居場所
天文九年(一五四〇年)、正月の空は、どこまでも鉛色をしていた。
水江村をぐるりと囲む木壁は、ついに完成している。
凍てついた土に、真新しい松の杭がずらりと並んだ。北風が吹き抜けるたび、削られたばかりの木肌から、樹脂の匂いが冷たく立ちのぼる。
物見台の上で、朔は腕を組み、じっと息を詰めていた。十三歳になったばかりの身体を、継ぎ当てだらけの分厚い小袖が包んでいる。
その眼は、壁の外、その先の淀んだ空気を見ている。
「弥平」
声は、風に流されぬよう、低く、重い。
「へえ」
「堀を掘る。人足は、壁の外の者どもから募れ」
日雇いの銭は、その日の終わりに渡される一袋の麦と、日に二食の湯気の立つ粥であった。
壁の外には、飢えた流民が獣の群れのようにうずくまっていた。人足の口は、その数に比べれば、あまりに少ない。
◇◇◇◇
壁の外の空気は、血の匂いを吸って、日増しにささくれ立っていく。
普請場。堀を掘る男たちと、仕事にあぶれ、壁に張り付く男たち。その間で、いさかいが起こった。
三郎太という、痩せこけて頬骨が浮き出た男。彼は、人足頭の甚兵衛が目を離した隙に、積み上げられた麦の袋に手を伸ばした。
「てめぇ!」
人足頭の男は、元足軽崩れで、肩だけが異常に厚い。
彼は、三郎太の頭を、持っていた鍬の柄で打ち据えた。鈍い音。
「この麦は、水江村の麦だ!」
人足頭が、唾を吐きかける。
三郎太は、土に顔を叩きつけられたまま、血走った眼を動かし、人足頭の腰に差された錆びた小刀へと手を伸ばした。
土埃の中に、殺気が満ちる。周囲の流民たちは、どちらにも加勢しない。ただ、そのやり取りを、濁った、底冷えのする眼で見つめている。
◇◇◇◇
作兵衛の家は、壁の外、川べりにあった。
「わしは、ここで生まれ育った。ここを動くくらいなら、死んだ方がましじゃ」頑として引っ越しを拒んだ、男の意地。
囲炉裏の火が、ぱちり、と音を立ててはぜた。薪の湿った煙が、目にしみた。
外で、多くの足音がした。凍てついた土を、靴底が踏みしだく、不規則な、重い、集団の足音。一つではない。十を優に超えている。
作兵衛は、音を殺して立ち上がり、樫の棒を、強く握った。
「おまえは、子らを連れて裏から逃げろ。村へ」
「いやだ!」
「いいから、行け!わしは、ここで、じい様たちといる!」
木戸を、何人もの男が一斉に体当たりする、鈍い轟音。 乾いた木材の繊維が砕け、割れる音。
作兵衛が、砕けた戸の隙間に見えた顔を、確かに認めた。
「てめえは!」
女房の短い悲鳴。そして、闇の中に、松明の炎が、橙色の大きな花のように咲いた。
◇◇◇◇
作兵衛の妻子が、血と煤にまみれて村の門に転がり込んできたことで、村人たちの恐怖は、燃えさかる怒りへと変わった。鼻を突く、血と焦げた木の匂い。
「……掃除をする」
朽木玄斎が、静かに言った。
追跡は、容易かった。根城は、川べりの廃屋。中から、悲鳴のような、甲高い笑い声が漏れていた。狂気の声だ。
甚兵衛が、槍の穂先を前に、身を低くして飛び込んだ。玄斎が続く。
悲鳴と怒号は、すぐに止んだ。甚兵衛が踏み込んだ土間には、野盗の男たちが倒れ伏していた。辺りには、鉄と血の臭いが立ちこめている。
囲炉裏の隅。そこが、この世の地獄であった。幼い子らが三人、うずくまっている。その傍らに、小さな碗に盛られた、白い米粥がこぼれていた。
湯気が細く立ちのぼる。米の甘い匂いに、廃屋の泥が混じる。
男たちは、この米を、子に食わせたかったのだ。
だが、長い飢餓から、急に白い飯を食った。胃がその豊かな糧を受け止めきれず、命は、その米と共に果てた。
子どもの死骸を抱き、泣き笑いのような、けたたましい声で笑っていた男。
「わ、わははははは!米だ!白い米を食うて死にやがった!作兵衛、お前を殺して奪った、呪われた飯だ!わはははは!」
吉蔵が、狂気の哄笑とともに叫んだ。
玄斎は、その痩せ衰えた顔を、じっと見据えた。
「吉蔵……お主であったか」
玄斎の声が、低く響く。
「作兵衛はな、お主の村八分を、唯一止めようとした男であったぞ」
狂笑が、一瞬、ぴたりと止まる。
「――作兵衛に頼み込めば、一握の米程度くれてやっただろうに…」
男は、かつて朔を憎悪し、村を捨てた百姓、吉蔵であった。 飢餓で人目では分からぬほど変わり果てていたが、その濁った眼差しには、確かに以前の憎悪の炎が残っていた。
吉蔵の眼の奥に、一瞬、人間の理性が戻った。 その顔に、絶望と後悔が走る。その男を、甚兵衛の槍が、音もなく貫いた。
朽木玄斎は、顎の無精髭をなでた。男たちの屍と、子らの死顔。飢饉とは、人を鬼に変え、食わせる米すら毒に変える。
無常。それだけが、この場の真実であった。
◇◇◇◇
隠し村は、静かだった。塗師の宗治は、離れの谷に建てられた作業所で、大きな鉄釜の様子をじっと見ていた。宗治は、松永久秀の密偵・柳田甚内の部下である。
その作業所の周囲には、連日、近隣窮乏村からの使者が来ていた。
彼らは、古びた筵に包んだ土の俵を、息を切らして運び込む。
一つが三俵、多い村は五俵にもなった。
土を受け取った男衆は、見返りとして、里芋と種籾を渡す。
朔の指示は明確だった。
「土のほか、村の肥溜め《こえだめ》の糞尿も買い取れ。これも種籾と交換だ」
種籾を懐に、里芋の入った籠を背負った村の男たちは、それを大切そうに胸に抱え、凍てついた山道を帰っていく。
その横で、朔が、硝石の精製手順を説明していた。
そして、その横で、薬師の爺、又八が、熱湯の温度を確かめるように指を浸している。
朔は、宗治への警戒心を抱いていない。
「まずは、この三つの木桶だ。熱湯は、古い土から注ぎ、三つの桶を順に巡らせる」
朔は、最も新しい土をくぐり抜けて出てきた液だけを、大きな鉄釜へと溜めさせた。
宗治の目が動く。(最小限の湯で、最も濃い液を。理にかなった仕組み…)
強火で煮詰め、液が飴のように粘り始めたところで、又八が別の木桶から、灰を溶かした水(灰汁)を、小さな匙で測りながら加えた。
白い沈殿物(炭酸カルシウム)が起こる。反応が終わった液は、熱いうちに麻布で濾され、再び釜に戻された。
さらに煮詰める。液面には、白い泡と共に、ジャリジャリとした塩の結晶が現れ始めた。
「又八、それを取れ。丁寧にすくい取るのだ」
朔が声をかける。
宗治は、この作業が、火薬の威力を損なう不純物(食塩)を先に取り除く、精妙な手立てであることを見抜いた。
食塩を取り除いた飽和溶液は、別の浅くて広い木桶に移された。
宗治は、この桶を以前朔の指示で自分が膠を塗布したことを思い出した。
(…あの時の広い桶は、このためであったか)
桶は藁で蓋をされ、一晩かけてゆっくりと冷やされた。
翌朝、木桶の底には、雪のように、針のような白い結晶が大量に析出していた。
水に溶けにくく、火に触れると爆発的に燃える、硝石。
宗治は、朔の知識が、単なる農法に留まらぬ、軍事技術の領域にまで及んでいることを確信した。
◇◇◇◇
一月も半ばを過ぎた頃、商人・利吉が、三人の娘を連れて帰ってきた。
昨年、飢饉のために沢西村の農夫の娘として、別々の場所へ売られていった娘たちだ。朔が、大金を出して買い戻させたのである。
沢西村の名主・源吾は、門前で涙を流して娘たちを抱きしめた。
しかし、その喜びは長くは続かなかった。
娘たちの身なりは、売られた先での過酷な日々を物語る。
垢にまみれた小袖の下は痩せこけ、肌は荒れていた。
一番年かさのお里は、頬に深く刻まれた爪の引っ掻き傷を隠すように、常に俯いていた。
囲炉裏を囲む。湯気の立つ粥の匂いは、お里にとって、故郷の安堵を思い起こさせた。
だが、その安堵は、瞬時に「なぜ、自分だけが」という激しい恨みに変わった。
「おとっつぁんたちは、うちを売った金で、こないな暮らしをしとったんか」
お里の声は、硬く、冷たかった。
家族を守るために自分が犠牲になったはずなのに、故郷は豊かになっている。
飢えと寒さの中で、己の身体が踏みにじられていた地獄のような日々と、眼前にある、湯気の立つ粥。その対比が、彼女の心を容赦なく引き裂く。
「わしらがおったところは、こんな温かい匂いはせなんだ…」
安堵の涙と、捨てられた悲しみが、嫉妬という名の毒となって、彼女の瞳に宿る。
村人たちの目も、冷たかった。
同情と、侮蔑が入り混じった無言の烙印が、娘たちの背中に押されている。
彼女たちにとって、故郷はもはや安らげる場所ではなかった。
◇◇◇◇
朽木玄斎の小屋は、川魚を焼く煙が立ち上っていた。
囲炉裏で、串に刺した岩魚が、ぱちぱちと音を立てて脂を落とす。
「……俺が、甘かった」
朔の声は、か細く、唇の端に血が滲むほど、強く噛み締めていた。
彼は、焼けた魚に手を伸ばそうともしない。
玄斎は、欠けた杯の濁り酒を、ぐい、と一口あおった。
「おぬしの甘さが、作兵衛を殺したのだ」
静かだが、有無を言わせぬ響きがあった。
「法は貴きに阿らず、縄は曲がれるに撓まず。曲がった掟では、誰も守れん」
韓非子の言葉だった。
「全てを救おうなどと思うな。それは神仏の仕事だ」
玄斎は、岩魚の骨だけになった串を火の中に放った。
「人の長が為すべきは、誰を救い、誰を見捨てるか、その勘定を違えぬことよ」
そのとき、源吾が息を切らして駆け込んできた。
沢西村の名主は、戸口でつまずき、這うようにして、朔の前に進み出る。
源吾は、凍った土間に額をこすりつけた。肩が、小刻みに震えている。
「朔殿……頼む。あの子らに……あの子らに、新しい居場所を……。隠し村で、匿ってはくださらんか」
朔は、黙って源吾を見ていた。その顔から、子供らしい甘さは消え失せていた。
◇◇◇◇
源吾が去った後、朔は一人、完成した物見櫓の最上段に立っていた。
吹き付ける北風が、頬を切りつけるように冷たい。
眼下には、堀と壁で守られた水江村の家々。
夕餉の支度をする煙が、細く立ち上っている。静かで、安全な「場所」。
だが、彼の視線は村を通り越し、遠い雪を頂いた山々――隠し村のある方角――へと向けられていた。
安全な場所を創るために、そこから弾き出される者たちを収容する、もう一つの暗い場所を創ってしまった。その矛盾が、その身に余る重荷を背負った少年の肩に、凍った鉄のように重くのしかかる。
「……それで、いい」
誰に言うともなく呟いた声は、北風にかき消された。
彼の瞳には、統治者としての凍てついた光だけが宿っていた。
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ストック残1なので休み中に頑張ります!




