宴の終わりに
天文九年、三月の風は、まだ肌を刺す。
されど、水江村には熱気があった。冬麦の収穫を祝う、ささやかな宴である。
村の中央に焚かれた火の粉が、闇に舞い上がる。ぱちぱちと、乾いた木のはぜる音がする。焼いた麦団子の、香ばしい匂い。それを頬張る子供らの、甲高い笑い声が、煙と共に立ちのぼる。
弥平の野太い声が、夜気に響いた。
「麦踏みゃ腰に来る!」
村の男衆が、どっと応える。
「「どっこいせ!どっこいせ!」」
「よいほいの、土踏み鳴らせ!」
「「どっこいせ!どっこいせ!」」
手を取り合った女たちが、火を囲んで輪になり、素朴な踊りを踊っている。その輪の中心で、文吾が上機嫌で手拍子を打っていた。相沢玄蕃配下の、小役人である。膝には後家のおみよを乗せ、その肩を抱きながら上等な火の酒の入った椀を呷っている。
「…まったく、玄蕃様も人が悪い」
酒が、文吾の口を滑らせる。
「野間様が三好方へ寝返った一件で、城では肩身が狭いとみえる。おかげで、こちらへの当たりが、ますます強くなる」
その言葉に、近くで聞いていた弥平の眉が、ぴくりと動いた。朔は、黙って火を見つめている。
「焦っておられるのだ。伊丹の殿様からの覚えもめでたくない。何か大きな手柄を立てねば、己の首が危うい」
文吾は、ことさらに声を潜めてみせた。それが、己が重要な情報を握っているという、さもしい男の誇りの表れであった。
「水江村のやり方を他の村で試されたが、すべてしくじったとな。土が違う、水が違う、と百姓どもは言い訳ばかり。…つまり、玄蕃様には人望がない。少しマシなのは、朔、お前がついていった村々だけよ」
けらけらと、下卑た笑い声を立てる。その弛緩しきった顔に、朔は冷たい視線を送った。この男は、もはや番犬ですらない。餌に慣れ、牙を抜かれただけの、ただの駄犬だ。
そして、駄犬の無駄吠えは、狼を呼び寄せる。
その、時であった。村の入り口に立てた物見櫓から、甲高い声が夜気を裂いた。
「人が来るぞ!武者の一団だ!」
歌と笑い声が、ぴたりと止んだ。宴の空気が、一瞬で凍りつく。人々は食いかけの団子を落とし、不安げに顔を見合わせるばかりだ。
◇◇◇◇
玄斎が、すっと顔を上げた。その目は、村の入り口へ続く暗がりに向けられている。
やがて、音は誰の耳にも明らかになった。足音だ。それも、一人や二人ではない。数十の足が、重い何かを引きずるように、村へ近づいてくる。
歌が、ぴたりと止んだ。男たちが、不安げに顔を見合わせる。弥平が立ち上がり、腰の鎌に手をかけた。
闇の中から、松明の光がいくつも浮かび上がった。ゆらめく炎が、くたびれた胴服と、錆の浮いた槍の穂先を照らし出す。伊丹の兵であった。
その先頭に立つ男の姿を認め、朔は息をのんだ。
相沢は、馬から滑り降りると、ねめつけるように村を見渡した。頬は痩せこけ、目の下には深い隈が刻まれている。だが、その双眸だけが、病的な光を宿してぎらついていた。
彼の視線が、まず村を囲む新しい木壁に注がれる。指先で、硬い杭の表面をなぞった。次に、焚き火の周りに集まる村人たちへ。飢饉のさなかにあって、彼らの頬には血の気がある。子供たちにさえ、絶望の色はない。
宴の残骸である麦団子に目を留め、その唇が醜く歪んだ。
その視線が、輪の中心で呆然と立ち尽くす文吾を捉えた。酒で赤らんだ顔。女を侍らせ、酌をさせていたのであろう、酒の匂いが風に乗って届く。そして、その身にまとった、光沢のある絹の小袖。腰に差した煙草入れには、珊瑚の根付が揺れている。小役人には、到底望めぬ代物であった。
(…この犬めが)
玄蕃の胸に、黒い炎が燃え上がった。俺の銭で着飾り、俺を裏切り、俺の獲物で宴会か。
「ずいぶんと、羽振りがよいと見えるな」
声は、冬の風のように乾いている。
「当方は、主家のために心を砕いておるというに。貴様らは、こうして富を隠し、肥え太っていたか」
その言葉は、もはや問いかけではなかった。有罪を宣告する、断罪の響きがあった。
「よって、臨時徴収を申し渡す」
玄蕃は、懐から出した紙片を広げもせず、言い放った。
「この村の、すべての蔵を開けさせよ。米、麦、粟、稗。蓄えのすべてを、伊丹様へ献上いたすのだ」
村人たちの間に、声にならない悲鳴が上がる。それは、死の宣告に等しかった。
「な…何を、馬鹿な!」
弥平が、前に出ようとする。それを、朔が手で制した。
「これは、公儀の決定である。逆らう者は、謀反人とみなす」
玄蕃は、冷たく言い放った。そして、顎で足軽たちに指図する。
「…かかれ。一粒残らず、奪い取れ」
その命令は、乱取り《らんどり》の合図であった。足軽どもは、待っていましたとばかりに鬨の声を上げ、家々へとなだれ込んでいく。
女の悲鳴。子供の泣き声。木戸を蹴破る音。土間の甕が割れる、乾いた音。村は、一瞬にして地獄と化した。
「…やめろっ!」
朔の喉から、獣のような叫びが迸った。十三歳の少年の、怒りであった。己が築き上げたすべてが、目の前で蹂躙されていく。朔の歯の根は、火花が散るほど食いしばられた。握りしめた拳の爪が、掌を深く抉る。
朔は、玄蕃に向かって駆け出そうとした。その肩を、背後から鉄の腕が掴んだ。
「馬鹿者」
朽木玄斎であった。
「死ぬ気か」
声に、感情はない。だが、その力は凄まじく、朔の身体はびくともしない。
「離せ!玄斎!」
「ならん」
短い言葉が、朔の激昂を切り捨てる。
「見ておれ。これもまた、戦だ。耐えることこそが武勇である時も、ある」
そのやり取りを、隠し村から来ていた塗師の宗治が、離れた場所から見ていた。
(…なるほど。あの牢人こそが、童の真の守りか)
宗治の目に、冷たい光が宿る。彼は、目の前の惨劇にも、眉一つ動かさなかった。
◇◇◇◇
混乱の中、相沢が、まっすぐに文吾へと歩み寄った。
「…文吾」
地を這うような声に、文吾の肩がびくりと震える。
「貴様…。さては、こやつらと通じておったな。俺を欺き、偽りの報告を上げていたのは、貴様であろう!」
「ち、違いま…!そ、それはしは、ただ…!」
文吾の顔から、血の気が失せる。彼は、相沢の足元に這いつくばり、見苦しく命乞いを始めた。
「こ、こやつらが!この童が、悪いのでござる!どうか、どうかお慈悲を…!」
その卑屈な姿が、相沢の怒りの最後の堰を切った。
「…下郎が」
憎悪に歪んだ呟きと共に、相沢の刀が鞘を走った。ひゅ、と風を切る音。文吾の甲高い悲鳴が、途中で奇妙な音に変わった。
どさりと、文吾の体が泥の上に崩れ落ちる。その首筋から、赤い血がごぼりと溢れ出した。彼は、何かを言おうとして口をぱくつかせたが、ただ泡を吹くだけであった。やがて、その体の動きが止まった。
相沢は、刀についた血を、文吾の着物で無造作に拭うと、吐き捨てるように言った。
「…片付いたわ」
その目は、もはや何の感情も映してはいなかった。
◇◇◇◇
兵たちが、権爺の家の蔵に殺到した。村で一番大きな、その土蔵に、相沢の目がきらりと光る。
「そこを開けい!」
男たちが、丸太で蔵の扉を打ち破ろうとした、その時であった。
「…ならん!」
しわがれた、しかし凛とした声が響いた。権爺であった。背は深く曲がり、枯れ木のようであったが、その手に握られた樫の杖は、びくとも動かない。
「この蔵は、村の宝じゃ。先祖代々の魂じゃ。…誰にも渡さぬ」
相沢が、権爺を睨めつけた。その目に、侮蔑の色が浮かぶ。
「…まだいたか、古き亡霊めが。そのほう、公儀に逆らうか」
「公儀ではない。おぬしは、ただの盗人じゃ」
権爺は、静かに言い放った。
相沢の顔が、怒りで紫に変じた。彼は、そばにいた兵に顎をしゃくった。
「…斬れ」
兵は、一瞬ためらった。目の前にいるのは、武器も持たぬ、ただの老人であったからだ。
「聞こえなんだか!」
相沢が怒鳴る。
兵は、意を決したように槍を構え、権爺の胸を突いた。ごふ、と権爺の口から血が噴き出す。老人は、信じられぬというように己の胸を見下ろし、やがてゆっくりと前に倒れた。手から離れた樫の杖が、からりと乾いた音を立てて転がった。
相沢は、その亡骸を一瞥すると、冷たく命じた。
「…火をかけよ」
兵が、松明を権爺の家に投げ込む。乾いた茅葺の屋根は、あっという間に炎を上げた。火は、隣の蔵へと燃え移り、ごう、と音を立てて天を舐める。
◇◇◇◇
炎が、夜を喰らっていた。
茅葺きの屋根が爆ぜ、火の粉が闇に舞い上がる。人の脂が焼ける、甘ったるい匂い。血の匂い。煙が目にしみ、涙が溢れた。
朔は、朽木玄斎に腕を掴まれたまま、燃え落ちる蔵を呆然と見つめていた。権爺の蔵。村の歴史そのものであった。それが今、灰になろうとしている。
(計算は、どこで狂った?)
己の知恵が、欺瞞が、相沢玄蕃という男の憎悪を増幅させる「毒」でしかなかったのだ。理屈は、理性を失った暴力の前では、無力であった。
守るとは、何だ。救うとは、何だ。
炎の向こうで、玄蕃の歪んだ顔が笑っているように見えた。
朔は、ゆっくりと目を閉じた。そして、開いた。
その瞳から、光が消えた。そこにあったのは、燃え盛る炎の色を映した、底なしの闇があるばかりであった。
慟哭は、なかった。ただ、すべてを焼き尽くす炎の音だけが、少年の心に響いていた。
前話、慶順の所属を法華宗としていましたが、法華宗はこの頃今日にある寺が焼き討ちにあい、追放されているため、臨済宗に変更しました。




