あからさまな侮蔑の色が浮かんでいた。ここで生き延びる道は、一つしかない。
「……申し開きなど、滅相もございませぬ。この玄蕃、万死に値しまする」
声は震えていた。しかし、それは恐怖からだけではなかった。屈辱と、心の奥底で燃え盛る憎悪のためであった。「なれど、このまま伊丹家が滅ぶを、座して待つことなどできませぬ。どうか、この玄蕃に、戦支度をお命じくだされ。身命を賭して、三好の軍勢を迎え撃つ所存にございます!」
親興は言葉を失った。他に策など、あろうはずもない。彼は、目の前の男が差し出した泥の船に、乗るしかなかった。
「……許す。好きにせよ」
絞り出すような声であった。玄蕃は深く頭を下げた。その顔を上げた時、彼の目にはもはや何の感情も浮かんでいなかった。ただ、底なしの闇が広がっているだけだった。
◇◇◇◇
異変に、最初に気づいたのは鳥であった。
空を舞っていた雲雀が、鳴き声も立てずに姿を消した。
次に、風が音を変えた。
夏の生暖かい風ではない。
はじめは、遠雷のようなくぐもった響きだった。やがてそれは、乾いた葉がどこまでも擦れ合うような、さわさわとした音に変わる。肌が、粟立った。
水江村の田を見回っていた弥平が、最初に空を見上げた。
「……なんじゃ、ありゃあ」
西の空が、黒い染みで汚れたように、またたく間に色を変えていく。染みは生き物のように蠢き、村の方角へ向かってきた。ざわざわという音が、ごうごうという地鳴りのような羽音に変わっていく。
はじめは、遠い雲かと思った。だが、その雲は陽光を浴びて、きらきらと白く輝いている。まるで、真夏に降る雪のようだ。
見る間に、その雪雲は黒い闇に変わった。
太陽が、喰われたのだ。日蝕のごとき、不気味な薄闇が地上を覆う。
ぱらぱらと、何かが屋根を叩く音がした。すぐに、それは雹のような激しい音に変わる。ばたばたと、何かが顔に、腕に、叩きつけられた。
蝗だ。
弥平の足元に落ちた一匹が、すぐに飛び立つ。また一匹。次には、もう数え切れぬほどの黒い粒が、地面を跳ねている。
「…来たか」
物見櫓の上で、朔が呟いた。彼の声に、恐怖の色はない。
ただ、来るべきものが来たという、冷たい認識があるだけだった。
轟音が、村を包む。
見渡す限り、空も、地も、蝗で埋め尽くされている。羽音の轟々と、無数の顎が草を喰む、ぞっとするような低い軋り音が、世界を支配していた。天が遣わした、「蝗の雲」であった。
村人たちの顔から、血の気が引く。一昨年の「雲霞」とは、比べものにならぬ。あれが、人の世の終わりというものか。
「弥平!」
櫓から、朔の鋭い声が飛ぶ。
「第一隊、沢西村との境へ!源吾殿の隊と合流しろ!」
「彦太!お前は第二隊を率いて、村の西側だ!」
彼の指示は、淀みなく、的確であった。村の男たちが、次々と納屋から鞴式噴霧器を運び出す。
女や子供たちは、桶に除虫効果のある薬液を汲み、走り回る。
その顔には焦燥の色が浮かんでいる。だが、その動きに乱れはない。それは、地獄のような光景であった。しかし、その地獄の中に、確かな秩序があった。
「薬液、薄めるな!原液のまま使え!」
朔の指示が飛ぶ。弥平も、源吾も、そして沢西村から来た彦太も、それぞれの持ち場で声を張り上げる。かつていがみ合っていた二つの村は、今や一つの軍隊のように、整然と動いていた。
緑の稲穂が、一瞬にして黒い塊に変わる。ざわざわと、まるで野火が燃え広がるような音を立てて、稲が根元まで喰い尽くされていく。弥平が思わず落とした鍬の柄にまで、蝗が群がり、がりがりと木を削る音が聞こえた。
「放て!」
号令一下、十数台の噴霧器から、白い霧がしゅう、と音を立てて噴射された。蓬、魚油と樟脳、そして唐辛子を煮詰めた、強烈な臭いを放つ自然農薬。霧を浴びた蝗は、痙攣し、次々と地面に落ちていく。
なれど、蝗の数は無尽蔵であった。落ちた蝗を踏み潰し、新たな群れが稲穂に食らいつく。
噴射する。落ちる。また、次の群れが来る。
それは、終わりなき消耗戦であった。
村人たちの顔に、疲労と絶望の色が浮かぶ。だが、誰も持ち場を離れなかった。櫓の上から全てを見つめる、あの十三歳の少年の存在が、彼らの心を支えていた。あの童は、この地獄が来ることを知っていた。そして、戦う術を知っていた。その事実だけが、彼らの最後の砦であった。
夜を徹した戦いの末、夜明けの光が差す頃。あれほど空を覆っていた蝗の雲は、東の空へと去っていた。
水江村と沢西村の田は、ところどころ葉を喰われてはいたが、そのほとんどが青々とした姿をとどめていた。奇跡であった。だが、その奇跡の代償に、村人たちは泥の中に倒れ込み、身じろぎ一つできなかった。村の周囲、見渡す限りの田畑は、まるで冬が来たかのように、土の色を剥き出しにしていた。いや、違う。地面は、うごめく蝗の死骸で黒く覆われ、小川の水は、その体液で茶色く濁っていた。
◇◇◇◇
相沢玄蕃は、自らの領地に戻り、言葉を失った。そこには、何もなかった。
青々と実っていたはずの稲は、根元まで喰い尽くされ、ただの泥濘が広がっているだけだった。
伊丹城で受けた屈辱。譜代の家臣たちの嘲笑。そして、この壊滅的な光景。玄蕃の中で、何かがぷつりと切れた。
彼の思考を支配するのは、もはや自己保身への異常な執着と、全ての元凶である朔への、煮えたぎるような憎悪だけであった。
「…集めろ」
玄蕃は、乾いた声で供回りの者に命じた。
「……申し上げます。村には、もはや戦に出せるような若者はおりませぬ。いるのは、病の者と、餓えた子供ばかりにございます」村の長老が、震える声で訴えた。
玄蕃は、馬上から冷ややかに長老を見下ろした。返事は、なかった。彼はただ、顎でくいとしゃくった。側に控えていた配下の足軽が、音もなく長老の背後に回り、その首を刎ねた。悲鳴すら、上がらなかった。百姓たちは、ただ恐怖に凍りついている。
「聞こえなかったか」玄蕃の声は、乾ききっていた。「戦支度をせい、と申したのだ。一人残らず、だ。それができぬ者は、今すぐこの場で死ね」
彼の目には、狂気が宿っていた。主君に裏切られ、家中で孤立し、その全ての元凶である朔と水江村への憎悪だけが、彼を突き動かしていた。領民は、もはや彼の財産ではなかった。
自らの破滅を回避するための、最後の燃料にすぎなかった。恐怖に駆られた百姓たちが、鍬や鎌を手に、亡霊のような列をなして集められていく。
「…水江村と沢西村にも、使いをやれ」
玄蕃は、血糊のついた刀を鞘に収めながら、吐き捨てるように言った。
「人夫五十を、即刻供出せよ、と」
その狂気の徴兵の使者が、水江村に現れたのは、蝗との戦いが終わった、まさにその日の昼過ぎであった。
◇◇◇◇
「――お上からの、ご下知である! この村の男衆は、ただちに作業をやめ、人夫として出頭いたせ!」
水江村のはずれ。蝗との戦いが続く混乱のさなか、馬を乗りつけた使者の声は、横柄に響き渡った。具足をつけた足軽二人を脇に従えている。
村人たちの動きが、ぴたりと止まった。誰もが、唖然として使者を見ている。この、村の存亡がかかった時に、何を言うのか。
人垣を分け、朔が静かに前に進み出た。その隣には、いつの間にか朽木玄斎が音もなく立っている。
「…帰れ」
静かな、しかし芯の通った声が響いた。声の主は、櫓から降りてきた朔であった。
使者の男が、侮蔑の笑みを浮かべる。
「なんだ、この童は。大人の話に口を出すな」
「聞こえなかったか」
朔は、使者の目をまっすぐに見据えた。
「この村は、今、生きるか死ぬかの瀬戸際だ。戦どころではない。人夫など、一人も出せぬ」
「…ほう。この期に及んで、公儀に逆らうか」
使者の目が、険しくなる。
「よかろう。ならば、力ずくで…」
使者の言葉は、最後まで続かなかった。朔が、その言葉を遮ったからだ。
「玄斎」
朔は、静かに言った。
「斬れ」
その二文字の命令に、玄斎は驚きもせず、ただ静かに頷いた。
彼が育てた若者が、ついに感傷を捨て、自分と同じ非情の世界に足を踏み入れた。
その覚悟を、玄斎は確かに受け取った。
次の瞬間、玄斎の姿がかすんだ。抜き放たれた太刀が、夏の陽光を反射して一閃する。使者の首が、宙を舞った。胴体が、ぐらりと揺れて馬から落ちる。あっけにとられていた足軽二人が、はっと我に返って槍を構えようとした。だが、それよりも早く、玄斎の刃が二人の喉を切り裂いていた。
朔は、その光景を、瞬きもせずに見つめていた。自らの命令で、人が死んだ。その事実が、十三歳の少年の肩に、重く、冷たくのしかかる。なれど、後悔はなかった。
血飛沫が、乾いた土を赤黒く染める。村人たちは、息を呑んでその光景を見つめていた。羽音と、風の音だけが、あたりを支配していた。
朔は、三つの骸に一瞥もくれず、再び村人たちに向き直った。その表情から、感情は消え失せていた。
「作業に戻れ。敵は、まだ空にいる」
その声は、血塗られた現実を支配する、君主のそれであった。
◇◇◇◇
越水城の一室。松永久秀は、文机の上で二通の書状を静かに見比べていた。一つは、伊丹家中の譜代家臣から届いた、こちらの調略に応じる旨を記した密書。もう一つは、水江村に潜入中の密偵・宗治からの報告書であった。
――蝗害、当村ニ被害ナシ。噴霧器ト称スル奇妙ナ道具ニテ、コレヲコトゴトク退ケル。本日、相沢ノ使者ヲ斬殺。村、完全ニ臨戦態勢ニ入ル。
久秀は、二つの報告書を交互に見比べ、やがて口の端をかすかに吊り上げた。それは、極上の茶器を愛でる数寄者の笑みにも似ていた。




