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雲霞、来たる

 雨が、やまない。


 何日も、何日も、空は鉛色の雲に覆われたままだ。

 茅葺かやぶきの屋根を叩く雨音は、はじめこそ単調であったが、やがて聞く者の気力をじわりじわりと削り取っていく、陰鬱な響きに変わっていった。


 村の道という道は、ことごとく泥沼と化した。

 家の戸を開ければ、湿った土の匂いと、腐りかけた草の匂いがむわりと鼻をつく。


 さくは、家の土間でじっとその雨を眺めていた。

 十歳の童の目には、しかし、ただの長雨とは映っていない。


 あの田は、もう駄目だろう。

 あぜ道に近い稲は、根が腐りはじめている。

 日照りが足りぬせいで、稲の育ちが悪い。穂も、例年の半分ほどしかつくまい。


 年貢を納めれば、村に残るのはわずかなあわひえばかり。

 冬を越せぬ者が出る。


「見られるな、知られるな、目立つな」


 己に課した掟が、胸の内で重くのしかかる。

 水路を深くすれば、いくらかは水が引ける。だが、十歳の童の言葉に、誰が耳を貸そうか。


 雨がようやくあがったのは、八月に入ってからであった。

 されど、村人たちの顔に喜びの色はない。

 長雨が残していった置き土産は、あまりに厄介なものであった。


 雲霞うんかだ。


 稲の根元に、茶色の小さな虫がびっしりと張りついている。

 例年であれば、さほど気にする数ではない。

 なれど、今年は違う。

 湿った土と弱った稲が、この虫たちにとって、またとない住処すみかとなったのだ。


 じ……。


 耳を澄ませば、田のあちこちから、無数の虫が稲の汁を吸う、かすかな音が聞こえてくる。

 それは、村の命が静かに吸い尽くされていく音であった。


「これでは、神仏に祈るよりほかあるまい」


 寄合の席で、長老の権爺ごんじいが、黒光りするかしの杖を床に突き立てていった。

 彼の言葉は、惣村そうそんの掟そのものである。

 逆らう者など、この水江村みずのえむらにはおらぬ。


 その日の黄昏時。

 村の男たちが、松明たいまつを手に田のあぜ道に集まった。

 権爺を先頭に、かねや太鼓を打ち鳴らし、村中を練り歩く。

 古くから伝わる「虫送り」の儀式であった。


「悪虫退散ッ、五穀豊穣ッ」


 野太い声が、夕闇に吸い込まれていく。

 燃え盛る松明の火が、男たちの必死の形相を赤黒く照らし出す。


 朔は、少し離れた場所から、その光景を黙って見ていた。

 馬鹿げたことだ、とはおもわない。

 他にすべを知らぬのだ。こうでもしなければ、彼らは心を保てぬのだろう。

 ただ、やりきれない。

 その松明を燃やすときと、太鼓を叩く力があれば、もっと別のことができるはずなのに。


 儀式は、夜半まで続いた。

 だが、夜が明けても、稲の根元に群がる雲霞の数は、一匹たりとも減ってはいなかった。

 むしろ、増えているようにさえ見える。

 村には、声にならぬ絶望が、じっとりと満ちはじめた。


 儀式が終わった翌日も、村の空気は重かった。

 朔は、足を村はずれの川べりへ向けた。

 朽木玄斎は、いつものように釣り糸を垂れていた。

 朔がそばに立つと、玄斎は、川面から目を離さぬまま、ぽつりと言った。


「来たか」

「……」

「立て」


 朔は、言われるままに構えた。

 まだ、体に馴染まぬ動きだ。


「わしが動く。今度は、避けてみろ」


 玄斎は、釣り竿を置くと、すっ、と立ち上がった。

 老人のものとは思えぬ、静かな動きであった。

 風が、竹藪を揺らす音だけが聞こえる。


 玄斎の肩が、わずかに沈む。

 ――来る。

 朔は、咄嗟に体を右へひねった。

 玄斎の掌が、朔の左肩があった場所を、風を切って通り過ぎる。


「ほう……」


 玄斎の口元に、かすかな笑みが浮かんだ。


「見えたか」

「……なんとなく」

「その『なんとなく』が、生死を分ける」


 玄斎は、朔の目を見た。


「お主のその目だ。いずれ災いを呼ぶ、と言ったのを覚えておるか」


 朔は、こくりと頷いた。


「災いとは、侍の太刀だけではない。村人の、嫉みや恐れもまた、人を殺す刃となる」


 玄斎の言葉が、妙に胸に突き刺さった。


 ◇◇◇◇


 その夜、朔は一人、村はずれの雑木林にいた。

 昼間のうちに、あたりを調べ、使えそうな草木は摘んでおいた。

 よもぎ、どくだみ、それから、野蒜のびるに似た強い匂いのする草。


 脳裏に、遠い記憶がよみがえる。


 ……強い日差し。肌を焼くような熱気。

 乾いた土の匂いと、汗の匂い。


 目の前では、褐色の肌をした村人たちが、石臼で緑の葉を懸命にすり潰している。

 ニーム、と呼ばれる木の葉だ。


「これを水に溶かして撒けば、虫が寄りつかなくなります」


 片言の現地の言葉で、田中健司たなか・けんじであった頃の自分が説明している。

 村人たちの、疑いと期待が入り混じった眼差し。


 記憶は、不意に途切れた。

 目の前には、日本の、戦国の世の夜の闇が広がっている。

 ニームなど、ここにはない。

 だが、原理は同じはずだ。虫が嫌う、強い匂いと苦み。


 朔は、小さな火をおこすと、持ってきた小鍋に水を張り、摘んだ草木を次々と放り込んで煮詰めはじめた。


 鼻をつく、青臭く、苦い匂いが立ち上る。

 効くかどうかは、分からぬ。

 だが、何もしないでいることには、もう耐えられなかった。


「朔……?」


 背後から、母タエの声がした。

 朔の肩が、びくりと震える。

 振り返ると、そこに母が、信じられぬものを見るような目で立ち尽くしていた。

 その手には、夕餉ゆうげの残りの粟粥あわがゆを盛った椀が握られている。

 夜食にでも、と持ってきてくれたのだろう。


「お前さん、そげな場所で、何を……」


 母の視線が、怪しげに泡立つ鍋へと注がれる。

 その顔から、さっと血の気が引いていくのが分かった。


「これは……」

 朔が何かを言いかけるより早く、母が鋭い声を上げた。


「やめなさいッ!」


 その声は、怒りよりも、恐怖に震えていた。

 母は数歩、後ずさる。


「そ、そげな気味の悪いことを……。いったい、誰に教わったんだい」

「違う、母さん。これは、虫を追い払うための……」

「言い訳はいい!」


 タエは、椀を取り落としそうになるのを、必死でこらえている。

 その目に浮かぶのは、息子への愛情と、それと同じくらい強い、理解できぬものへの恐れであった。


「わしはな、ずっと見てきただよ。お前が、他の子らとどこか違うことくらい、とくに気づいておる」

「……」

「お願いだから、普通にしておくれ。みんなと同じようにしておくれでないか」


 母の目から、涙がこぼれ落ちた。


「そげな気味の悪いことをすれば、村八分にされる。そうなったら、お前はどうやって生きていくんだ!」


 村八分。

 この時代の、共同体で生きる者にとって、それは死の宣告に等しい。

 誰からも助けられず、見捨てられ、静かに朽ちていくだけの罰。

 母の恐怖は、この時代の人間が抱く、根源的な恐怖そのものであった。


 朔は、何も言えなかった。

 母を安心させるための言葉も、自分の行いを弁護する言葉も、何一つ見つからなかった。

 ただ、母の涙が、鉛のように心を重く沈めていった。


 ◇◇◇◇


 朔は、その惨状の中心で、ひとつの光景に目を奪われていた。

 幼馴染のおふみの家だ。

 彼女の家の田は、村でもとりわけ小さい。一家が一年を食いつなぐための、なけなしの田だ。

 その田が、今まさに、目の前で喰い荒されていく。


 田の前にうずくまる、おふみの小さな肩が、小刻みに震えている。

 朔が近づくと、彼女はゆっくりと顔を上げた。その頬に、ひとすじ、涙の跡が光っている。


「……朔」


 おふみの声は、しゃくりあげるのをこらえるように、かすれていた。


「うちの、お稲荷さま……。病気なのかなあ……」


 彼女の父親は、血の気の失せた顔で、ただ呆然と立ち尽くしていた。その拳は、固く、白くなるまで握りしめられている。土を掴もうとして、力なく指が空を切った。

 その静かな絶望が、どんな叫び声よりも、鋭く朔の胸を抉った。


 朔の内で、二つの声がせめぎ合っていた。

 ひとつは、今を生きるための、冷徹な声だ。


 ――動くな。掟を破れば、お前が危うくなる。理解の及ばぬ知恵は、この時代の人間にとっては妖術と同じだ。それは畏れと嫉妬を呼び、いずれ災いを招く。一人の友を救っても、村全体は救えぬ。それは無駄なリスクだ。


 もうひとつは、心の奥底から湧き上がる、抗いがたい声だった。

 ――おふみが、泣いている。


 脳裏を、前世の記憶が焼けた鉄のようにぎった。

 土砂降りの雨の中、濁流に消えていく小さな背中。伸ばした腕が、空しく水面を掻いただけの、あの日の絶望。

 目の前の命を見過ごしたあの悔いが、今も朔の魂を苛んでいた。


 朔の小さな手が、固く握りしめられた。

 爪が、掌に食い込む。


 見られるな。知られるな。目立つな。

 己の生存だけを考えれば、それが正しい。

 だが、その掟を守り通した先に、何があるというのだ。

 友の涙を見捨てて生き延びた世界に、自分が守りたかった「平穏」は、存在するのだろうか。


 ◇◇◇◇


 陽が傾き、赤黒い光が、喰い荒らされた田を不気味に照らし出す。

 村人たちが、力なく家路につくなか、朔はひとり、その場に立ち尽くしていた。


 彼は、おふみの一家が、とぼとぼと小さな家に消えていくのを、最後まで見送った。

 そして、ひとつ、深く、震えるような息を吸った。


 決めた。


 朔は、くるりと身を翻した。

 自分の家へではない。

 誰にも見られぬよう、村はずれの森と、夜の闇が支配する場所へ向かって。

 たった一人、彼は駆け出していた。

 後戻りのできない一線を、越えるために。

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