表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
34/38

権六玉

 天文九年(一五四〇年)四月下旬。


 三好長慶みよしながよしの居城、越水こしみず城の一室。


 磨き抜かれた床板が、春の光を鈍く弾く。


 その一室は、沈香じんこうのかすかな香りが立ちこめていた。


 酒宴、というには、あまりに静かすぎた。


 膳の上には、季節の菜と、焼かれた川魚が品よく並んでいる。酒は、澄み切った諸白もろはくだ。


 主座にいるのは、松永久秀。武人というよりは、公家か高僧を思わせる、痩身の男だ。その切れ長の目の奥に、底の知れぬ光が宿る。


 成り上がり者、相沢玄蕃あいざわげんばに受けた屈辱が、まだ腹の底でくすぶっている。

野間のま殿。此度の知行替え、まこと大儀であった」


 久秀は、静かにいった。その声は、物腰と同じく、どこまでも柔らかい。


 対する野間長久のまながひさは、武骨な体躯たいくを固くしたまま、杯を口に運んだ。伊丹家譜代の家臣であった己が、三好に鞍替えしたのだ。その杯に残った酒を、彼は重いもののように見つめていた。


「……松永殿のご尽力の賜物。感謝申し上げる」

 声には、棘があった。


 久秀は、気にした風もなく、薄く笑みを浮かべた。


「いやはや。伊丹の家も、傾きましたな」


 ぽつり、とつぶやく。


「貴殿のような忠臣を手放し、銭勘定しか能のない小役人を重用するとは」


 長久の眉が、ぴくりと動いた。相沢玄蕃あいざわげんば。あの成り上がり者の名を聞くだけで、腹の底が煮えくり返る。先頃、所領で受けた屈辱は、骨身に染みていた。


(あの下郎めが)腹の底で、罵る。


 あの男の増長ぶりは、伊丹家中でも目に余る。先代からの家臣を侮り、銭の力で己の派閥を広げているのだ。久秀の言葉は、長久の怒りを見透かしたように、的確に核心を突く。


「……片腹痛いことよ」

 長久は、吐き捨てるようにいった。


「うむ」

 久秀は、深く頷いた。


「ところで、野間殿。貴殿の旧領と、かの相沢が預かる村々との境では、古くから水利のいさかいがあると聞き及ぶ」


「それが、何か」


「いや。ただ、武門の習いとして、己の権益を侵す者には、それなりの仕置きが必要であろう、とな」

 久秀は、杯に酒を注ぎながら、こともなげにいう。


「……」


「多少、揺さぶりをかけてみてはどうか。あくまで、旧領の民のため、という大義名分でな」

 それは、命令ではなかった。あくまで、提案だ。


 だが、長久にはその裏にある意図が読めた。相沢を牽制せよ、というのだ。


「万一の際は、当家が後ろ盾となる。野間殿に、いささかの不利益も与えはせぬ」

 長久は、杯に残った酒を一息にあおった。

 胸のつかえが、すっと下りるような気がした。あの成り上がり者に、譜代の意地というものを見せてやる。


「……承知した」

 長久がそう答えると、久秀は満足げに頷いた。


 長久が去った後、久秀はひとり、盃に残った酒を干した。

(野間という駒一つで、相沢を縛り、朔に時を与え、伊丹の無能を晒す。実に、効率の良いことよ)

 水江村の武装化など、忍びの宗治そうじからの報告で筒抜けだ。


(むしろ、牙を持つことで、あの村の価値は上がる)

 久秀の口元に、狩人のような冷たい笑みが浮かんでいた。



 ◇◇◇◇


 弥平やへいが、神崎の湊から息を切らして戻ってきたのは、それから数日後のことであった。土と汗の匂いをぷんとさせた弥平が、物見櫓の下で木槍の手入れをしていたさく朽木玄斎くちきげんさいの前に、転がり込んできた。


「朔様、玄斎様」


「どうした、弥平。そんなに慌てて」


「へい。神崎の湊が、妙な噂で持ちきりでさァ」


 弥平は、袖で汗をぬぐう。


「なんでも、野間様の御手勢が、相沢様の領地の西境で、古い堰を巡っていざこざを起こしているとか。おかげで相沢様は、血相を変えて兵を率いて、そちらへ向かったそうで」


 ほう、と玄斎がかすかに息を漏らした。


 朔は、何も言わぬ。ただ、弥平の背後に広がる空を見つめている。


(松永か……)


 梟雄の、見えざる手が、遠く離れたこの村に、束の間の時を与えてくれたのだ。


「……好都合だ」


 朔は、ぽつりと、そう言った。


「これで、時が稼げる」


 ◇◇◇◇


 隠し村に、いつになく人が集まっていた。新しく建てられた、一番大きな蔵の中である。


 朔を中心に、朽木玄斎くちきげんさい甚兵衛じんべえ弥平やへい、そして沢西さわにし村の名主・源吾げんごが顔を揃えている。隅には、宮大工の善兵衛ぜんべえと、細工師の五郎太ごろうたも控えていた。


 皆の顔は、硬い。権爺と文吾ぶんごが殺され、村が蹂躙じゅうりんされた記憶は、まだ生々しかった。


「もう、隠れるのは終わりだ」

 朔は、静かに、しかし、はっきりといった。その声には、十一歳の童とは思えぬ、冷たい響きがあった。


「欺き、やり過ごすだけでは、何も守れん。それは、皆が一番よく分かっているはずだ」


 弥平も源吾も、黙って頷く。


「これより、水江と沢西は、一つの牙を持つ」朔は、卓の上に広げた数枚の和紙を示した。


 そこに描かれているのは、奇妙な意匠であった。丸い陶器の壺。そこから伸びる、一本の紐。

 内部構造を示した断面図には、黒い粒がぎっしりと詰め込まれている。


「……朔様、これは」

 源吾が、かすれた声で問うた。


焙烙玉ほうろくだまだ」

 朔は、短く答える。


「火を点け、投げ込む。敵は、その場にいるものごと、吹き飛ぶ」

 蔵の中が、しんと静まり返った。


 善兵衛と五郎太が、図面を覗き込み、息を呑む。職人である彼らには、この図面が持つ意味が、その機能が、理解できたのだ。

 百姓である弥平や源吾には、まだ現実感が湧かない。


 沈黙を破ったのは、朽木玄斎であった。


「……ほう」

 玄斎は、図面を細められた目で見つめていた。

 その皺深い顔に、何年ぶりかに、武人としての光が戻っていた。


「これがあれば、素人の寄せ集めでも、城攻めの兵と渡り合える。……面白い」


 玄斎は、朔の顔を見た。

「やるか」


「ああ」

 朔は、頷いた。


「やるしかない」


 玄斎は、皆の顔を見回した。

「これより、両村の男衆は、兵となる。奪われるだけの百姓は、終わりだ。異論のある者は、おるか」


 誰も、何もいわなかった。甚兵衛が、かすかに頷き、腰の刀の柄に手を置いた。


 その日から、村は変わった。もう、後戻りはできない。


 ◇◇◇◇


 村の外れに、文吾の粗末な墓がある。墓石の代わりに、ただの丸い石が置かれているだけだ。

 おみよは、人目を忍んで、そこにひざまずいていた。


 桶の水で、石を丁寧に拭う。道端で摘んできた野の花を、そっと供えた。


 遠くから、男たちのときの声と、木槍の打ち合う乾いた音が聞こえてくる。村は、戦の準備に明け暮れていた。その喧騒が、まるで別世界のことのようにおもえた。


(村のためだとおもてた……)

 心の中で、誰にいうともなく呟く。


(初めは、あんたのこと、いやでいやで、しかたなかってん……)

 無気力で、卑屈で、酒にだらしのない男。それが、文吾の第一印象だった。


 だが、肌を重ねるうちに、知ってしまった。

 あの男の、不器用な優しさを。誰にもいえぬ孤独を。


 それは、夫を失った自分の孤独と、どこか似ていた。

 いつしか、文吾といるときが、心からの安らぎになっていた。


「……うちのせいや」

 声が、漏れた。


「うちがあんたを騙したから……」

 嗚咽が、込み上げてくる。


「村は、助かったかもしれん。けど、あんたは……」

 言葉は、続かなかった。


 おみよは、冷たい石に額を押し付け、声を殺して泣いた。


 朔の計略は、村を守った。だが、その代価として、一つの温もりと、一人の男の命が失われた。そのことを、この村で覚えているのは、もう自分だけかもしれなかった。


「……文吾さん。堪忍して……堪忍や……」

 許しを請う言葉は、風に溶けて消えた。一筋、涙が頬を伝う。

 おみよは、しばらくじっとうずくまっていたが、やがて静かに立ち上がると、誰にも見られぬうちにその場を去った。


 ◇◇◇◇


 隠し村の、さらに奥。木々の切れ間にある、岩場である。


 朔と玄斎、甚兵衛、そして善兵衛と五郎太だけが、そこにいた。皆、固唾を飲んで、一つのものを見つめている。


 甚兵衛が、大きな岩の根元にそっと置いた、素焼きの壺。そこから、黒い導火線が伸びている。


 見た目は、種籾でも入れるための、ありふれた土くれの器だ。これが、村の運命を変える。


「……火を」

 朔が、短くいう。


 甚兵衛は、火縄の先を導火線に近づける。じゅっ、と音を立てて、火花が散った。

 導火線が、生き物のように黒い煙を吐きながら、壺へと走っていく。


「伏せろ!」

 玄斎の声に、男たちは慌てて岩陰に身を隠した。


 しん、と静まり返る。聞こえるのは、導火線の燃える、か細い音だけだ。ときが、異様に長く感じられた。


 次の瞬間。


 轟音と共に、空気が殴りつけられた。

 耳が、何も聞こえなくなる。腹の底まで震わせる衝撃。閃光。


 岩が砕け、土くれの壺が撒き散らした陶器の破片が、鋭い音を立てて宙を舞った。硝煙の、鼻を突く匂い。


 やがて、音が消え、静寂が戻った。男たちは、恐る恐る顔を上げる。


 そこには、信じがたい光景が広がっていた。

 人が二人抱きかかえるほどもあった岩が、半ばから砕け散っている。周囲の木々は、無数の破片を浴びて、ささくれ立っていた。

 そして、焙烙玉に含まれていたであろう小さな鉄片が、木の幹に深々と刺さっている。


 これが、あの小さな土くれの壺一つが、もたらした結果だった。


 善兵衛と五郎太は、腰が抜けたように座り込んでいる。

 弥平と源吾は、ただ呆然と、破壊の跡を見つめていた。


 それは、畏怖であった。自らが作り出した、人知を超えた力。善兵衛と五郎太は、腰が抜けたように座り込んだまま、ただ、呆然と破壊の跡を見つめていた。


 朽木玄斎が、ゆっくりと立ち上がった。彼は、岩場へ歩み寄り、砕けた岩の様子を検分する。

 やがて、足元に落ちていた鋭い陶器の欠片を一つ、拾い上げた。その縁は、剃刀のように鋭い。


「……あの頑固爺が、これを見たら何と言うかの」

 玄斎は、そうつぶやくと、朔の方へ向き直った。


「権爺は、己のやり方で村を守ろうとした。……これは、おぬしのやり方だ」

 その声は、低く、しかし、そこにいる者すべての耳に届いた。


「よかろう。名を、『権六玉ごんろくだま』とする。相沢への、爺からの置き土産よ」


 村は、もはや単なる村ではなかった。

 自らの牙で、運命を切り拓かんとする、武装共同体へと変貌を遂げたのであった。


 ◇◇◇◇


 京、管領かんれい細川晴元ほそかわはるもとの屋敷。座には、険悪な空気が漂っていた。

 晴元は、眼前に控える三好長慶を詰問している。別の国人衆の所領争いを巡る、不手際についてであった。


「……長慶。近頃のそなた、いささか目に余るのではないか」

 その言葉に、長慶は表情を変えぬ。深く、こうべを垂れるだけであった。


 その時であった。末席に控えていた祐筆ゆうひつ、松永久秀が静かに進み出る。


「上様、申し上げます。此度の件とは別に、伊丹領にて由々しき事態が発覚いたしました」

 久秀が、恭しく一通の書状を差し出した。晴元は、訝しげにそれを手に取る。


 それは、偽書であった。

 伊丹家の徴税吏、相沢玄蕃の筆跡を真似て書かれている。

 伊丹家が宿敵・細川氏綱ほそかわうじつなと内応を確約するという、密書であった。


 書状に目を通すうち、晴元の顔から血の気が引いていく。

 眉間の皺が、深くなる。やがて、その顔は怒りに歪み、わなわなと震え始めた。


「……伊丹め、このわしを裏切るか!」

 次の瞬間。晴元は密書を床に叩きつけ、雷鳴のような声で叫んだ。


「長慶!兵を挙げよ!伊丹一族、一人残らず根切りにせよ!」

 その命令に、三好長慶は、待ってましたとばかりに、深く、深く頭を垂れた。


 傍らの松永久秀は、うつむいている。その顔に浮かんだ冷たい笑みを、誰一人として知る者はなかった。




おみよの口調、関西弁にしたくて変えました。前の登場時のセリフも修正しています。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ