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梟雄

 権爺ごんじいの亡骸は、村を見下す丘の、樫の木の下に埋められた。

 湿った土の匂いがした。


 線香の煙が、細く、頼りなげに立ちのぼる。その煙に混じり、まだ村に燻る焦げ臭さが鼻をついた。権爺の家と、蔵が焼けた匂いであった。


 泣き声は、もう聞こえない。女たちの嗚咽は、とうに枯り果てていた。すすり泣く声だけが、春先の冷たい風にふるえている。


 さくは泣かなかった。その顔は、まるで能面のようだ。血の気の失せた唇を固く結び、燃え跡と化した権爺の屋敷跡を、ただじっと見つめている。


 足元の土を、強く握りしめた。指の間に食い込む土の冷たさが、じんと痛い。

 この手で、守ろうとした。この知恵で、救おうとした。その果てが、これだ。奴の怒りを掻き立てた。


 朔の胸にあった最後の感傷が、権爺の亡骸とともに、この冷たい土の中へ葬られていく。悲しみではない。怒りでもない。ただ、凍てつくような決意だけが、腹の底に澱のように沈んでいった。


 そのときであった。村の入り口が、にわかにざわついた。

甚兵衛じんべえさんだ!」


「おお、ご無事で……」


 人垣が割れ、旅姿の男が二人、静かに入ってくる。元足軽の甚兵衛と、京から来たという小僧であった。ひと月ぶりの帰還である。


 甚兵衛は朔と朽木玄斎くちきげんさいの前に進み出ると、深く頭を下げた。その顔は、旅の疲れと垢にまみれている。されど、その両の眼は、確かな光を宿していた。

「朔様。朽木様。ただいま、戻りましてございます」


「……うむ。無事で、何よりであった」玄斎が、しゃがれた声で応じた。

 甚兵衛は懐から、丁寧に布で包まれた書状を取り出した。


「京の寺より、預かりものでございます」

 朔が、それを受け取る。


「して、米は」

「はっ。滞りなく。寺の方々は、涙を流して喜んでおられました。……慶順けいじゅん様の死を、深く悼んでおられました」


 甚兵衛は言葉を切り、書状を指した。


「そこに、感謝の言葉が。そして、言伝を一つ」

「言伝?」

「はっ。『貴村の慈悲、決して忘れぬ。この御恩、いずれ必ず』と」


 朔は、黙って頷いた。一人の僧の命と引き換えに得た、遠い都からの感謝の言葉。それがどれほどの値打ちを持つのか、今の朔には、もう分からなかった。


 玄斎が、低い声で問うた。

「京の様子は、どうであった」


 その問いに、甚兵衛の顔から、わずかな血の気が引いた。彼は、思い出すのもおぞましい、といった面持ちで、ぽつり、ぽつりと語り始めた。

「……地獄、でございました」


 その言葉に、周りを囲む村人たちが息をのむ。

「道端には、もはや弔う者もなきむくろが積み上がり……赤子の泣き声すら聞こえぬ、静けさ。武士ですら食い詰めて野盗と化し……」


 甚兵衛は、一度、目を固く閉じた。

「人の心が、死んでおりました」


 淡々とした、重い言葉であった。それが、この国の現実。水江村という小さな孤島を囲む、広大な地獄の有り様であった。村人たちの顔から、権爺を失った悲しみが消え、生き延びねばならぬという、切実な恐怖の色が浮かび上がった。


 ◇◇◇◇


 越水こしみず城。摂津の半国を支配する三好長慶みよしながよしの居城である。その一室に、松永久秀まつながひさひではいた。


 無駄な装飾の一切ない、静かな書院。床の間に、ぽつんと置かれた井戸茶碗が、ただならぬ気を放っている。墨の匂いが、清らかに漂っていた。


 久秀は、二通の書状を前に、目を閉じていた。その指が、閉じた扇子を、とん、とんと規則正しく叩いている。


 一通は、水江村の隠し村に、塗師ぬしとして潜入させている密偵・宗治そうじからの急報。『水江村、火薬製造に成功。その製法、尋常ならず』短い文面に、密偵の驚愕が滲んでいた。


 もう一つは、伊丹いたみ城下から。『徴税吏・相沢玄蕃、水江村にて乱暴狼藉。村の長老ら二人を斬殺、蔵に放火』こちらは、伊丹家の統治能力が、もはや破綻していることを示す報告であった。


 やがて、扇子の動きが止まる。久秀は、薄く目を開けた。その切れ長の目の奥に、何の感情も浮かんでいない。怒りも、驚きもない。ただ、得難い獲物が、愚か者の手で台無しにされる。その無駄を許さぬ、冷たい光があるだけだ。


 水江村。はじめは、飢饉の最中にあってなお増収を続ける、奇妙な「異常値」に過ぎなかった。次に、それを支える優れた「統治の仕組み」を持つ、興味深い研究対象となった。そして今、火薬という「戦略兵器」を自前で生み出す、危険な生産拠点へと変貌した。


 その価値は、もはや銭で測れるものではない。畿内の勢力図すら塗り替えかねぬ、切り札。


 その至上の宝が、相沢玄蕃ごとき小物によって、恒久的に失われるやもしれぬ。許しがたい愚行だ。久秀は、相沢の非道に腹を立てているのではない。己の感情も律せぬ愚かさによって、貴重な獲物を危険に晒す、その思慮の浅さに、静かな侮蔑を感じているのであった。


 伊丹家を内から腐らせ、滅ぼすという策が熟すのを待っていては、間に合わぬやもしれぬ。果実が熟すのを待つ間に、地に落ちて砕けては、元も子もない。


 自ら赴くか?いや、愚策だ。伊丹領の泥濘に足を踏み入れれば、三好と伊丹の全面衝突の口実を与えかねぬ。危険が、利を上回りすぎる。駒は、自ら動くものではない。動かすものだ。


「……誰か、ある」

 静かな声が、室内に響いた。障子が、すっと開く。そこに控えていたのは、柳田甚内やなぎだじんないであった。


「甚内」

「はっ」

「水江村へ行け」

 久秀の言葉は、常に簡潔である。


わらべを、連れてこい。……名は、朔といったか」

「御意」

「力ずくではない。取引をしろ。あの童の知恵は、力で従うものではない。……よいか、村なぞ、どうでもよい。あの童の知恵……それを生み出す源泉こそが、我らが求めるものよ」


 久秀は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。庭の青々とした苔を見つめながら、静かに告げる。

「相沢という愚者が、事を急かせおった。……よいか、甚内。あの童の自害だけは、許さぬ。そのためならば、いかなる譲歩も許す。伊丹の領地の一つや二つ、くれてやると約束しても構わん」


 それは、腹心に対する、ほぼ全権委任に等しい言葉であった。甚内は、主君の意図の重さを悟り、深く、深く頭を垂れた。


 ◇◇◇◇


 水江村の広場は、練兵場と化していた。


 悲しみに暮れている暇など、ない。相沢の次なる襲撃は、必ず来る。今度は、村そのものを根絶やしにするために。

「槍を突け! 足が止まっておるぞ!」


 朽木玄斎の、酒に焼けた声が飛ぶ。弥平やへいをはじめとする村の男衆が、慣れぬ手つきで竹槍を構えている。その動きは、百姓のそれだ。ぎこちなく、腰が引けている。


 玄斎の横には、甚兵衛が控えていた。元足軽の彼は、一人一人の構えを、無言で、しかし的確に直していく。

 百姓を、兵に変える。それは、血の匂いのする仕事であった。玄斎は、その汚れ仕事を、黙々と引き受けている。


 広場の隅では、女子供が集まっていた。朔の母、タエが中心となり、石を包むための網を編んでいる。投石紐とうせきひもであった。幼いおふみも、小さな手を必死に動かしている。村の全てが、牙を研いでいた。生き延びるために。


 朔は、その光景を、物見櫓の上から見下ろしていた。あの炎の日以来、彼の目は、一度も揺らいでいない。ただ、盤面を見つめる棋士のように、冷たく澄んでいる。


 その視線の先に、一つの人影が現れた。一人だ。商人とも、職人とも見える、どこにでもいるような風体の男。されど、その歩みには、一切の隙がない。


 朔の心臓が、とくん、と一度だけ、強く鳴った。来たか。


 男は、まっすぐに櫓の下まで来ると、顔を上げた。その顔を見て、朔は息をのんだ。玄斎も、隣でかすかに身じろぎしたのが分かった。


 見覚えのある顔だ。しかし、身なりがまるで違う。以前、村に逗留していた野鍛冶は、煤と汗にまみれた、みすぼらしい男であったはずだ。目の前の男は、糊のきいた小綺麗な着物を着こなし、人好きのする笑みを浮かべている。だが、その目の奥は、あの時と同じく、笑っていなかった。


「これは朔殿。ご無沙汰しておりますな」穏やかな声であった。


 朔は、櫓を降りた。玄斎が、無言で後に続く。


「……何の用だ」

 朔の声は、硬い。目の前の男が、ただの職人でないことは、とうに分かっていた。


 男は、楽しげに目を細めた。


「お忘れかな。以前、野鍛冶として世話になった者でございますよ。……柳田甚内と、申します」

 甚内は、燃え跡の残る村を見回した。


「相沢玄蕃……些か、やりすぎましたな。このままでは、この村も、貴殿の類稀なる才も、灰燼に帰しましょう」

 朔は、黙っている。玄斎の手が、刀の柄にかかった。


「我が主、松永久秀様は、それを惜んでおられる。我が主の後ろ盾があれば、相沢ごとき、物の数ではございませぬ。村の安寧は、お約束いたそう」


「……見返りは」朔が、短く問うた。

「その才、そして貴殿ご自身を、我が主君に」

 朔は、甚内の目をじっと見つめ返した。やがて、静かに口を開いた。


「……話は、家で聞こう。母が、粗茶を用意している」

「ほう」

 甚内は、意外そうに眉を上げた。


「……しばし、お待ちいただきたい。村の者と、相談の時が要る」


 ◇◇◇◇


 朔の家の、小さな囲炉裏。母のタエが、黙々と茶を淹れている。柳田甚内は、客としてそこに座らされていた。朔は一言、「ゆるりと、されよ」とだけ言い残し、玄斎と共に外へ出た。


 向かった先は、村はずれの、玄斎のねぐらである。川魚の生臭い匂いがした。

 戸を閉めた。朔は、堰を切ったように話し始めた。その声は、低く、押し殺されている。


「……断れば、どうなる」

「どうもならん。相沢に村ごと食われるか、あの男に生け捕られるか。道はない」玄斎は、こともなげに言った。


「そうだ。道はない。生き延びるためには、この手を取るしかない。……だが、玄斎。相沢が俺たちを追い詰めた。だが、その相沢を追い詰めたのは誰だ?野間長久の離反だ。あれは本当に偶然か?伊丹家中の亀裂を、あの男(松永)が見逃すはずがない。俺たちという獲物を追い込むために、相沢という犬をけしかけ、その犬の首輪を締めるために野間を使ったのだとしたら……」


 朔は、床の土を指でかきむしった。

「俺には、見えるのだ。松永久秀という男が、この先、何を為すのかが」


 その言葉に、玄斎の目が、鋭く光った。

「あの男は……いずれ将軍を殺し、奈良の大仏殿を焼き払う。主君の三好家を乗っ取り、天下人の織田信長に二度も牙をむき、最後は……平蜘蛛の茶釜に火薬を詰め、己の体ごと吹き飛ばすのだ」


 息を継ぎ、朔は続けた。


「だが、玄斎、恐ろしいのはそれだけじゃない。あの男は、それだけの悪事を働きながら、何度も許される。なぜか。仕事ができるからだ。銭を生み、国を治め、敵を謀略で討つ。その才覚が、裏切りという罪すら帳消しにしてしまうのだ。信長ですら、一度は手放すのを惜しんだほどの男だ」


 十三歳の少年の顔に、深い絶望が刻まれている。歴史の奔流を知るがゆえの、孤独な恐怖であった。

「あの男の船に乗ることは、いずれ巨大な渦に巻き込まれ、共に沈む未来へ向かうことに他ならない。この選択は、本当に『生き残る』道なのか。それとも、ただ死に様を選ぶだけのことに過ぎないのか……」


 玄斎は、黙って聞いていた。やがて、酒の入った瓢箪をあおり、無骨な湯呑みにそれを注いだ。

「……くだらん」

 ぽつり、と呟いた。


「相沢ごときに滅ぼされるのは、ただの犬死にだ」

 玄斎は、湯呑みを一息に呷った。


「あの男を信じるな。だが、その力を利用せよ。虎の威を借りて狐が生き延びるなら、今度はより大きな虎の威を借りるまでのこと」


 玄斎は、朔の目をまっすぐに見た。そのしゃがれた声には、奇妙な静けさがあった。

「毒を喰らわば皿までよ」


 その言葉が、朔の胸に突き刺さった。そうだ。綺麗事では、米は食えぬ。理想を捨て、手を汚し、非情な計算の果てに活路を見出すと決めたのは、自分自身だ。歴史の奔流に怯え、目の前の現実から目を背けることこそ、己の覚悟への裏切りではないか。


 朔の顔から、迷いが消えた。

「……ああ。そうだったな」


 彼は立ち上がった。その目には、再び、冷たい光が宿っていた。


 ◇◇◇◇


 朔は、甚内の前に戻った。そして、その言葉と同時に動いた。懐から小刀こづかを抜き放ち、己の喉元に、その切っ先を突き立てたのだ。


 玄斎の息をのむ気配が、背後でした。

 朔の目は、まっすぐに甚内を射抜いていた。十三歳の少年の目ではない。全てを諦め、全てを覚悟した者の目だ。


「この村の安堵を、お約束いただきたい」

 声は、ふるえていなかった。


「それが、取引の条件です。もし、力ずくでというのなら……この知恵は、今ここで、私と共に消える」

 静寂が、落ちた。風の音だけが、聞こえる。


 甚内は、朔の喉元の刃と、その目を、値踏みするように見比べていた。やがて、その口元に浮かんでいた笑みが、すっと消えた。


 主命は、「何としても、生かして」。この童は、本気だ。脅しではない。単純な拉致や説得では、任務は果たせぬ。


 甚内は、わずかに頭を下げた。

「……見事な、ご覚悟」


 彼は、懐から書状を取り出した。主君から与えられた、裁量権。

「では、新たな案を。我が主君は、この水江村と、隣の沢西村を、貴殿の知行地ちぎょうちとして安堵する、と」


「……なに?」

「その代わり、朔殿には、越水こしみず城へ出仕しゅっししていただく」


 知行安堵と、出仕。それは、鳥籠であった。村の存続という餌と引き換えに、朔自身を、松永の掌中に入れるための。


 朔は、喉元の刃を、ゆっくりと下ろした。取引は、成立した。自らの自由と引き換えに、村は生き延びる。


 甚内は、その光景を冷徹な目で見届けると、口を開いた。その声には、もはや先程までの柔和さはない。新たな主君の代理人としての、冷たい響きがあった。


「さて、策士殿。取引は成立だ。して、目の前に迫る相沢玄蕃の軍勢、どう退ける?」

 甚内は、燃え跡の残る村を見回した。


「我が主君への、最初の奉公を、見せてもらおうか」

 新たな主から突きつけられた、最初の「仕事」。朔は、眼前に迫る戦と、その先に待つ、より巨大な敵との戦いを思い、静かに思考を巡らせ始めた。少年の時代は、終わった。

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