権六玉
天文九年(一五四〇年)四月下旬。
三好長慶の居城、越水城の一室。
磨き抜かれた床板が、春の光を鈍く弾く。
その一室は、沈香のかすかな香りが立ちこめていた。
酒宴、というには、あまりに静かすぎた。
膳の上には、季節の菜と、焼かれた川魚が品よく並んでいる。酒は、澄み切った諸白だ。
主座にいるのは、松永久秀。武人というよりは、公家か高僧を思わせる、痩身の男だ。その切れ長の目の奥に、底の知れぬ光が宿る。
成り上がり者、相沢玄蕃に受けた屈辱が、まだ腹の底で燻っている。
「野間殿。此度の知行替え、まこと大儀であった」
久秀は、静かにいった。その声は、物腰と同じく、どこまでも柔らかい。
対する野間長久は、武骨な体躯を固くしたまま、杯を口に運んだ。伊丹家譜代の家臣であった己が、三好に鞍替えしたのだ。その杯に残った酒を、彼は重いもののように見つめていた。
「……松永殿のご尽力の賜物。感謝申し上げる」
声には、棘があった。
久秀は、気にした風もなく、薄く笑みを浮かべた。
「いやはや。伊丹の家も、傾きましたな」
ぽつり、とつぶやく。
「貴殿のような忠臣を手放し、銭勘定しか能のない小役人を重用するとは」
長久の眉が、ぴくりと動いた。相沢玄蕃。あの成り上がり者の名を聞くだけで、腹の底が煮えくり返る。先頃、所領で受けた屈辱は、骨身に染みていた。
(あの下郎めが)腹の底で、罵る。
あの男の増長ぶりは、伊丹家中でも目に余る。先代からの家臣を侮り、銭の力で己の派閥を広げているのだ。久秀の言葉は、長久の怒りを見透かしたように、的確に核心を突く。
「……片腹痛いことよ」
長久は、吐き捨てるようにいった。
「うむ」
久秀は、深く頷いた。
「ところで、野間殿。貴殿の旧領と、かの相沢が預かる村々との境では、古くから水利の諍いがあると聞き及ぶ」
「それが、何か」
「いや。ただ、武門の習いとして、己の権益を侵す者には、それなりの仕置きが必要であろう、とな」
久秀は、杯に酒を注ぎながら、こともなげにいう。
「……」
「多少、揺さぶりをかけてみてはどうか。あくまで、旧領の民のため、という大義名分でな」
それは、命令ではなかった。あくまで、提案だ。
だが、長久にはその裏にある意図が読めた。相沢を牽制せよ、というのだ。
「万一の際は、当家が後ろ盾となる。野間殿に、いささかの不利益も与えはせぬ」
長久は、杯に残った酒を一息に呷った。
胸のつかえが、すっと下りるような気がした。あの成り上がり者に、譜代の意地というものを見せてやる。
「……承知した」
長久がそう答えると、久秀は満足げに頷いた。
長久が去った後、久秀はひとり、盃に残った酒を干した。
(野間という駒一つで、相沢を縛り、朔に時を与え、伊丹の無能を晒す。実に、効率の良いことよ)
水江村の武装化など、忍びの宗治からの報告で筒抜けだ。
(むしろ、牙を持つことで、あの村の価値は上がる)
久秀の口元に、狩人のような冷たい笑みが浮かんでいた。
◇◇◇◇
弥平が、神崎の湊から息を切らして戻ってきたのは、それから数日後のことであった。土と汗の匂いをぷんとさせた弥平が、物見櫓の下で木槍の手入れをしていた朔と朽木玄斎の前に、転がり込んできた。
「朔様、玄斎様」
「どうした、弥平。そんなに慌てて」
「へい。神崎の湊が、妙な噂で持ちきりでさァ」
弥平は、袖で汗をぬぐう。
「なんでも、野間様の御手勢が、相沢様の領地の西境で、古い堰を巡っていざこざを起こしているとか。おかげで相沢様は、血相を変えて兵を率いて、そちらへ向かったそうで」
ほう、と玄斎がかすかに息を漏らした。
朔は、何も言わぬ。ただ、弥平の背後に広がる空を見つめている。
(松永か……)
梟雄の、見えざる手が、遠く離れたこの村に、束の間の時を与えてくれたのだ。
「……好都合だ」
朔は、ぽつりと、そう言った。
「これで、時が稼げる」
◇◇◇◇
隠し村に、いつになく人が集まっていた。新しく建てられた、一番大きな蔵の中である。
朔を中心に、朽木玄斎、甚兵衛、弥平、そして沢西村の名主・源吾が顔を揃えている。隅には、宮大工の善兵衛と、細工師の五郎太も控えていた。
皆の顔は、硬い。権爺と文吾が殺され、村が蹂躙された記憶は、まだ生々しかった。
「もう、隠れるのは終わりだ」
朔は、静かに、しかし、はっきりといった。その声には、十一歳の童とは思えぬ、冷たい響きがあった。
「欺き、やり過ごすだけでは、何も守れん。それは、皆が一番よく分かっているはずだ」
弥平も源吾も、黙って頷く。
「これより、水江と沢西は、一つの牙を持つ」朔は、卓の上に広げた数枚の和紙を示した。
そこに描かれているのは、奇妙な意匠であった。丸い陶器の壺。そこから伸びる、一本の紐。
内部構造を示した断面図には、黒い粒がぎっしりと詰め込まれている。
「……朔様、これは」
源吾が、かすれた声で問うた。
「焙烙玉だ」
朔は、短く答える。
「火を点け、投げ込む。敵は、その場にいるものごと、吹き飛ぶ」
蔵の中が、しんと静まり返った。
善兵衛と五郎太が、図面を覗き込み、息を呑む。職人である彼らには、この図面が持つ意味が、その機能が、理解できたのだ。
百姓である弥平や源吾には、まだ現実感が湧かない。
沈黙を破ったのは、朽木玄斎であった。
「……ほう」
玄斎は、図面を細められた目で見つめていた。
その皺深い顔に、何年ぶりかに、武人としての光が戻っていた。
「これがあれば、素人の寄せ集めでも、城攻めの兵と渡り合える。……面白い」
玄斎は、朔の顔を見た。
「やるか」
「ああ」
朔は、頷いた。
「やるしかない」
玄斎は、皆の顔を見回した。
「これより、両村の男衆は、兵となる。奪われるだけの百姓は、終わりだ。異論のある者は、おるか」
誰も、何もいわなかった。甚兵衛が、かすかに頷き、腰の刀の柄に手を置いた。
その日から、村は変わった。もう、後戻りはできない。
◇◇◇◇
村の外れに、文吾の粗末な墓がある。墓石の代わりに、ただの丸い石が置かれているだけだ。
おみよは、人目を忍んで、そこに跪いていた。
桶の水で、石を丁寧に拭う。道端で摘んできた野の花を、そっと供えた。
遠くから、男たちの鬨の声と、木槍の打ち合う乾いた音が聞こえてくる。村は、戦の準備に明け暮れていた。その喧騒が、まるで別世界のことのようにおもえた。
(村のためだとおもてた……)
心の中で、誰にいうともなく呟く。
(初めは、あんたのこと、いやでいやで、しかたなかってん……)
無気力で、卑屈で、酒にだらしのない男。それが、文吾の第一印象だった。
だが、肌を重ねるうちに、知ってしまった。
あの男の、不器用な優しさを。誰にもいえぬ孤独を。
それは、夫を失った自分の孤独と、どこか似ていた。
いつしか、文吾といるときが、心からの安らぎになっていた。
「……うちのせいや」
声が、漏れた。
「うちがあんたを騙したから……」
嗚咽が、込み上げてくる。
「村は、助かったかもしれん。けど、あんたは……」
言葉は、続かなかった。
おみよは、冷たい石に額を押し付け、声を殺して泣いた。
朔の計略は、村を守った。だが、その代価として、一つの温もりと、一人の男の命が失われた。そのことを、この村で覚えているのは、もう自分だけかもしれなかった。
「……文吾さん。堪忍して……堪忍や……」
許しを請う言葉は、風に溶けて消えた。一筋、涙が頬を伝う。
おみよは、しばらくじっとうずくまっていたが、やがて静かに立ち上がると、誰にも見られぬうちにその場を去った。
◇◇◇◇
隠し村の、さらに奥。木々の切れ間にある、岩場である。
朔と玄斎、甚兵衛、そして善兵衛と五郎太だけが、そこにいた。皆、固唾を飲んで、一つのものを見つめている。
甚兵衛が、大きな岩の根元にそっと置いた、素焼きの壺。そこから、黒い導火線が伸びている。
見た目は、種籾でも入れるための、ありふれた土くれの器だ。これが、村の運命を変える。
「……火を」
朔が、短くいう。
甚兵衛は、火縄の先を導火線に近づける。じゅっ、と音を立てて、火花が散った。
導火線が、生き物のように黒い煙を吐きながら、壺へと走っていく。
「伏せろ!」
玄斎の声に、男たちは慌てて岩陰に身を隠した。
しん、と静まり返る。聞こえるのは、導火線の燃える、か細い音だけだ。ときが、異様に長く感じられた。
次の瞬間。
轟音と共に、空気が殴りつけられた。
耳が、何も聞こえなくなる。腹の底まで震わせる衝撃。閃光。
岩が砕け、土くれの壺が撒き散らした陶器の破片が、鋭い音を立てて宙を舞った。硝煙の、鼻を突く匂い。
やがて、音が消え、静寂が戻った。男たちは、恐る恐る顔を上げる。
そこには、信じがたい光景が広がっていた。
人が二人抱きかかえるほどもあった岩が、半ばから砕け散っている。周囲の木々は、無数の破片を浴びて、ささくれ立っていた。
そして、焙烙玉に含まれていたであろう小さな鉄片が、木の幹に深々と刺さっている。
これが、あの小さな土くれの壺一つが、もたらした結果だった。
善兵衛と五郎太は、腰が抜けたように座り込んでいる。
弥平と源吾は、ただ呆然と、破壊の跡を見つめていた。
それは、畏怖であった。自らが作り出した、人知を超えた力。善兵衛と五郎太は、腰が抜けたように座り込んだまま、ただ、呆然と破壊の跡を見つめていた。
朽木玄斎が、ゆっくりと立ち上がった。彼は、岩場へ歩み寄り、砕けた岩の様子を検分する。
やがて、足元に落ちていた鋭い陶器の欠片を一つ、拾い上げた。その縁は、剃刀のように鋭い。
「……あの頑固爺が、これを見たら何と言うかの」
玄斎は、そうつぶやくと、朔の方へ向き直った。
「権爺は、己のやり方で村を守ろうとした。……これは、おぬしのやり方だ」
その声は、低く、しかし、そこにいる者すべての耳に届いた。
「よかろう。名を、『権六玉』とする。相沢への、爺からの置き土産よ」
村は、もはや単なる村ではなかった。
自らの牙で、運命を切り拓かんとする、武装共同体へと変貌を遂げたのであった。
◇◇◇◇
京、管領・細川晴元の屋敷。座には、険悪な空気が漂っていた。
晴元は、眼前に控える三好長慶を詰問している。別の国人衆の所領争いを巡る、不手際についてであった。
「……長慶。近頃のそなた、些か目に余るのではないか」
その言葉に、長慶は表情を変えぬ。深く、頭を垂れるだけであった。
その時であった。末席に控えていた祐筆、松永久秀が静かに進み出る。
「上様、申し上げます。此度の件とは別に、伊丹領にて由々しき事態が発覚いたしました」
久秀が、恭しく一通の書状を差し出した。晴元は、訝しげにそれを手に取る。
それは、偽書であった。
伊丹家の徴税吏、相沢玄蕃の筆跡を真似て書かれている。
伊丹家が宿敵・細川氏綱と内応を確約するという、密書であった。
書状に目を通すうち、晴元の顔から血の気が引いていく。
眉間の皺が、深くなる。やがて、その顔は怒りに歪み、わなわなと震え始めた。
「……伊丹め、このわしを裏切るか!」
次の瞬間。晴元は密書を床に叩きつけ、雷鳴のような声で叫んだ。
「長慶!兵を挙げよ!伊丹一族、一人残らず根切りにせよ!」
その命令に、三好長慶は、待ってましたとばかりに、深く、深く頭を垂れた。
傍らの松永久秀は、うつむいている。その顔に浮かんだ冷たい笑みを、誰一人として知る者はなかった。
おみよの口調、関西弁にしたくて変えました。前の登場時のセリフも修正しています。




