慈悲の代価
天文九年(1540年)二月。
隠し村を包む空気は、刃のように冷え切っていた。吐く息はたちまち白く凍り、炭焼き小屋から立ちのぼる煙だけが、かろうじて人の営みを伝えている。
その日、堺の商人・利吉が息せき切って坂を上ってきたのは、陽が最も高くなる刻限であった。供の者は麓に残し、山窩の若者モロの先導で、一人きりだ。
「へえ、へえ……朔の旦那。こいつは、骨が折れまさあ」
利吉は膝に手をつき、肩で息をしながらも、その切れ長の目は素早く動いていた。普請の進み具合、男たちの顔つき、そして醸造所から風に乗って運ばれてくる、たまらなく芳醇な香り。その一つ一つを値踏みするように、吟味している。
朔は、弥平との打ち合わせを中断し、利吉に向き直った。
「息災であったか」
「へえ、旦那のおかげで、懐はほかほかでさあ。堺じゃあ、旦那の焼酎のおかげで、あっしはちっとした有名人でさあ」
おどけてみせるが、その声は周囲をはばかるように低い。懐から取り出した手拭いで額の汗をぬぐうと、利吉は朔の袖をくいと引いた。
「して、頼まれていた品と……とびきりの話を持ってまいりやした」
まず、朔の手に渡されたのは、油紙に幾重にも包まれた塊であった。見た目よりも、ずしりと重い。
包みを開くと、中から現れたのは鮮やかな黄色の粉末。硫黄である。つん、と鼻を突く独特の匂いが、冷たい空気に広がった。
「それから、これだ」
朔は硫黄の包みを傍らの彦太に渡し、利吉が差し出すもう一つの書状に目を落とした。
「伊丹家の重臣、野間長久様が、知行地ごと三好様方へ寝返りやした。なんでも、銭勘定でのし上がってきた相沢とかいう役人が、よほど腹に据えかねたとか」
利吉は、さも面白い見世物でも語るように声を弾ませる。
「これで伊丹の家中は、火の車も同然。いやはや、侍ってのもつまらねえことで仲間割れするもんでさあ」
朔の眉が、かすかに動いた。伊丹家の弱体化。それは、徴税吏である相沢玄蕃の焦りを意味する。追い詰められた獣は、何をするか分からぬ。水江村への締め付けは、これまで以上に苛烈なものになるだろう。
「……そうか」
短い朔の返事に、利吉は商人の勘で何かを嗅ぎ取ったらしい。
「旦那、何かお考えで?」
「利吉。この硫黄の代金は、焼酎の売上から引いておけ。残りの銭は、おぬしに預ける。これまで通り、村に必要なものを買い付けてくれ」
「へえ。よろしゅうござんす」
利吉は、顎をさすりながら頷いた。この村が、何か得体の知れぬ力で、とてつもない速さで変わろうとしている。その渦の中心にいるのが、目の前の少年なのだ。利吉は、興奮と同時に、底知れぬ畏怖を感じていた。
◇◇◇◇
隠し村の最も奥まった場所に、その作業小屋はあった。
周囲には甚兵衛の配下が見張りに立ち、余計な者は誰も近づけない。小屋の中には、燻された木の匂いと、土の匂いが満ちていた。
炭焼き師の熊七が、熊のような背中を丸め、黙々と炭を選別している。彼が朔の指示で特別に焼いた、柳の炭である。通常の炭よりも柔らかく、指で砕けばすぐに黒い粉になった。
朔は、薬師の又八を助手とし、石臼の前に座っていた。
臼の中には、先日、近隣の村々から集めた古土より精製した硝石が、白い雪のように入っている。そこへ、利吉が持ってきた硫黄を、天秤で正確に量り、加えた。最後に、熊七が選んだ柳炭の粉末を、そっと流し込む。
三つの粉が混じり合う。白と、黄色と、黒。それは、命を育む土の色ではなかった。死の色だ。
「……又八、水を少しずつ」
朔の低い声に、又八はごくりと唾を飲み込み、頷いた。竹筒を慎重に傾け、水を数滴、垂らす。
湿り気を得た黒い粉を、朔は丹念に杵で搗き、混ぜ合わせていく。ぎ、ぎ、と石臼の擦れる音が、小屋の中に重く響く。それは、時代の軋む音のようでもあった。
作業のすべてを、小屋の隅で一人の男が見ていた。塗師の宗治である。
彼は、噴霧器の部品に漆を塗るという名目で、この小屋への立ち入りを許されていた。その感情の読めぬ静かな瞳が、朔の手元で生まれる黒い粉を、冷たく見据えている。
やがて、練り上がった黒い塊を、朔は薄く延ばして乾かし始めた。半刻ほど後。完全に乾いたそれを、朔は再び砕き、麻の布でふるい、粒の大きさを揃える。
黒く、艶のある粒。
朔は、その一粒を指でつまむと、火縄の先に置いた。じゅっ、と音を立てて火が移る。次の瞬間、ぱん、と乾いた音が弾け、白い煙が立ちのぼった。
成功だ。
又八が「おお」と息を呑み、熊七の肩から力が抜ける。だが、朔の顔に喜びはなかった。ただ、己が生み出してしまったものの重さを噛みしめるように、じっと煙の行方を見つめている。
宗治もまた、表情一つ変えなかった。彼は、この黒い粉の価値を、百姓の護身具などという尺度では測っていない。国を盗るための、力として査定していた。主君、松永久秀への報告が、また一つ増えた。
◇◇◇◇
その日の夕刻、村に一人の僧が訪れた。
京の臨済宗の寺から来た、慶順と名乗る僧であった。年の頃は四十ほどか。頬はこけ、着古した墨染めの衣の下で、骨の形が浮き上がって見える。
何日も食うものがないのだろう。だが、その落ち窪んだ眼窩の奥で、一対の瞳だけが、りんとした光を失っていなかった。傍らには、まだ十にも満たぬであろう小僧を一人、連れている。
「……何とぞ、お慈悲を」
慶順は深く頭を下げた。その声は、長く歩き続けた疲れでかすれていたが、張り詰めた響きがあった。
「京は……もはや、この世の地獄でござる」
慶順は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「はじめは、まだ良かったのです。野山の木の実を食い、草の根を食らい、川の魚を捕り……。なれど、それも食い尽くし、人は……人は、京を目指し始めた。そこに行けば、何か食うものがあると」
「今年の正月には、東寺の弘法大師様が汗をかかれたとか。凶事の前触れだと、皆が噂しておりましたが……まさか、これほどの地獄となるとは」
「もはや、人の道ではござりませぬ。上京、下京を合わせ、日に六十を超える亡骸が、ただ道端に打ち捨てられる。醍醐寺の厳助様も、『七百年来の飢饉』と嘆いておられるとか」
「室町殿の御下命で、五条の河原では施しの粥が出ましたが……飢えきった体に、急に物が入る。そのまま、笑うように死んでいく者もおりました。地獄でござろう」
「我らも、天龍寺様や相国寺様も、施餓鬼を行いました。なれど……集まるは、人の皮を被った餓鬼の群れ。米を奪い合い、殴り合い、しまいには……施しをしていた僧を打ち殺し、米を泥水の中にぶちまけてしもうた」
「打ち捨てられた亡骸から、悪しき病も広まっております。もはや、公家衆や高位の御方も、都を見捨てて縁を頼りに東国や西国へ下っておられる。このままでは、京は……人の住む場所ではなくなりまする」
「飢えたる民に、一握りの糧を……」
朔は、黙って慶順の顔を見ていた。その瞳の奥に、己の利を求めぬ、ただ人を救わんとする純粋な光を見た。
前世の記憶が、かすかに疼く。人を救う。そのために、自分もかつては異国にいたはずだった。
「……分かった」
朔は短く答えた。
「米を五俵。それと、すぐに食えるよう里芋を五俵、持っていかれよ」
「おお……」
慶順の顔が、驚きと感謝に輝いた。
「ありがたき幸せ……」
深々と頭を下げようとした慶順の体が、ぐらりと傾いだ。傍らの小僧が、慌ててその体を支える。
「慶順殿」
朔の静かな声が、場に響いた。
「その体で、京までの道行きは無理だ」
「……いや、しかし」
「三日。三日の間、この村に逗留されよ。粥を食い、少しでも体を養うのだ」
「なれど、我らが食らう一杯の粥があれば、京で一人の赤子が命を繋げましょう。お気持ちだけ、ありがたく……」
慶順が、か細い声で固辞する。
朔は、その僧の澄んだ目を見返した。
「では、話は別だ」
ぴしゃり、と言い放つ。
「養生せねば、米は一粒たりとも出さぬ。ここで倒れられては、こちらの寝覚めが悪い」
それは、有無を言わせぬ響きを持っていた。非情なほどの、合理性。慶順は、驚いたように朔の顔を見つめ、やがて、力なく頷いた。
◇◇◇◇
慶順の逗留は、村に思わぬ安らぎをもたらした。
この水江村にも、村はずれに小さな一向宗の堂があった。なれど、数年前の一向一揆の折、住職が門徒を率いて石山本願寺へ駆けつけたきり、戻ってきてはいない。以来、村には経をあげる者がいなかったのだ。
慶順は、宗派の違いを問わず、作兵衛をはじめ、この冬に死んだ者たちのために、読経をあげてくれた。朗々とした声が、冷たい風に乗って村に響き渡る。弥平も、タエも、そして権爺でさえも、その声に静かに手を合わせていた。久しぶりに聞く仏の声は、荒んだ人の心を、じんわりと温めるようであった。
その夜。
朔は、母屋の囲炉裏を挟み、慶順と向かい合っていた。ぱち、ぱち、と薪の爆ぜる音だけが、静寂を破る。
「慶順殿」
朔が、ぽつりと言った。
「俺は、この村を守るためなら、鬼にもなろうと思っている」
慶順は、黙って聞いている。
「人を欺き、法を曲げ、時には……人を見殺しにもする。そうせねば、守れぬからだ」
囲炉裏の炎が、少年の顔に深い影を落とす。
「人の心を失くした獣が、人を守るなどと……。これは、まこと、人の道にござるか」
それは、誰にも見せたことのない、十一歳の少年の、魂の叫びであった。
慶順は、静かに茶を一口すすった。
「……朔殿」
その声は、穏やかであった。
「仏の慈悲にも、二つの相がございまする」
「二つの……」
「一つは、衆生を優しく包み込む、菩薩のようなお顔。もう一つは、悪しきものを断ち、仏法を守るための、憤怒の形相……明王のお顔でございます」
慶順は、炎を見つめたまま、続けた。
「どちらも、根は同じ。衆生を救わんとする、大いなる慈悲の心。もし、朔殿が背負うものが、村人を救うための憤怒の相であるならば……。その重き業、それこそが、あなたの道なのではありますまいか」
「……俺の、道」
「ただ、お忘れなさるな。明王といえど、その御心には、常に菩薩がおわします。人の痛みを、お忘れなくば……道は、見誤りますまい」
◇◇◇◇
三日後。慶順の顔には、いくらか血の気が戻っていた。骨と皮ばかりであった体にも、力がみなぎるのを感じる。
慶順は、旅立ちの支度を整えると、朔の前に進み出て、深く頭を下げた。
「朔殿。……何とお礼を申せばよいか」
その声は、村に着いた時のか細い響きを失い、澄んだものとなっていた。
「あの時の御身の、非情とも思えるお言葉がなければ、わたくしはとうに野垂れ死んでおりました。まことの慈悲とは、ああいうものなのやもしれませぬな」
「甚兵衛」
朔は、慶順の言葉には答えず、傍らに控える男を呼んだ。
「はっ」
「おぬしの配下から、腕の立つ者を二人、選んでくれ。慶順殿を京までお送りするのだ」
甚兵衛は、流民の中から選び抜いた、信頼の置ける男二人を呼んだ。村の警備を任され、今では村の一員として扱われている男たちだ。
「慶順殿」
朔は、慶順の前に進み出た。
「それだけでは、足しにならぬやもしれぬ」
朔は、傍らの彦太から小さな革袋を受け取ると、それを慶順の手に握らせた。じゃり、と乾いた音がした。砂金だ。
「こ、これ以上は……! 仏罰が当たりまする」
「薬を買うなり、人を雇うなり、好きになされよ」
「……」
「良いから、持っていかれよ」
男たちは恭しく頭を下げたが、その目の端は、慶順が慌てて懐にしまった革袋に向けられていた。
◇◇◇◇
悲報がもたらされたのは、翌日の昼過ぎのことだった。
慶順に付き従っていたはずの小僧が、一人、血と泥にまみれた姿で村に転がり込んできたのである。
「……慶順様が……慶順様が!」
小僧は錯乱し、言葉にならない叫びを繰り返す。
事態を察した朽木玄斎が、すぐに村の男たちを数人、手配した。甚兵衛も、槍を手に駆けつける。その顔は、能面のように無表情であった。
小僧が指し示す街道脇の雑木林へ向かうと、そこには無残な光景が広がっていた。大八車は見るも無惨に打ち壊され、米俵は引き裂かれて中身がぶちまけられている。
そして、その傍らに。慶順が、倒れていた。頭を鈍器で殴られたのだろう。もはや息はなかった。護衛につけたはずの、あの男二人の姿はどこにもない。
「……畜生め」
誰かが吐き捨てる。
甚兵衛が周囲の地面を検めたが、すぐに首を横に振った。
「足跡は無数にありまする。それに、半日以上が経っている。追跡は……なりませぬ」
男たちは、悔しげに唇を噛む。この戦国の世では、法の及ばぬ悪意など、そこかしこに転がっている。
慶順の亡骸は、村へ運び帰された。筵の上に横たえられた亡骸を、朔はただ、無言で見下ろしていた。
自責の念が、冷たい鉄のように胃の腑に沈む。己の人選ミスではない。あの金を渡した、己の甘さがこの僧を殺したのだ。慈悲が、欲を煽り、牙を剥かせた。善意が、いとも容易く踏みにじられる。それが、この時代の理か。
ふと、隣に立つ朽木玄斎が、静かに呟いた。
「……詮無いことよ」
それは、慰めの言葉ではなかった。ただ、事実を事実として受け入れろ、という無言の圧であった。
朔は、固く拳を握りしめた。爪が掌に食い込み、血が滲む。痛みだけが、現実であった。
◇◇◇◇
慶順の粗末な葬儀が終わった。村は、沈鬱な空気に包まれている。
朔は、門の前で、旅支度を整えた二人を見送っていた。一人は、主を失った小僧。もう一人は、槍を背負った甚兵衛である。彼らの傍らには、新たに用意された米俵が積まれている。
「……朔様」
小僧が、涙の跡の残る顔を上げた。
「必ずや、このお米を京へ届けまする」
朔は、何も言わずに頷いた。そして、甚兵衛に向き直る。
「頼む」
「はっ」
甚兵衛は、短く応えただけだった。その一言に、彼のすべての覚悟が込められている。
二人は、村人たちに見送られ、京へと向かう街道を歩き始めた。朔は、その小さな背中が見えなくなるまで、ずっとその場に立ち尽くしていた。
自らの計算の甘さが招いた、一つの死。それでもなお、その死者の理想を未来へ繋ごうとする、己の意志。その矛盾を、彼は胸に抱き続けるしかない。
守るとは、何か。救うとは、何か。
北風が、少年の頬を鋭く撫でていく。その瞳から、最後の甘さが、消え失せていた。




